「キミはいつも迷ってばかりだな」


知り合いの女の子にいつか冗談めかしてこう言ったら突然泣いて怒られたことがある。その時はえっらい驚いた。そして今でも謎だ。そんな怒るようなことか?


ただそれとは別にその時に自分のある変化にも気づいた。昔は何を決めるのも自分では決められずどんな判断も親まかせ、自分では優柔不断で何も決められなかったのに今はなぜ他人にそこまで言えるほど「迷い」のない人間になったのか。


どうやらその原因は両親にあった気がする。というのもうちの親は圧倒的に口が立つ。それゆえに小さい頃から「これがしたい」と考えたとしても言葉の力でねじ伏せられ、逆に自分が何も考えてないうちに「お前はこうすべき」ととうとうとその理由を並べられたり。


それゆえに「自分の判断は稚拙」「判断は人にまかせる」という態度がクセになっていたのだろう。


ただ、今は違う。


私は常に「自分の判断は絶対に正しい」と思っている。いやもちろん、人間のやることだから、そんなハズはない。しかしいつも私は以下のように考えるくせがついているから迷いの不安におびえることなく判断できている。


「今の私は判断に必要な情報・知識は十分にもっている。


 もしそれで足りなくても、ネットで調べたり、人に聞いたりすることができる。


 さらに”今は判断できない”という判断すらできる柔軟な考え方も持っている。


 そんな私が下す判断というのは、その時点での私ができるベストな判断である。」


またもう一つ、私には自慢できるトコロがある。それは”私ほど自分の判断ミスを認める大人に私は今まで会ったことがない”ということだ。


だいたいの大人は、自分がいかに正しいか、いかに判断力に優れているか、は語るが自分がいかに間違ったか、誤った判断をしたかを言ってる人はまだ見たことがない。どちらかというと逆にごまかしたりこじつけたりして「それでも正しい」と言い張る人の方が多い。うちの親なんてその典型。


その点、私は「う・・・、判断が甘かった」「やれやれ、読み違えたか」「まだまだ修行が足りないな」みたいなことをよく言っている。が、別にこれは敗北宣言ではない。


つまりは


「あの時の自分は持ちうる知識・情報・経験、すべてをふまえて判断した


 だから判断は”正しかった”のだ。


 しかし失敗した。それは自分の知見が足りなかったから。


 でも次は同じミスはしない」


という自信のあらわれ。それゆえに今では後悔にさいなまれることもまったくない。



進路のことや身近なことで思い悩む学生さんにはこう思ってもらいたい。



「判断ミスなんてものはこの世に存在しない。


 その時の自分はベストな判断をしたのだ。


 だから「もし○○を選んでおけば」なんて歴史のIFは存在しない。


 知らない”あの瞬間”のあなたは他の選択肢はぜったいに選ばなかったのだから。


 大切なのは”知っている”今のあなたが次の判断で間違えなければいいのだよ。」