“石田三成は、有能だが狭量な「困った人」” | 歴史ブログ

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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


【三成は、有能だが狭量な「困った人」】



どこの世界にも困った人はいる。

その中で最も困るのが、
頭が固くて融通の利かない人である。

こうした人は、
己が正しいと思えば
何を言っても聞かず、
とにかく己の正義を押し通そうとする。

しかも、
こうした手合いに限って
自分の利には疎いから厄介である。

戦国時代における
この手の典型として、
石田三成がいる。

その生きざまには一貫性があり、
一途に清廉潔白である。

しかし、
その頑(カタク)なまでの姿勢が
豊臣家を滅ぼしたのだから、
正義とは何とも罪なものである。

永禄3年(1560)、
三成は琵琶湖 東岸の
近江国 坂田郡 石田村で生まれた。

少年期の三成には
有名なエピソードがある。

長浜城主となった羽柴秀吉が
鷹狩りの帰途、
喉が渇いたので
近くの寺に寄って茶を所望した。

すると姿を現した寺小姓は、
碗に溢れるほど、
ぬるい茶を入れてきた。

秀吉が、おかわりを所望すると、
2杯目は少し熱くて碗半分ほどの茶を、
更に所望すると、
少量の熱い茶を運んできた。

この気配りに感心した秀吉は、
その寺小姓をもらい受けた。
これが後の三成である。

これほど三成の人となりを
端的に表したエピソードはなく、
たとえ作り話だったとしても、
恐ろしいほどのリアリティーがある。

以後、三成は、
常に秀吉の傍らにあり、
その才を遺憾なく発揮し、
秀吉お気に入りの一人になっていく。

そのまま何も起こらなければ、
織田家の一大名・羽柴家の家宰として
三成は辣腕を振るい、
直江兼続のような名声に包まれたまま、
その生涯を終えていた事だろう。

ところが運命は、
秀吉、三成 主従を
そのままにしておかない。

天正10年(1582)6月、
秀吉の主君である
織田信長が本能寺で斃(タオ)れる。

これを聞き
中国大返しを演じた秀吉は、
主君の仇である 明智光秀を討ち、
次代の天下人候補の筆頭に躍り出た。

翌・天正11年に
対抗馬の柴田勝家を自刃に追い込み、
天正12年から翌13年にかけて、
政治的駆け引きにより
徳川家康の封じ込めに成功する。

こうしてライバルを
次々と退けた秀吉は、
天正13年、関白に任官する。

この時、
26歳の三成も従五位下・治部少輔に
叙せられた。

天正15年、
九州の島津氏討伐の際に
兵站を担当した三成は、
8万にも及ぶ軍勢の兵糧や
武器弾薬を切らす事なく
戦場に送り込むという
離れ業を演じる。

しかも戦後処理にも手腕を発揮し、
秀吉をなだめて
島津氏を滅亡の淵から救った。

天正18年(1590)の小田原合戦では、
兵站を同僚の長束(ナツカ)正家に任せ、
武将としての実績を積むべく
関東各地を転戦した。

文禄元年(1592)に始まる
朝鮮出兵では、
漢城(ハンジョウ=ソウル)まで出張るなどして、
日本軍を後方から支え続ける。

但し、この頃から、
三成は自己肥大化が始まる。

本来、外征に反対だった三成は、
同じく反対派の小西行長らと組み、
この戦を終わらせる為に
様々な策謀をめぐらせた。

「戦を終わらせようとする事の、どこが悪い」
と言うなかれ。

軍事作戦というのは
最高司令官(この時は秀吉)の
意に反する動きをすれば、
その被害は味方に及ぶ。

つまり方針が決定したからには、
それに従わねばならないのだ。

太平洋戦争 開戦前、
米国との戦争に最も強く反対したのは
山本五十六だった。

しかし開戦と決まれば
全力で敵に当たる。
これが軍人の心得である。

三成も行長も真の軍人ではなかった。
それゆえ味方の和を乱し、
味方を危機に陥らせる事を
平気でやった。

それに加藤清正や黒田長政が
腹を立てるのは当然である。



この時、三成たちは、
和睦条件を日明双方に
都合のよいものに変えて
秀吉に報告したり、
主戦派の加藤清正を讒言(ザンゲン)で
陥れたり、
勝手に撤退を図ったりと、
秀吉の老耄(ロウモウ)に付け込み、
日本軍の足並みを乱した。

これにより勝てる戦も
撤退という結果に終わり、
清正ら豊臣家武断派との溝は
修復できないほど広がった。

それが豊臣家中の分裂、
そして関ケ原へとつながっていく。