10月26日の日経朝刊”<わたし>はどこにあるのか” | めし、食ったか?

10月26日の日経朝刊”<わたし>はどこにあるのか”

めしは9月30日の朝。ああ、一ヶ月遅れだよ・・・。
さぁて、行ってきます・・・。

ところで、10月26日の日経朝刊は、日曜日でもあり、じっくり読ませる記事が多い。その中で今日は、読書コーナーで取り上げられたこの本”<わたし>はどこにあるのか”。

ヒトを解明するのに、特にその脳機能の研究に、ネズミやサルがよく用いられているらしいのだが、この本の筆者は否定的らしい。なぜなら、ヒトは他の生物とは決定的に異なる特別な存在だと。オイイントは脳のサイズ。脳のサイズが大きいほど、神経細胞の結合にコストが嵩む(こういう表現が日経っぽい)。遠くの神経細胞をつなぐ敗戦材料やスペースに限りがあるため、結合相手の大半は近傍の細胞となる。kの物理的制約の結果、ヒトの脳では情報処理プロセスが各局所で独自に行われる多次元的並列処理がメインとなる(これって、どんなコンピューターより、すごいことだ・・・)。そしてそれが自尊心や社会性や道徳性など、ヒト特有の思考癖をうむ遠因になる、そうだ。

なので、ネズミを調べたところで、ヒトは理解できない・・・。

たとえば、ヒトは擬人化を好む。ペットを見て”甘えたがっている””恥ずかしがっている”と、感じる。動物たちがヒトに似た”心”を持つ保証はないにもかかわらず、つい、擬人化してしまうのは、ヒトの脳が、そうデザインされているからだ。ヒトはヒトを相手とするよう、生まれながらに神経配線された社会性生物なのだ。

自分自身も同様。私たちは自分を自由な存在と信じている。しかし、脳に、自由意志があるという証拠はない。周囲の環境からの絶え間ない影響の中で自動的に生み出された感情や行動を、ヒトは、”私の意思だ”と、堂々と錯覚している(!)。

自由でありたいと願う気持ちは理解できる。しかし筆者は、”その自由とは何からの自由なのか”と問いかける。”まさか人生経験から自由になりたいわけではあるまい”と。

意思の所在があいまいとなると、個人の責任の所在も曖昧になる。犯罪は裁けるのか、脳のスキャンデータは法廷証拠として使ってよいか・・・。

こういう本は面白そうで大好きだ。是非読んでみたい。この書評を書いたのは東大教授の池谷裕二さんという方。若手で頭脳明晰な感じ。なかなか。