やぶ入の寝るやひとりの親の側   炭 太祇(たん・たいぎ)
(やぶいりの ねるや ひとりの おやのそば)



太祇は江戸時代、与謝蕪村とほぼ同時期に活躍した俳諧師であり、庶民の素朴で誠実な暮しの風景を生涯見つめ詠った名人である。

薮入は旧暦の1月16日、奉公人が休みをもらって、実家へ帰る日を言う。
昔の奉公人は正月と盆にだけ実家に戻ることができたので、奉公している子供たちにとっては、ひさびさに親元で過ごせる待ちに待った一日なのである。

落語に「薮入」という噺がある。
薮入の日、両親は朝から貧しいながらも精一杯のご馳走を用意し、子供の帰りを今か今かと待っている。
両親は奉公に出る前のやんちゃな姿しか知らないので、元気に家に飛び込んでくる姿を想像していたのだが、戻ってきた子供は奉公先で立派に成長し、玄関に入ると、

「父上様、母上様ごぶさたいたしております。
 その後お変わりございませんでしたでしょうか。
 今日は薮入でお休みをいただき、戻って参りました」

と丁寧に挨拶を述べて、深々と頭を下げる。
ビックリしたのは両親で、母親に突付かれた父親が、

「これは遠路はるばるご苦労様でございます。
 立ち話もなんでございますから、どうぞおあがりください」

と、わけのわからない挨拶をして、ちんぷんかんな会話が始まるというものだ。
その後は、親子打ち解け、楽しい一日を過ごすのだが、ほのぼのとしたいい噺である。

掲句は何か事情があって、この子には母親ひとり(あるいは父親ひとり)しかいないのだ。
それでも子供にとっては、親と会える待ちに待った日なのだ。
奉公先のこと、辛かったこと、楽しかったことなどを夢中になって親に話したのであろう。
そして夜になり、短い時間を惜しむように、その子は親の胸に抱かれるように眠ったのである。

私はこの句を呟くと、あたたかさと切なさが無性にこみ上げてきて、俳句は技術とか、そんなことよりも、こういう人間の誠実な暮らしをあたたかく見つめればそれでいいのではないか、と思えてくるのである。

最近は、「時代に沿った季語を」という理由から、すでに死語となった季語は歳時記からどんどん外されてゆく傾向にある。
仕方の無いことだとは思うが、この「薮入」という言葉は私にとって、太祇の句とともに無くなってほしくない季語である。