会津松平家は徳川家とはとても縁深い大名家である。その縁は藩祖・保科正之の代まで話はさかのぼる。



2代将軍・徳川秀忠は大変な恐妻家であったため正妻以外との子であった四男・正之を極秘裏に保科家へ養子に出した。しかし「将軍のご落胤」であることは幕閣の中でも数人しか知らぬ最重要機密であり、父・秀忠と最初の対面は正妻・お江の方の死後、彼が18歳になった時、などからわかるように不遇な幼少期を過ごす。



しかし3代将軍・家光はこの有能で実直な異母弟をたいそうかわいがった。姓も徳川一門をあらわす「松平」に戻すことを許可した上で、その右腕として大いに重用。その臨終の際には正之を枕元に呼び直接「徳川宗家のことをよろしく頼む」と言い残したほどであった。



家光のこの言葉に感銘した正之はその終生を徳川宗家のために捧げることを決意。家光の子で自分の甥である4代・家綱を最期までよく補佐しただけでなく、自らの子孫達に「会津松平家の当主は進んで徳川家の難局に当たれ、それができぬ者を家臣は藩主と認めてはならぬ」と家訓として残した。




時はすすんで幕末。




幕府は風雲急を告げる京都政界における工作や治安維持のために「京都守護職」を設置することとした。しかし、誰もがこの役目を嫌がった。当時の京都は「天誅」という名のテロリズムが支配する危険地域であり、命がいくつあっても足りない上、莫大な財政負担が避けられない、誰がどう見ても「はずれくじ」であった。




そんな会議のさなか、福井藩主・松平春嶽が容保に向かってこう言ったとされる。




「貴殿のご出身である松平家では、藩祖・正之公が遺した家訓があると聞き申しましたが」




"徳川の難局にすすんであたれ"この家訓を指摘された容保は家臣達が泣いてとめるのも聴かず京都守護職への就任を決意する。このときまだわずか26歳の若者であった容保はどのような気持ちであったか。




京都守護職として京都に入った容保は最初「話し合い」を持って解決にあたろうとする。



しかし、その容保に気持ちを逆撫でするかのように上洛する将軍へのテロ予告を行う尊攘派達に対して態度を硬化させ、後の「新選組」を組織し強圧的治安維持を開始する。




その後、保科正之の家訓が言う以上に激変する京都政界における幕府の立場を5年以上の間たった一人で支え続けた松平容保は結果的に尊攘派の恨みを一身に背負う最大の存在になり、最後は彼が守り続けた徳川宗家からも見捨てられ、最後まで徳川の意地とプライドと領民を守るために戦い続けた末、一藩壊滅という悲劇を迎える。





幕末という時代が多くの日本人を心を引きよせてやまないのは、一人一人の登場人物が自分の筋を通した漢、ばかりであったのかもしれない。


26歳かぁ。今の私が京都守護職になれって言われたら・・・、たぶんなるだろうな、つとまるかどうかは別に。そういう身の振り方が好きだから歴史が好きなんだと思う。ただ、あの難局、一藩壊滅の結果には耐えられなかったかもしれない。あのときのメインプレイヤーはみんな本当に若いよなぁ



会津藩主 松平容保


名称未設定-会津藩主 松平容保