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石田波郷の全句集が収録されており、波郷の句業を一望できる。
1500円なので、とてもお買い得だ。

波郷の名言が詰まった随筆・評論・自句自解・俳論なども選りすぐりを収録している。

石田波郷は大正2年、愛媛県松山の生まれ。
少年期より俳句を始め、五十崎古郷(いがさき・こきょう)に師事しながら、水原秋櫻子(みずはら・しゅうおうし)の「馬酔木」へ投句を始める。

秋の暮業火となりて秬は燃ゆ (あきのくれ ごうかとなりて きびはもゆ)
秬焚や青き蝗を火に見たり (きびたきや あおきいなごを ひにみたり)

などにより、弱冠20歳で「馬酔木」作品集の巻頭を獲得した。
これを機に上京し秋櫻子の信任を得て編集長に就任し、俳句の新しい旗手として活躍した。

その後、「鶴」という結社を20代で創刊主宰し、気高い韻文精神の俳句を標榜、珠玉の作品を残した。
戦争後は亡くなるまで、肺の病と闘いながら昭和44年に56歳で没した。

波郷作品の素晴しさ、凄さは、句集を出すたびに、新しい俳句展開をわれわれに示しているところだ。
初期の作品には、

昼顔のほとりによべの渚あり (ひるがおの ほとりによべの なぎさあり)

などのような、習作時代らしい「馬酔木」調の美。
上京後の都会的な華やかさが加わった叙情俳句、

バスを待ち大路の春をうたがはず (バスをまち たいろのはるを うたがわず)
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ (プラタナス よもみどりなる なつはきぬ)
夜桜やうらわかき月本郷に (よざくらや うらわかきつき ほんごうに)

「『猿蓑』と競う」と称した格調の高い韻文精神に満ち溢れた作品、

初蝶やわが三十の袖袂 (はつちょうや わがさんじゅうの そで・たもと)
朝顔の紺の彼方の月日かな (あさがおの こんのかなたの つきひかな)
槙の空秋押し移りゐたりけり (まきのそら あきおしうつり いたりけり)

戦後の焦土を詠った「焦土俳句」、

はこべらや焦土のいろの雀ども (はこべらや しょうどのいろの すずめども)
立春の米こぼれをり葛西橋 (りっしゅんの こめこぼれおり かさいばし)

胸部の度重なる手術やその療養時代の「療養俳句」、

今生は病む生なりき烏頭 (こんじょうは やむしょうなりき とりかぶと)
綿虫やそこは屍の出でゆく門 (わたむしや そこはかばねの いでゆくもん)
雪はしづかにゆたかにはやし屍室 (ゆきはしずかに ゆたかにはやし かばねしつ)

など、人生の環境が変わってゆく度に、次々と新しい俳句世界を展開した。
そのどれもが波郷の真実であり、すべてが波郷の代名詞である「境涯俳句」なのである。

波郷は生前「俳句は私小説である」と言い、自己の身辺から俳句を離さなかった。
波郷のこの固執が、いい結果を生んだのか。
私は、波郷が私小説的な俳句ばかりではなく、芭蕉のような自然や時空、大きな宇宙観なども視野に入れて作句に励んだら、さらに素晴しい作が生まれたであろうと思う。
しかし、波郷の興味はそういうことには全く無かったようだ。
それはそれで、逆に波郷の魅力でもあり、頑固なほどの波郷の生き方、俳句信条が見える作品や文章は、われわれに憧憬を持って大きく聳え立っている。
この「波郷読本」にはそういった波郷の魅力が溢れている。


仕事帰りの夜道を歩いていた時、外灯に触れんばかりに若葉を広げていた街路樹を見たときに、

プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ (プラタナス よもみどりなる なつはきぬ)

と呟いてみる。
たちまちにこの句が好きになるだろう。
波郷の句はある日突然、体験によって迫ってくるリアリティイーがあるのだ。

私は数年前不規則な生活が祟って、急性肝炎になったことがあった。
何週間も病院でじっとしていながら、もう若い頃のように無理がきかない年齢になったことを痛感した。
退院の日が、丁度七夕の日であったので、、病院の入口に七夕竹が飾られていた。
その時ふっと波郷の、

七夕竹惜命の文字かくれなし (たなばただけ しゃくみょうのもじ かくれなし)

という句が頭に浮かび、しばらく頭を離れなかった。

この句は病気になり、ただただ病を恐れ、命を惜しんでいるのではないと思った。
自分にはもっとやりたいこと、やらねばならないことがある、そう思った時、心の底から「生きたい」と願う。
この句は「死への恐怖」ではなく、「生への希求」なのだ。
波郷の句には、境涯に執しただけあって、凄まじいリアルをもって胸に迫ってくると思うのである。