「徳川家康 死去」 ~4月17日の出来事~ “天下人・徳川家康、神君・東照大権現に… | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~4月17日の出来事~

【徳川家康  死去】
“天下人・徳川家康、神君・東照大権現に…”


元和二年(1616) 4月17日、
徳川家康が駿府城で没す。
享年75。




戦国時代の最終 勝利者となった
徳川家康は、
天文十一年(1542) 十二月二十六日、
三河の名族・松平広忠の長男として
岡崎城(愛知県岡崎市)に生まれました。

幼名は、竹千代、
長じて、松平二郎三郎元信と
名乗りました。

以後、
元康、家康と名を変え、
永禄九年(1566) 十二月二十九日には
改姓して“徳川家康”となります。

家康の偉業は非常に多いので、
ここでは簡潔に生涯を御紹介する事にします。

※(以後、表記は『家康』で統一します)


家康は不遇の幼少期を過ごしました。

天文十六年八月、
六歳の時に人質として
駿府の今川義元の元へ送られる途中に
敵方の織田信秀の手により奪われ、
織田家で囚われの身となります。

しかし この時、
若き日の織田信長と出会い、
やがて強固な同盟を結ぶ事になりますから、
人生何があるか分かりません。

再び人質交換で駿河に送られた家康は、
今川家 筆頭の学識者である
太源崇孚から教育を受けました。

家康は
義元が滅ぶと今川家を離れて独立、
信長と同盟を結び
着々と東へ勢力を拡げました。


その後は、
信長の盟友として協力、
元亀元年(1570)の
「姉川ノ戦い」に於ける奮戦は有名です。

そんな家康ですが、
何度か絶体絶命の危機を
経験しています。

中でも、
元亀三年十二月の「三方原合戦」と、
「本能寺ノ変」(天正十年六月)直後の
帰国行、
世に言う「神君・伊賀越え」の際の事は
広く知られています。

三方原合戦では
西上する武田信玄の大軍に果敢に挑み
大敗しましたが、
家康の武名は大きく上がりました。

しかも信玄が程なく病没するという
幸運にも恵まれ、
あわや滅亡という窮地を脱しています。

「本能寺ノ変」の際は
堺に遊覧中に事件を知って
急ぎ帰国しますが、
周囲には僅かな人数しかおらず、
非常に苦労した末に
岡崎へと帰り着いています。

やがて豊臣秀吉に臣従しますが、
秀吉 没後の慶長五年(1600)九月、
美濃・関ヶ原に石田三成 率いる
豊臣方を破った家康は、
同八年二月十二日に江戸幕府を開き、
実質上の天下人となりました。

しかし、
秀吉の遺児・秀頼が健在だった為、
家康は同十年四月に
将軍位を息子の秀忠に譲って
徳川政権の確立を世に知らしめ、
同十九年~二十年の大坂ノ陣で
豊臣氏を滅ぼし戦乱の世を終息させました。



家康はこの日、
駿府城(静岡市)にて世を去りました。

巷説では“鯛の天ぷら”を食べ過ぎて
体調を崩し、
そのまま死去したという逸話がありますが、
現在では、胃癌 説が最有力のようです。







⬛【徳川家康という人物】⬛


◾【身 長】

松平家 菩提寺・大樹寺に残された位牌は
故人の身長と同じ大きさに作られており、
それによると
身長『159cm』であるとされ、
当時に於ては平均身長に相当する。




◾【家康公 遺訓】

家康の遺訓として、

「人の一生は
重荷を負て遠き道を行くが如し、
急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし、
心に望おこらば
困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基、
怒りは敵と思へ。
勝事ばかり知りて、
負くる事を知らざれば、
害其身に至る。
己を責て、人をせむるな。
及ばざるは過たるよりまされり」

という言葉が広く知られているが、
これは偽作である。

明治時代に
元500石取りの幕臣・池田松之介が、
徳川光圀の遺訓と言われる
『人の戒め』を元に、
家康63歳の自筆・花押文書に似せて
偽造したものである。

これを高橋泥舟らが
日光東照宮など各地の東照宮に収めた。

また、これとよく似た、
『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は
『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』
『万歳賜』ともいう。

