節分の鬼が親父を連れてゆく    林 誠司


この句は自信作なのではない。
むしろ駄句なのだが、私が初めて句会に出した句で、亡くなった吉田鴻司先生との思い出の一句であるので、思い出を書いてみたくなった。

句会では、三句を投句したのだが、30名以上も参加していた中で、「節分」の句を一人が選んでくれただけで、あとは誰も一句も選んでくれない、散々な結果だった。

それでも句会後、飲み会に参加し、句会指導をしていた鴻司先生の横に座らされた。
当時、先生は70代半ば、私は20代半ば、鴻司先生から見れば孫のようなひよっこであったが、先生はなにかと声を掛けてくれた。

飲み会は句会と違い、みんながそれぞれ好き勝手に句会の作品を批評する。

「お前はどんな句を出したんだ」

と鴻司先生に言われ、私はおそるおそる「節分」の句を言った。

父が癌になり余命わずかと医者に宣告された時であった。
節分の日に、「鬼は外!」と叫んで豆を撒いた時、

「この鬼が父をあの世に連れて行ってしまうのだろうか」

と思ったことを一句にしたのだが、みなからは「状況や背景を知らないので、ちょっと伝わりにくい」
と言われた。
「あとは…?」と聞かれたので、句会で一点も入らなかった、

オリオンが剣振りあげし八ヶ岳

という句を言った。
みんなは、

「『オリオンが剣を振り上げた』という俳句はいっぱいある」
「『八ヶ岳』でなくてもいいのではないか」

と口々に言っていた。
今ならば言っている事は理解できる。
だが、その時は俳句のことは何も判らず、みんなが何を言っているのかも、さっぱり判らない。
八ヶ岳でなくてもいいと言われても、「八ヶ岳で作ったんだから」などと思いながらも、あいまいにうなづいていた。
すると、話を聞いていた鴻司先生が、
「まあ、まあ」
と、みんなを制し、

「『オリオンが剣を振り上げたように、お父さんにも力強く生きて欲しい…』そう思ったんだよな」

と、ぽんと私の肩に手を置いた。

その瞬間、私は目の前が霞んだ。
涙が出てきたのだ。

その時に自分が本当に言いたかったことは何だったのか、わかったのである。
私はあの時、八ヶ岳の夜空に大きく剣を振りかざすオリオンの姿に、生き抜く力を見たのだ。
それは心の奥に、父の闘病の姿があったからだろう。
その思いが自然と滲み出てきたのであろう。
私はおぼろげながらではあるが、俳句の素晴しさを肌で感じたのである。

涙を堪えていた私に気付いた先生は、

「よし、お前気に入った。」

と言って、

「お前に俺の一字『司』をやるから、これからは『林誠司』にしろ」

と言われ、その時より私は、未熟ながらも俳人・林誠司になった。

あの時、二次会に行かず、鴻司先生と話をしなかったら、俳句を続けていなかっただろう。
そして、この時に私の俳句観は決まったと思っている。

俳句に駄句はない! 
どんな俳句にもその人の思いが無意識の裡に籠められているのだ。
それを的確に表現する修練をしていかなければならないし、他人の俳句も大きく広く鑑賞しなければならない。

鴻司先生は『河』の主宰代行・最高顧問として亡くなるまで「河」を支え続け、俳人協会賞を受賞され、一昨年に他界した。

私がわけのわからない俳句を出すと、
「誠司 俺はお前の名付親なんだぞ」
「お前の誠司は鴻司の一字なんだぞ」
と言われ、よく叱られた。
先生は「早く俺に追いつけ」と言いたかったのだと思う。

俳句は叙情の文芸。
自分の思いを自然や生活に託して詠う。
境涯の果てに諷詠がある。
そういった鴻司先生の俳句精神を受け継いでゆかなければいけない。
私が俳句を続けている理由の一つである。

破れたるところも春の障子かな   吉田鴻司