先日の東条内閣決断について書いた記事 にいただいたコメントをみて、かなり気づかされることが大きかったので、今日はそのことについて書いてみたいと思います。


以前、すずかに現在の進行状況についての報告を終わった後にこんなことを言ったのですが、また話が長くなると思ったので強制終了したのですが、今日はその時語れなかったこと。


「とても細部まで気を使った詳しい報告だった。感謝する。


ただ今きいた情報の中で俺が今欲するのは”試作会の会場が変わりました”ぐらいかな。あとは”必要な情報は君やななちゃんの所にプールしておいて必要な時に開示してくれればそれで十分”というレベルだった気がする。


君が今報告した内容はマイクロマネージメントと言ってだな・・・いや、いいや。報告ありがとう。」


年を重ねると語りたがりになるのは親父をみてたらよくわかるし、そして同時にその話を必要としてない人間に話すのは話し手の自己満足でしかないのも逆の立場からよく知っているので話が長くなりそうな時は「この相手に、今この話は必要か?」というのをよく考えるようにしている(そういう意味で親父の話はよく役に立っている。反面教師として。)のですが、まぁ大切なことだと思うのでここに書いておけば誰か読んで何かに参考にしてくれたらとおもって。

要はおまみさんが言ってられることにまったく配慮してない自分に驚き、だからすずかに「それはいらない」と言ったんだと気づいたという話。


■マイクロマネージメント


私がその言葉をはじめて見たのは例のごとく毎日数百ページは目を通す、RSSで購読しているページの中で見かけた記事の1つ。


民主党政権成立からしばらく経った頃の長妻昭厚生労働大臣のマネージメントについて論評したコラムでした。


◯◯を視察した長妻厚生労働大臣は、玄関に貼ってある年金に関するお知らせポスターを見て


「お年寄りが主に見るポスターがこんな高い場所に貼ってある、

   いかに役所が国民の目線に立っていないかという証拠である。」


と厚生労働省の職員を厳しく叱責していた。


コラムの中で引用されていたこの新聞記事を見て私は反射的に


「それは違うだろう(-_-)」


と思ったのを覚えています。そしてそのコラムの筆者も


組織のトップがポスターの位置などといったマイクロマネージメントに拘泥する組織は遠からず崩壊するだろう。


と書かれていたのにとても共感したのを覚えていますし、しかも長妻大臣はその後、厚生労働省の職員にまったく相手にされなくなり追われるようにその職を辞したと聞いています。


「人の本質は日々のちょっとした言動にあらわれる。

               そこから未来を予測することは可能。」


という私の以前からの考え方(というか元は後藤芳徳さん)に自信を持つと同時にこの方が使っていた”マイクロマネージメント”という言葉が私の脳裏に刻まれました。



■えらい人の仕事は最小公倍数

私はえらい人として常に12や30や60の人であろうと思っています。


1でも2でも3でも4でも5でも6でも割り切れるような。時間や月日の単位がほとんどその塊になっているのはたぶんそれが最も使いやすいからなんでしょう。

しかし仮に「私はこの20~30人の長として、放送サークル/パンドラボックスの進む道に60を選ぶ。」と言ったら、2や3や5、12や15の人はよいとして7の人や11の人、13の人は拾えないのです。


しかし彼らを拾うには公倍数が100や1000を超えてしまい、さらに数列を書いてみるとわかるのですが、ほとんどが空白という、とても無駄の多い形になってしまいます。


「本位ではないが、7や11や13は無力化するか切り捨てざる得ない」


これが経営者の苦悩というか、ぜったいやらなければならないことだとおもうのです。みんながいうことをまとめてればそれでOKは小中学校の学級委員でおわりではないかと。

だから地震の時も最初に思い浮かんだのは現地の行政などの職員のこと。



「避難指示・被害状況の把握などで今は手一杯なのだ!まだモノも人もいらん。

   お願いだから電話かけてきてくれるな。俺たちに仕事をさせてくれ!」


とおもっているだろうと痛いほどわかるからヒューマニズムとは真逆な



「被災してない我々は、今は余計なことをするな」



ということをずーっと主張していました。

『個々の気持ちや事情を拾っていたら効率が悪くなる。

 今は様々なことを切り捨ててでも最小の全体最適を目指すことで

   一人でも多くの命を救うのだ!』

私が現地の指揮官ならぜったいそう言っていただろうから。



地震の当日、ちょうど金曜日だったのでDARAZに向かうクルマの中のTVでさわこと燦々たるありさまの被害地域の映像をみていたのですが、さわこは悲痛な胸のうちを語っていたのですが、私は


「東北・仙台はこれからすばらしい街に生まれ変わる。

         神戸はそうだったから。破壊と創造は常にセットなのだ」


というような話をして、さわこの「え?」みたいな顔をみて


「いや、ここまでひどい有様だったらそうとでも思わんとやってられんだろう。」


とあわてて補足したんですが、


どうも私は本当に個々のこと、もっというならば「感情」という面をまったく考えない。というのは自分でも認識していたのですが


(なので私の組織運営には”心優しいパートナー”が不可欠)


それでも衝撃だったのが以下のおまみさんからのコメントです。



1 ■感情に支配されがちな女子は


若松孝二監督の「キャタピラー」という映画の、分厚いパンフレットに掲載されていたあらすじしか読んでいませんが、寺島しのぶ演じる「シゲ子」の心情を察するに、特に女性にとっては東条英機と当時の政府の評判は最悪となるんじゃないかなと思います。


家庭に入りそこを守る女性としては、大日本帝国の繁栄よりも愛する旦那と子どもが元気でいることの方がはるかに大事で、それを全て奪う(シゲ子の場合はもっと悲惨だったように思いますが)日本政府の判断は「まちがい」となるのかなと思います。


日米開戦についてはいつだったか何かで「その時の決断としてはそうするしかなかった」というのを読んだ気もしますが、頭では分かっても「そんなこと言ったってウチの旦那は帰ってこんでしょうがー!」となるのも頷ける話。


人の紡ぐ歴史っていろんな側面があって、興味深いですね。


おまみ 2011-04-16 09:43:46




なんということだ・・・・


歴史が好きで、何度となく太平洋戦争についても考察してきたこの私が、ただの一度も「戦争で夫や子を奪われた妻」のことを思い描いたことがない。


おそろしいまでに微塵もない。それこそ「そんな存在があったのか」レベルでまったく頭をかすめたこともない。


確かに震災は現在進行形で多くの人の悲痛な表情をみる機会があるので自分もそんな気になっていたが、それはただ単に空気をよんでいただけ。


思いだしてみれば海外の厄災も、私が知らない過去の悲惨な出来事も、完全に他人事だった。



『マイクロマネージメント、個々のことに、

   ましてや個人の感情に気をとられるなど指揮官失格。』



そう思っていきてきた結果、私は恐ろしいほどに冷たい人間になっていたようです。



「戦を弄ぶ軍師と君主」



己が企画した戦闘行為で多くの血が流れ、それ以上に多くの人が自分の大切な人を失うことをまったく考えず、ただいたずらにゲームとしての戦に興じる亡国の軍師・君主。


私は知らぬ間にそういう人間になっていた気がします。それを気づかせるきっかけをくれた2人の女性にとても感謝しています。



「クール ブレイン 、ウォームハート」


私が軽視してきた後ろの部分。この大切さをもう1度見つめなおしたいと思いました。


それではまた明日!



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