これは松永道斎が、
井上主計頭(井上正就)が元和の初め、
二代将軍・徳川秀忠の使いで
駿府の家康の元に数日間滞在した際に
家康から聞いた話を収録したものという。

江戸時代は禁書であった。
一説には偽書とされている。




◾【武術の達人】

剣術、砲術、弓術、馬術、水術などの
武術について、
一流の域に達していた。

▪剣術は、
新当流の有馬満盛、

上泉信綱の新陰流の流れをくむ神影流、

剣術開祖で家来でもある奥平久賀に
姉川ノ戦いから7年間師事、

文禄2年(1593年)に
小野忠明を200石で秀忠の指南として、

文禄3年(1594年)に
新陰流の柳生宗矩を召抱える、

塚原卜伝の弟子筋の松岡則方より
一つの太刀の伝授を受けるなど、
生涯をかけて学んでいた。

但し、家康本人は、
「家臣が周囲にいる貴人には、
最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、
相手を切る剣術は不要である」
と発言したと『三河物語』にあり、

息子にも
「大将は戦場で直接闘うものではない」
と言っていたといわれる。


▪馬術も、
室町時代初期の大坪慶秀を祖とする
大坪流を学んでいる。

小田原征伐の際に橋を渡る時、
周囲は家康の馬術に注目したが、
家康本人は馬から降りて
家臣に負ぶさって渡った。

豊臣軍の諸将は
要らぬ危険を避けるのが
馬術の極意かと感心したという。
(『武将感状記』)


▪弓術については、
「三方ヶ原ノ戦い」に於て
退却途中に前方を塞いだ武田の兵を
騎射で何人も射ち倒して突破している。
(『信長公記』)


▪鉄砲も名手だったと云われ、
浜松 居城期に
5.60間(約100m)先の櫓上の鶴を
長筒で射止めたという。

また鳶を立て続けに撃ち落としたり、
近臣が当たらなかった的の中央に
当てたという。
(『徳川実紀』)




◾【好学の士】

家康の愛読書は、
『論語』、『中庸』、『史記』、
『漢書』、『六韜』、『三略』、
『貞観政要』、『延喜式』、『吾妻鑑』、
などの書物だと伝えられている。

家康はこれらの書物を
関ヶ原以前より木版(伏見版)で、
大御所になってからは
銅活字版(駿府版)で
印刷、刊行していた。

また、
『源氏物語』の教授を受けたり、
三浦按針から幾何学や数学を学ぶなど、
その興味は幅広かった。

反面、
漢詩や和歌、連歌などの文学は
苦手だった。

家康は古典籍の蒐集に努め、
駿府城に「駿河文庫」を作り、
約一万点の蔵書があったという。

これらは御三家に譲られ、
「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。




◾【多趣味】

鷹狩りと薬作りが
家康の趣味として特に有名であるが、
非常に多くの趣味があった。


▪鷹狩は、
府中御殿に滞在しながら
お鷹の道で行われたとの記録が
残っている。

家康の鷹狩に対する見方は独自で、
鷹狩を慰め(気分転換)の為の遊芸に
留めずに、
身体を鍛える一法とみなし、
内臓の働きを促して快食、快眠に資する
摂生(養生)と考えていた。
(『中泉古老諸談』)


▪薬作りは、
八味地黄丸など生薬調合を行い、
この薬が、
俗に「八の字」と呼ばれていた事から、
頭文字の八になぞられ、
八段目の引き出しに保管していた。

「薬喰い」とも言われる
獣肉を食すなど記録が多い。


▪猿楽(能)は、
若い頃から世阿弥の家系に連なる
観世十郎太夫に学び、
自ら演じるだけでなく、
『風姿花伝』で学び
故実にも通じていた。

この為もあってか、
能は江戸幕府の式楽とされた。
特に幸若舞を好んだという。
(幸若舞は、織田信長の影響か…!?)


▪囲碁も本因坊算砂に師事、
特に浅野長政とは、よい碁敵だった。

自身で嗜んだのみならず
家元を保護し、確立した功績から、
家康は囲碁殿堂に顕彰されている。


▪将棋は大橋宗桂一世名人に
慶長17年(1612年)に扶持を与える。

この功績により、
平成24年(2012年)の
名人制度400年を記念して、
将棋十段の推戴状が贈呈される。


▪香道を好み、
東南アジア各国へ宛てた国書の中で
伽羅を所望する記述があり、
遺品にも高品質の香木が多数遺されている。

なお、
有名な蘭奢待については
使者を遣わし
現物の確認こそしたが、
切り取ると不幸があるという
言い伝えに基づき
切り取りは行わなかった。




◾【新しいもの好き】

南蛮胴、南蛮時計など、
新しい物好きだった。

▪日光東照宮には
「関ヶ原ノ戦い」に行くまでの道中で
着用したとされる南蛮胴具足が、
紀州・東照宮には
防弾性能を試したらしき
弾痕跡が数箇所ある南蛮胴具足があり、
渡辺守綱や榊原康政には
南蛮胴を下賜し伝世している。


