慈悲の心と愛の始まり 星になりたい
まだ暑さ残る9月の夜。湖の周りを何気なく歩いていた。
すると、一人の女が膝のあたりまで湖に浸って佇んでいる。
そのまま女の背後を通り過ぎてもよかったのだが、不意に声をかけてしまった。
「どうしたのですか?こんなところで何をしているのですか?」
女は一瞥もくれず姿勢を変えようともしない。
その態度に少し苛立ちを覚えたが、今一度訊ねてみる。
「聞こえていますか?あなた、風邪をひいてもつまらない。そら、こちらにいらっしゃい。」
返答を待つも振り返ろうともしない女に、再び無視をされたのだと思い本当に不愉快になった。
知ったことかとその場を離れようとした時、漸く女は口を開いた。
「私は死ぬの。そう、このまま死ぬの」
突然何を言い出すのかと思ったら理解不明なことを口走る。
しかし不思議なことに、厄介に巻き込まれるとは思わなかったので再び聞いてみる。
「死ぬ?どうしてだい?何があったのかは知らないが、そんな簡単に生きることを諦めちゃいけない。生きていればなんとかなるのではないか?よかったら相談にのるが…」
返事を待ったが女は例によって微動だにしない。
秋に近付きつつあるのだろうか。木々の中からはリリリと鈴虫が声を張り上げる。
自分はどうしてよいものかわからず、その場に立ち尽くしていた。
「いかにも、その辺りで拾ってきたような言葉ね。」
女はそう言った。その言葉には悪意が込められているというよりかは、悲しみのどん底から絞りあげているように聞こえた。女はことばをつなぐ。
「辛いことがあったから死ぬですって。死ぬに値する理由ってそれだけなの?逆にいえば辛いことがなければ死んではいけないのかしら?そんなもの陳腐な発想だと思うわ。」
確かにその通りだと思った。この女の思案の深さに驚いた。しかし、自分のような凡人には人生を終わらせるに匹敵する理由など悲しみ・苦しみといった当り前のことしか見当たらない。
これ以上は何を言ってもこの女には届かないと思いその場を去ろうとした。すると、今度は女のほうから聞いてきた。
「あなたは幻?それとも実在する物?私はケダモノになりたい。本能だけになりたい。よからぬ知識などいらない。ただそこに存在するだけの圧倒的な存在でありたいの」
何やらおかしなことになってきたなと思う。
どうやらこの女、妙に哲学的なことばかり言うと思ったら、このような台詞を並べて自分に酔いたいだけなのではあるまいか。さすがにそのような茶番に付き合っているほど暇ではないので率直に聞いてみた。
「あなた、本当は誰かに死を止めてほしいのではないのかね?もしそうであるとしたら、自分はそのような人間ではない。あなたが生きようが死のうが自分には関係がないものでね。」
図星だったのか、女は明らかに焦った様子である。女は必死で平静を装い自分に言った。
「違うわ。誰かに理解してほしいなんて思ってないもの。どうしてあなたはそんなこと言うの?私はただ生き物としての起源を知りたいだけ。そう。言ってしまえば宇宙の始まりを知りたがる人間の業のようなものね。」
もうすっかりどうでもよくなっていた自分は、明らかに適当であります、といった感じで聞いた。
「そうかそうか、だからもう私は何も言わないよ。死ぬなら死んどくれ。ばいなら。何か言い残しておくことはないのか?」
女は半べそになっている。だが、この女はまだまだ諦めない。
「私に興味がないのならもう行ってください。私は静かに生涯を終わらせる覚悟なの。あなたのような無神経な人にどうこう言われたくないの。」
少し間を置き、女はとっておきであったであろう言葉にとりかかる。見透かされた恥ずかしさからなのか先ほどのような余裕はない。
「そう、人が生きるということ。それは誰であろうと同じ…深い罪の中に身をおきながらのうのうと笑って生きていかなければならない。私はそれに耐えられない。生きる…この喜劇にも似た境涯を打ち破ること。それこそが人生を、人生を全うしたといえるのよ。だから私は、私はこのカオスから抜けだしゅ、抜けだすこちょえお、抜けだちぬぉぱぴょ」
あーあ、かみかみやがな。
一番の見せ所でぐだぐだやがな。
そんな根性で役者なんかつとまるか!やめちまえ!!
と怒鳴りたかったが、この女は役者ではないことを思い出した。
女の肩をぽんぽんと軽く叩いてその場を後にした。
よっく聞けてめえら、最近俺様は愛を取り戻した。ゆえに、これからは人に優しく生きていくのだ。
生きる喜びを見出した夏の終わり。
線香花火は秋でもやれる。
僕の炎は燃えたぎっているのだ。