諏訪大社の上社である前宮と本宮の間に、神長官守矢資料館があります。
ここは、神長官を務めた守矢家の住居であり、祈祷所と勅使の間の玄関などが、そのまま残されています。勅使の間とは、天皇だけが入れる場所であり、今もなお、開かずの間として残されています。
資料館の建物は、国際的に有名な建築家、藤森照信氏が基本設計を最初に手がけた建造物として知られ、日本だけでなく、海外からも、多くの人々が、見学に訪れています。
敷地内には、諏訪大社が、できる前から、信仰されていたミシャグジ神を祀る小さな社もあります。
この資料館に行くと、資料館の館長さんがが、諏訪大社の来歴などを説明してくれます。
ある時、館長さんにに、「諏訪大社に関連する一族の名前が洩矢、守矢、守屋と、漢字が、違っているのはなぜでしょう?」と尋ねてみたことがあります。
すると館長さんは、一言、「字は重要ではないです。重要なのは音です。」と答えました、それ以上の話があるのかと期待したら、話はそこで終わりです。
諏訪大社、前宮で行われていた祭礼で、最も重要なものが、御頭祭と呼ばれるものです。
神長官が、廃止される江戸時代まで、続いた祭祀で、毎年2月の酉の日に行われました。
諏訪大社、前宮の入り口に十間廊と呼ばれる建物があります。御頭祭は、ここで行われていました。
この祭礼に欠かせないものが、鹿のささげものでした。この祭礼のために鹿75頭の頭が十間廊に並べられたのです。
奇妙なことに、それらの鹿の中に必ず一頭だけ耳が避けた鹿が混じっていたそうです。この鹿は、耳裂け鹿と呼ばれました。
さて資料館の館長さんが、字は重要ではない、音が重要だと、言った意味はどういうことでしょう?
創世記に、エルサレムの近くにあるモレヤの丘という場所が出てきます。
イスラエルの民の祖であるアブラハムは、100歳になって初めて、男の子、イサクを授かり
ます。
ある時、神は、アブラハムの忠誠心を試すために、イサクをモレヤの丘に連れて行き、生贄として捧げろ、と命じます。
アブラハムは、その指示に従い、モレヤの丘で、イサクを縛り付け、殺そうとした刹那、神に、お前の忠誠心はわかった、殺さなくとも良い、と言われます。
その時、ちょうど藪に引っかかり、耳が裂けた山羊が目の前に現れ、その山羊を屠り、生贄として捧げたのです。
この話は、「イサクの燔祭」として、知られています。
これが諏訪大社の前宮の祭祀、御頭祭の由来でしょう。諏訪大社の御神体である守屋山の名前も、モレヤの丘から付けられた、考えられます。
多くのユダヤ人が、古代から日本に来ていた、あるいは日本人の祖はユダヤにあるとされる説は、数多く存在します。
もし、それが本当なら、アブラハムの時代にモレヤの丘が登場するわけですから、それ以前には、守屋山という名は存在しないはずです。
アブラハムは、紀元前1900年くらいの時代の人です。
その頃、日本は、縄文から弥生への移行期。
縄文の時代を終わらせたのは、日本に最初に入植したユダヤの民だったんではないでしょうか?
一万年以上にわたり、平和に暮らしていた縄文人たちは、戦い、というものを知りませんでした。戦いに慣れたユダヤ人が、彼らを根絶やしにすることはそれほど難しくなかった、と思います。
それでも逃げ延びた人たちはいました。アイヌや熊襲の人々です。
諏訪にやってきた彼らは、縄文人たちが聖地と見なしていた強力なパワースポットである山をモレヤと呼び、彼等の御神体としたのです。これが洩矢神の始まりです。
彼らは稲作も開始します。
紀元前722年、北イスラエルのイスラエル10支族がアッシリアに滅ぼされてしまいます。
さらに紀元前586年、南ユダ王国も、バビロニアに滅ぼされてしまいます。
ユダヤ人の預言者イザヤは、ユダヤ民族の滅亡を予言した預言者です。
彼はイスラエルの滅亡を予言し、「東で神をあがめ、海の島々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。」とイスラエルの民に繰り返し訴えました。
ユダヤ民族のレビ族は、司祭を司ってきました。
イザヤはレビ族を伴って、ユダヤ民族の大移動を先導します。
日本の神話に登場するイザナギとはイザヤのことでしょう。
日本の神話に登場する神さまたちは、最初に日本に来たユダヤ人たちです。
そしてイザヤとレビ族たちは、日本中を巡りながら、エネルギー的に強い場所を探索し、グリッドを結び、強力な結界を作ったのです。
出雲から諏訪に逃げてきた建御名方神 ( たてみなかたのかみ)も当然ユダヤ人。
建御名方神の一行は、諏訪にはすでにユダヤの民が住んでいることを知っていたはずです。
おそらくは強力なパワースポットである守屋山の存在も。だから諏訪の地を選んだ。一旦争いにはなったけど、同族である洩矢氏を神長官として、守矢一族を存続させ、争いは平和裡に解決されたのではないでしょうか。
そして日本の主要な聖地、神社などを結んで築かれた強力な結界は、これより明治時代に至るまで、破られたことがなく、外敵の侵入を防ぎ、日本は独立を維持することができたのです。