▪晩年の家康は、
日時計、唐の時計、砂時計などを
蒐集しており、
時計が好きだったようだ。


▪また、けひきばし(コンパス)、鉛筆、
眼鏡、ビードロ薬壺などの
舶来品が現存し、
家康が理系的資質を持っていた事が
窺える。




◾【芸事は好まない】

▪今川家での人質時代に
今川義元に舞を所望されたが、
猿楽にして欲しいと請い、
見かねた家臣が代わりに舞っている。

当時は
中世文化が非常に盛んだった
駿府で育ちながら、
京文化への関心は元々少なかった
ようである。

▪家康は社交の嗜みとして
茶の湯の心得はあったようだが、
家臣が茶の湯(茶道)等に凝るのを
好まなかった。

家康の遺産である『駿府御文物』には、
足利将軍家 以来の唐物の名物・大名物が
目白押しだが、
久能山 東照宮にある
家康が日常に用いた手沢品は
それらに比べ質素な品が多い。

▪但し、
茶を飲むこと自体は好んでおり、
天正12年に松平親宅と上林政重に
製茶支配を命じ、
毎年、茶葉を献上させている。

尚、親宅は家康へ初花を献上し、
政重は後に
宇治の茶畑の支配を任せられ、
“伏見城ノ戦い”で戦死している。




◾【家康が尊敬していた人物】

家康は、中国の人物として、
劉邦、太宗、魏徴、張良、韓信、太公望、
文王、武王、周公を尊敬している。

着目すべきは、
全て、周、漢、唐 時代の人物で
前王朝の暴君を倒して
長期政権を樹立した王(皇帝)と
その功臣の名が挙げられている。

日本の人物では源頼朝を尊敬していた。




◾【師は、武田信玄】

武田信玄に
大いに苦しめられた家康ではあるが、
施政には軍事、政治共に
武田家を手本にしたものが多い。

軍令に関しては、
重臣・石川数正の出奔により
以前のものから改める必要に
駆られたという事情もある。

天正10年(1582年)の
「武田氏滅亡」、「本能寺ノ変」後の
「天正 壬午ノ乱」を経て
武田遺領を確保すると、
武田遺臣の多くを
徳川 家臣団に組み込んでいる。

自分の五男・信吉に
「武田」の苗字を与え、
武田信吉と名乗らせ
水戸藩を治めさせている。




◾【容 貌】
祖父・松平清康は、
美男子だったという記録があり、
母系も美人揃いとされるため
若い頃の家康も美男子であった
可能性が高い。

家康に謁見した
ルソン総督、ロドリゴ・デ・ビベロは、
著作の『ドン・ロドリゴ日本見聞録』で、
家康の外貌について、
「彼は中背の老人で
尊敬すべき愉快な容貌を持ち、
太子(秀忠)の様に色黒くなく、
肥っていた」
と記している。




◾【手 相】

「知能線」と「感情線」が
1体となっている手相(=ますかけ線)
だったと伝わる。




◾【書 画】
『翁草』(神沢貞幹)や
『永茗夜話』(渡辺幸庵)には
「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」
とある。

しかし、少年から青年期の
自ら発給した文書類には、
規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、
よく手習いした跡が察せられる。

特に岡崎時代の初期の書風には
力強い覇気が溢れ、
気力充実した様子が窺える。

こうした文書類には、
普通、右筆が書くべき公文書が
含まれており、
初期には専属の右筆が置かれて
いなかったようだ。

天正年間になると、
家臣や領土も増えて
発給する文書も増加し、
大半は奉行や右筆のに委ねられていく。

しかし、
近臣に宛てた書状や
子女に宛てた消息、
自らの誠意を披露する誓書は
自身で筆を執っている。

家康は筆豆で、
数値から小録の代官に宛てたとみられる
金銭請取書や年貢皆済状が
天正期から晩年まで確認でき、
家臣や金銀に関する
実務的な内容のものから、
薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、
更に駿府城時代の鷹狩の日程を記した
道中宿付なども残っている。

文芸として家康の書を眺めると、
家康は定家流を好み、
藤原定家 筆の小倉色紙を臨模し、
手紙でも定家流の影響をうけた
やや癖の強い筆跡が窺え様になるが、

一方で
連綿とした流麗な書風を見せる
和歌短冊も残っており、
家康が実学ばかりでなく
古典や名筆にも学んだ
教養人でもあった一面を表している。

絵も簡略な筆致の墨画が
10点余り伝わっているが、
確実に家康の遺品と言われるものはなく、
伝承の域を出ない。

しかし、『寛政重修諸家譜』に
家康が描いた絵を拝領した記録があり、
余技として絵を描いていた事が窺える。




◾【健康指向】

家康は健康に関する指向が強く、
当時としては長寿の
75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。

