「子飼いの重臣に見せた、豊臣秀吉の小物ぶり」 ~書状で鬱憤 晴らす、ネチッコイ男…!?~ | 歴史ブログ

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【子飼いの重臣に見せた、秀吉の小物ぶり】
~書状で鬱憤晴らす、ネチッコイ男…?~


兵庫県たつの市・龍野神社に所蔵の
「脇坂家文書」は、
一時流出していたが、このたび 市が購入し、
東京大学 史料編纂所の
村井祐樹助教をはじめとする
関係者による修復、調査により
見事に甦った。



秀吉から脇坂安治に宛てた
36通の朱印状(奉行人奉書1通を含む)で

秀吉関係の文書が
これだけ纏まって発見されるのは
稀有な事といってよい。

しかも、その殆どが、
天正12年(1584)の
「小牧・長久手ノ戦い」から
同15年(1587)の「九州攻め」までの
文書で、
天下人になる前の秀吉の文書が
これだけ纏まっている点、
信長の死後、
秀吉が天下統一を果たしていく過程を
追いかける上で貴重な文書群である。


修復された秀吉の書状。
「秀吉」の字(中央下)も確認できる=兵庫県たつの市




宛所の脇坂安治であるが、
脇坂家は元々
北近江の戦国大名・浅井氏の家臣であった。

浅井氏 滅亡後、
安治は
その遺領に入った羽柴秀吉に仕え、
天正11年(1583)の「賤ヶ岳ノ戦い」で
大活躍をし、
福島正則・加藤清正らと共に
『賤ヶ岳 七本槍』の1人に数えられている。

最も、
その後は正則、清正らと比べると
出世は遅れ、
同13年に、
『従五位下・中務大輔』に叙任され、
『淡路の洲本で3万石』を与えられ、
秀吉の天下統一の戦いに寄与している。

安治自身は最終的に、
『伊予・大洲5万3500石』で終わるが、
安治の子・安元を経て、
その養子・安政が播磨・龍野に移っている。

「脇坂家文書」が、
たつの市に伝わったのは
その為である。

さて、
その36通の朱印状であるが、
実に興味深い。

秀吉が浅井長政の居城だった
小谷城、そのあと築いた長浜城主時代からの
家臣という気安さもあったのであろう。

2人の親密な関係が伺われ、
秀吉が度々、安治を叱責しているが、
安治の怠慢もあったにしても、
これは、親密な関係があったからこそ
だと思われる。

何となく、
気心の知れた安治に鬱憤(ウップン)を
晴らしをしている様な印象すらある。

今回の発見で一番注目したいのは、
「小牧・長久手ノ戦い」に関して、
伊賀の状況が分かる様になってきた
点である。

「小牧・長久手ノ戦い」という
戦(イクサ)の名称から、
戦いは現在の愛知県小牧市および
長久手市だけで繰り広げられた様に
思われているが、
実際は伊勢でも激しい戦いがあった。

それについては
これまでにも研究されているが、
伊賀に関する情報は殆どなかったのである。



安治は、
“賤ヶ岳ノ戦い”後の論功行賞で、
伊賀に於て3000石を与えられていた。

その為、天正12年(1584)の
「小牧・長久手ノ戦い」の時の文書は
伊賀に関するものである。

6月6日付の朱印状で、
秀吉は、
自分の軍勢が美濃・竹鼻城を落とし、
引き続き伊勢へ侵攻する事を伝えるとともに、
伊賀から材木を伐り出すよう
命じている。

また、
9月17日付の朱印状では
安治に伊賀国内を鎮めるように
命じており、
この頃、
安治が伊賀平定の中心的役割を
負っていた事がわかる。

翌天正13年(1585)には
秀吉による北国攻め、
則ち、佐々成政討伐の戦いが
繰り広げられる。

この時、
安治は北国攻めの軍勢から
外されていた。

禁裏修復の材木担当に当たっていた
からである。

材木担当では
手柄にならないと考えた安治は、
秀吉に北国出陣を願い出ているが、
それに対する秀吉からの朱印状が
7月2日付で出されている。

「材木担当を命じたのに
 北国出陣を願い出るとは何事か ‼」
と叱責した内容となっている。

面白いのは、
同じような内容で7月25日付でも
叱責している点である。

安治が2度も配置換えを願い出る事は
考えられないので、
秀吉自身の判断で
2度目の叱責をしたものと思われる。

秀吉のしつこい性格が垣間見られる。

しつこいという印象は、
その年、
閏8月7日から9日、12日、13日と
1日おきぐらいに、
連日の様に安治宛の朱印状を
出している事からも伺われる。

その13日付の朱印状は
内容面からも注目される。

これは、秀吉の長浜城主 時代、
黄母衣(キホロ)衆の1人だった
神子田半右衛門正治が
秀吉に逆らったので
分国追放を命じた時のものである。

秀吉は、
安治に神子田正治を匿わないよう
指示しており、
その中で、
「信長様のように、甘くはない」
と脅しているのである。

秀吉が信長の後継者として
振舞いはじめたと共に、
信長を超えようとしていた
秀吉の思いが伝わってくる。

前述のように、
安治は
このあと淡路の洲本城に入るわけで、
次第に水軍の将として期待される
ようになる。

喩えば、
天正14年(1586) 2月14日付の
朱印状では、

秀吉は安治に、
大坂城 築城に用いる石材を
船で運ぶよう命じており、

また、8月26日付の朱印状では、
翌年に控えた九州攻めの為、
淡路から船を出すよう命じている。

この様に、
一連の「脇坂家 文書」は、
秀吉の天下統一過程に於ける
秀吉と家臣とのやり取りを
時系列で追う事が出来る
貴重な文書群という事ができる。