【冷静に時流を見極めた「脇坂安治」】
~引き抜きに応じ、生き延びる~
如何に有能であっても、
活かせる環境にいなければ
宝の持ち腐れで終わってしまう。
無能な上司が
優秀な部下の才能を殺してしまう事が
少なくない、
部下の側で言えば、
上司の能力や将来性を
見極めることが重要。
戦国の世で、
有能な上司を見極める事で出世した
典型例が脇坂安治である。
羽柴秀吉の家臣となった安治は、
若い頃から勇猛でならし、
戦場で大いに武功を挙げた。
“賤ヶ岳ノ戦い”で
「七本槍」の一人に数えられて活躍。
戦功で山城国に3000石を与えられると
“小牧・長久手ノ戦い”でも
伊賀・上野城を攻略する大手柄により、
所領は淡路洲本3万石に。
16歳で秀吉に召し抱えられた時は、
僅か3石だったというから、
年収「1万倍」の大出世である。
安治は秀吉を「天下人」であると
心から信じて身を捧げた。
伊賀・上野城攻めでは、
母親を人質に差し出して
敵を油断させて討ち取るという
際どい作戦を見せている。
肉親を危険に晒してでも
秀吉の忠義に尽くした。
そんな安治の忠誠心が
本物であると見抜き、
秀吉は大いに目をかけたのだ。
単なる御機嫌取りであれば
こうはいかなかったであろう。
だが、
秀吉の死により運命が暗転する。
安治の秀吉への忠義は本物であったが、
それは秀吉を
天下人と見定めたが故だった。
そして秀吉の亡き後、
安治が
次の天下人に相応しいと感じたのは
徳川家康だった。
しかし、
“関ヶ原ノ戦い”に際しては
三成らに取り込まれる形で、
不本意ながら西軍に参加する。
それでも事前に
寝返りを決意していた安治は、
小早川秀秋の裏切りに乗じて
東軍に呼応。
但し、他の寝返り武将とは異なり、
事前に立場を明確にしていた事とから、
家康から戦後も所領を安堵されている。
秀吉が寵愛した秀頼には
槍を向けられなかったのか、
“大坂ノ陣”には参戦しなかった。
豊臣家に対する恩義を
忘れられなかったからだろう。
その後は家督を
次男の安元に譲って隠居し、
出家して73歳で亡くなるまで
京都に住んだ。
関ヶ原で
東軍に参加できなかったのは
大ピンチだったが、
土壇場で寝返りを決断した事が
彼の身を助けた。
単なる勝ち馬に乗ったのでなく、
日和見をせずに
事前に態度を決めていた事が
決め手となったのだ。
敏感に時流をキャッチし、
有能な上司を見極める事が
出来たからこそ、彼は生き延びた。
いわば、
2代目・社長の将来性に不安を持ち、
ライバル社の引き抜きに応じた事で、
人生の成功者となった。
結果論で見れば 単純な図式だが、
渦中にいる当人にとっては
決して簡単な事ではなかったはずだ。