これは少しでも長く生きる事で
天下取りの機会を得ようとした物と
言われ、
実際に「関ヶ原合戦」は家康59歳、
豊臣家滅亡は74歳の時であり、
長寿ゆえに手にした天下であった。

その食事は質素で、
戦国武将として戦場にいた頃の
食生活を崩さなかった。

麦飯と魚を好み、
野菜の煮付けや納豆もよく食べていた。

決して過食する事のないよう
留意していたといわれる。

酒は強かったようだが、
これも飲み過ぎないようにしていた。

生薬にも精通し、
その知識は専門家も驚くほどであった。

海外の薬学書である
本草綱目や和剤局方を読破し、
それをもとに自分で薬を調合していた。

調合の際に用いたという小刀や、
青磁鉢と乳棒も現存する。

腎臓や膵臓に良いとされている
八味地黄丸を特に好んで処方し
日常服用していたという。

松前慶広から
精力剤になる海狗腎(オットセイ)を
慶長15年(1610年)と
慶長17年(1612年)の二回にわたり
献上されており、
家康の薬の調合に使用されたという
記録も残っている。
『当代記』

欧州の薬剤にも関心を示しており、
「関ヶ原ノ戦い」では、
怪我をした家来に石鹸を使用させ、
感染症を予防させたりもしている。

東照大権現の本地仏が
薬師如来となった所以は
家康のこの健康指向に由来している。

致命的な病を得た際にも
自己治療を優先し、
異を唱えた侍医の与安を追放するほど、
見立に自信を持っていたが、
自惚れではなく、
専門的な知識に裏付けられた
ものである。

本草研究も、
後の幕府の薬園開設に繋がる事から、
医療史上に一定の役割を果たしたと
いえる。




◾【寡黙な苦労人】

家康は譜代家臣の裏切りにより
祖父と父を殺されており、
当初、織田家の人質になったのも
家臣の裏切りによりともいわれている。

家督 相続後は
三河一向一揆において
後の腹心・本多正信らにも
裏切られている。

また、
「小牧・長久手ノ戦い」後には
重臣・石川数正にも裏切られている。

働き者で律儀者、忠義者が多く、
結束が固い強兵と賞賛される
三河国人だが、
反面、頑固で融通が利かず
内向的で自負心が高い。
結束も縁故関係による所が大きい。

こうした家臣たちを統御していくには、
日頃から
かなり慎重な態度が求められた様で、
自然言葉数が少なくなったものと
推察され、
家臣たちの家康 評には
「ナニを考えているか、分からない」、
「言葉数が、非常に少ない」
といった表現が多い。




◾【吝 嗇】

家康の吝嗇(ケチ、リンショク)に纏わる
逸話は多い。


▪褌は薄黄色のものを使用した。
しかし これは、
薄黄色だと汚れが目立たないため
洗濯の回数が減るという
理由からである。

家来にもこれを強いたが、
武骨な三河武士は下帯は白を好み、
この下知にだけは従わなかったと
される。


▪手洗いから出て
懐紙で手を拭こうとした、
懐紙が風に飛ばされたので
庭まで追っていって取り返した。
(それを見て思わず笑ってしまった小姓に対し、「儂はこれで天下を取ったのだ」
と言い返している)


▪新しい服をあまり買わず、
洗濯して使っていた為、
洗濯させられる侍女から
新しい服を着てほしいと
苦情が出たとき、
天下のため倹約するのだと
逆に説教した。

また、
侍女から料理の漬物が
ショッパイという苦情が出たので
料理人に問い質したところ、
今でも侍女たちは
たくさん御代わりしているのに、
美味しい漬物を出したら
何杯お代わりするか分からないと
答えられ、
笑ってそのままにした。


