幕末から200年以上前のお話。西国の大名・毛利氏は関ヶ原合戦において「西軍(石田方)についても戦場で動かなければ領地は削らないよ」という密約通りにしたが、戦後「そんな約束しらねー」と反故にされたのを恨みに思って "徳川憎し!"が代々の家訓になる。



江戸時代末期。諸藩は財政難で苦しむ中、長州藩は村田清風による藩政改革が成功していたので財布に余裕がありペリー来航以降、積極的に反徳川の政治工作にいそしむようになる。



時の帝・孝明天皇は大がつくほどの『異人』ギライ。何度も攘夷決行を命令するもいっこうに実行にうつさない幕府に業を煮やしている中、長州藩が単独で下関を通過する外国商船を砲撃。国内で最初の攘夷実行者となり帝から賞賛され日本全国の尊攘派の憧れの的となり、世論をリードする存在となる。



調子にのった長州藩「今こそ幕府を倒す時!」とばかりに長州派の公卿達と「勝手に」倒幕計画をすすめる。



決行直前にその計画を知った帝は大激怒。孝明天皇は大の「異人」ギライではあったが同時に大の佐幕派でもあったので「幕府を倒そうとは何事か!」と、すぐに実直な人柄で知られる会津藩主・松平容保に長州の京都追放を指示。



朝廷を篤く信奉している会津藩といえども困った。長州は強国であり会津のみで立ち向かうのは少し不安。しかしどこからか噂をききつけた薩摩藩が会津に共闘を申し込んでくる。薩摩藩は「姉小路公知」暗殺の嫌疑をかけかれ帝から不興を買っており、名誉挽回のために長州追放に参画したと言われる。(薩会同盟)



ある朝突如として会津藩と薩摩藩の軍勢が御所を取り囲み長州勢を拒絶、同時に長州派公卿の罷免と追放の勅命が伝えられる。納得がいかない長州と薩摩・会津は一触即発の危機に陥るが長州側の久坂玄瑞らが必死に説得しなんとか武力衝突は回避。長州は都落ちすることに。(八月十八日の政変・七卿落ち) → 薩長同盟締結への伏線1



長州の失地回復を図るため長州が保護する諸国の尊攘派浪士達が密かに暗躍。都に火を放ち逃げ出してきた天皇を拉致、長州へこれを移送、挙兵して倒幕につなげるという一大クーデターを企てる。しかしその密議の現場を新選組が急襲。志士たちのほとんどを捕殺する。(池田屋事件)



「八月十八日の政変」を自分たちへの理不尽で不当な扱いだと思っていた長州藩、池田屋で多数の同士たち討ち取られたことを聞き、ついに長州は暴発。天皇に対して申し開きをするため、また宿敵・薩摩と長州を討つため軍勢を率いて京都へ進軍。迎え撃つ幕府軍の裏をかいて御所付近まで侵入するも、西郷吉之助率いる薩摩軍の奮戦によって撃退される。( 蛤御門の戦い:禁門の変 ) → 薩長同盟への伏線2



御所に向かって発砲したとのことで長州藩は朝廷より「朝敵」の指定をうけ、また幕府も国内を混乱に陥れたという理由で全国の大名に対し「長州征伐令」を発令。最高司令官に薩摩の西郷吉之助をおき大軍が編成されはじめる。(第一次長州征伐)



同時期、長州が以前行った外国商船砲撃に対する報復として米英仏蘭の連合艦隊が下関を砲撃。長州軍が応戦するもまったく歯が立たず砲台は占領。長州は列強に対して多額の賠償金を支払わされることとなる。(馬関戦争)



まさに四面楚歌状態で滅亡寸前にまで追い込まれた長州。そこを幕臣・勝海舟が密かに西郷吉之助と会って「長州の重要性」を説き、西郷がそれを受け入れる形で武力討伐回避に尽力。責任者の切腹をもって長州の責任は問わないこととなり、長州は首の皮一枚で生き残る。



「我が藩がここまで危機に陥ったのは高杉・桂ら、松下村塾門下生達の独走のせいである」と長州藩内で"俗論派"が台頭し、これまで藩政をリードしてきた"正義派"の粛正・弾圧を開始、井上聞多が何者かの襲撃をうけ重傷を負ったのをかわきりに暗殺・暗殺未遂が相次ぐ。身の危険を感じた桂小五郎は京都で身を隠し、高杉晋作は九州に逃亡した。



これに呼応して諸藩でも尊攘派の粛正が開始。とくにひどかったのが土佐藩でそれまで藩政をリードしてきた政治結社"土佐勤王党"は壊滅。武知半平太、切腹。岡田以蔵、斬首など。一時土佐勤王党に身を置いていた坂本龍馬は幕臣・勝海舟の保護で難を逃れるも勝が幕府内で失脚したため勝と懇意であった薩摩藩に身を寄せる。 → 薩長同盟の伏線3



突如藩内に舞い戻った高杉晋作。たった84人で長州藩正規軍に対して挙兵。代官所、海軍支局を次々と襲撃し、各所で勝利を重ねる。各地から高杉軍に諸隊が合流、勢いと数を増やしていった結果萩城の俗論派の重臣達は恐れをなして逃亡。長州藩主・毛利敬親は「武士にあるまじき行為」としてこれを罷免。高杉ら正義派を藩政に登用することを決定する。( 功山寺挙兵 = 回天義挙 )