「第一次 駿河 侵攻」 ~12月6日の出来事~ | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~12月6日の出来事~

【第一次 駿河 侵攻】

武田信玄は駿河侵攻にあたり、
相模・北条氏政と今川領の分割を
提案していた。

しかし氏政の生母は
氏真の祖父・今川氏親の娘だった事から、
氏政は拒絶した。

この為、信玄は徳川家康と
今川領 分割の密約を結び、
大井川を境にして
東部を武田氏が、
西部を徳川氏がそれぞれ攻め取る
事にしたのである。



12月6日、
信玄は1万2000の軍勢を率いて
駿河侵攻を開始した。

これに対し
氏真は重臣の庵原忠胤に
1万5000の軍勢を預けて迎撃させた。

ところが武田軍が進軍を開始すると、
今川軍は戦う事なく
退却し始めたのである。



今川家臣団は
父親の弔い合戦もままならない
氏真の力量に不安を抱いていたもの
と考えられ、
信玄はそこにつけこんで
今川氏の有力家臣である
瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、
葛山氏元らを調略し、
結果として
21人の武将が信玄に内通して
裏切ったのである。
(薩埵峠ノ戦い)

この為、今川軍は戦わずして敗れ、
12月13日に武田軍は駿府に入った。

更に駿府城の支城である
愛宕山城や八幡城も
武田軍に落とされた為、
氏真は遠江・掛川城の
朝比奈泰朝を頼って落ち延びた。

この時、
氏真の正室・早川殿(北条氏康の娘)や
侍女らは
輿も用意できずに徒歩で逃げるという
悲惨なものであったと伝えられている。


信玄は北条氏に対し、
「越(上杉)と駿(今川)が示し合わせて
 武田氏を滅亡させようとした事が
 明らかになったので今川氏を討つ」
と説明していたが、

娘が徒歩で逃げる羽目になった事に
激怒した北条氏康は、
武田氏との同盟破棄を決意し、

北条氏政は氏真の援軍要請を受けて
12月12日に駿河に援軍に向かったが
時遅く、
伊豆・三島に対陣するに留まった。

しかし12月13日に
徳川家康も三河から遠江に侵攻しており、
井伊谷城や白須賀城、
曳間城(後の浜松城)を落として
12月27日に掛川城を包囲するに
至る。

永禄12年(1569年) 1月26日に
北条氏政は、
今川氏救援のため薩埵山に出兵し、
武田勢と興津において対陣している。

2月、
信玄は河内領主・穴山信君に命じ
富士郡の国衆である
今川家臣・富士氏の拠る
大宮城を攻めさせたが、
北条軍の妨害などもあり敗退した。

同年3月13日には
薩埵峠を封鎖した北条勢と合戦しているが
勝敗はつかなかった。

北条氏に対しては、
下総国の簗田氏、
常陸国の佐竹氏、
安房国の里見氏ら、
関東諸氏に呼びかけて
牽制を行ったが、
北条氏を撤兵させるには至らず、
逆に兵糧の欠乏や
徳川氏との手切れなどの事情があり、

4月28日、
江尻城に穴山信君を残した上で
興津を撤兵し甲府に一時帰還する。

一方、
信玄は信長を通じて
越後・上杉氏との和睦を試み、
(甲越和与)

同年2月から3月には、
武田・上杉双方に
将軍足利義昭から御内書が
発せられている。

徳川氏との間には、正月8日に、
武田家臣・秋山虎繁(信友)ら
下伊那衆が遠江を侵したとして
抗議されるなど、
齟齬が生じていたが、

2月には
誓詞を交わして関係改善を試み、

4月7日には
掛川城攻撃を要請している。

しかし同年5月に
家康は武田との関係を手切れとし
撤兵、
家康は武田氏の撤兵中に駿府を占領、

5月17日には
掛川城に籠城していた氏真を
無血開城させる事で降伏させた。
これは北条氏の仲介のもとで行われ、
同時に徳川氏と北条氏の同盟が
締結された。

その後、
氏真は氏政を頼って伊豆に落ち延び、
氏政の嫡男・国王丸(北条氏直)を
養子に迎えて、
駿河・遠江の支配権を譲った。





6月9日には
北条氏政と上杉輝虎(上杉謙信)が
越相同盟を締結する。