▪侍が座敷で相撲をしている時に
畳を裏返すように言った。


▪駿府の銭鋳所跡地を掘り返して、
3年で運上金 千両分の銅を回収した。


▪商人より献上された
蒔絵装飾を施した御虎子(便器)の
不必要な豪華さに激怒し、
直ちに壊させた。


▪代官からの金銀納入報告を
直に聞き、
貫目単位までは蔵に収め、
残りの匁・分単位を私用分として
女房衆を集めて計算させた。


▪三河にいた時、
夏に家康は麦飯を食べていた。

ある時、
部下が米飯の上に麦をのせ出した所、
戦国の時代に於て
百姓にばかり苦に労させて
(夏は最も食料がなくなる時期)
自分だけ飽食できるかと言った。


▪厩が壊れても、そちらの方が
頑強な馬が育つと言い、
そのままにした。


▪家臣が華美な屋敷を作らないよう
与える敷地は小さくし、
自身の屋敷も質素であった。


▪蒲生氏郷は
秀吉の後に天下を取れる人物として
前田利家をあげ、
家康については
人に知行を多く与えないので
人心を得られず、
天下人にはなれないだろうといった。

この結果、
家康は莫大な財を次代に残している。

『落穂集追加』では
家康のは吝嗇でなく倹約と評している。

普段は質素な生活に努めたが、
必要な際には、
必要な出費を惜しむ事はなかった。

例えば『信長公記』に記された
織田信長の接待に於ては
京から長谷川秀一を招いて巨費を投じ、
趣向を凝らした接待を行っている。

大井川の舟橋などは
信長を感動させるものだったと
記されている。




⬛【その他】


◾【居 城】

家康の生誕地は、三河・岡崎だが、
生涯を通じて浜松・駿府(静岡県)を
本城、あるいは生活の拠点としている
期間が長く、
岡崎にいたのは、
尾張国の織田氏のもとで
人質として過ごした2年を含め、
幼少期および「桶狭間ノ戦い」後
10年と短い。




◾【幼少から持っていた洞察力】

10歳の頃、竹千代(家康)は、
駿河の安倍川の河原で
子供達の石合戦を見物した。

150人組と300人組の二組の対決で、
付添いの家臣は人数の多い300人組が
勝つと予想した。

だが竹千代は、
「人数が少ない方が
却ってお互いの力を合わせられるから
(150人組が)勝つだろう。」
と言った。

家臣は
「何を可笑しな事を言われるのですか。」
と取り合わなかったが、

竹千代の予想通り、
150人組が勝ったので、
竹千代は家臣の頭を叩き、
「それ、見たことか。」
と笑ったという。




◾【神君・伊賀越え】

「本能寺ノ変」直後の
“神君・伊賀越え”では、
伊賀・甲賀忍者の力添えを受けて
三河国まで逃走した。

その道中、甲賀忍者の
多羅尾氏の居館に着いた時、
家康は警戒して城に入ろうと
しなかったが、
城主・多羅尾光俊が
赤飯を与えたところ、
信用して城で一泊した。

その後は
伊賀の豪族・百地氏、服部氏、稲守氏、
柘植氏の柘植清広等の護衛で
白子まで辿り着き、
この功で多羅尾氏は
近江国で8000石を領する代官に、
柘植氏は江戸城勤めの旗本となった。

他の伊賀・甲賀忍者らは
「伊賀同心」として召し抱えられ
後に江戸へ移った。

また、この時の礼として、
百地氏には仏像を与え、
これは現在も一族の辻家が
所有している。


◾【妖刀・村正 伝説】

祖父の清康と父の広忠は、
共に家臣の謀反により殺害されており、
どちらの事件でも凶器は
“村正”の作刀であった。

また、
嫡男の信康が
謀反の疑いで死罪となった際、
介錯に使われた刀も村正の作で
あったという。

更に「関ヶ原ノ戦い」のおり、
東軍の武将・織田長孝が
戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。

その槍を家康が見ている時に
家臣が取り落とし
家康は指を傷付けた。

聞くと、
この槍も村正であった為、
家康は怒って立ち去り、
長孝は槍を叩き折ったという。

これらの因縁から
徳川家は村正を嫌悪する様になり、
徳川家の村正は全て廃棄され、
公にも忌避される様になり、
民間に残った村正は
隠され時には銘を摺り潰して
隠滅したという伝説がある。




◾【影武者 説】

「大坂夏ノ陣」の際に
家康は真田信繁に討ち取られ、
混乱を避け
幕府の安定作業を円滑に進める為に
影武者が病死するまで
家康の身代わりをしていたとされる説。

一説に、異母弟の樵臆恵、
最もしくは小笠原秀政ではないかと
いわれる。

大阪府 堺市の南宗寺には
家康の墓とされるものがある。




◾【「徳川氏」について】

戦国時代から江戸時代の大名の
佐竹氏の家中には、
実際の得川氏の末裔がおり、
親藩ですら限られた家系しか
徳川氏の名乗りが許されない中、
単なる大名の家臣の立場で
徳川氏を堂々と名乗っていた。