Photo title:喜びの再会

沢山の喜びと共に抱き合うふたり

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ただそれだけ
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幸せとは
たくさんの喜ぶ心

ただそれだけだ

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幸せとは

多くの人が追い求め手にしたいと思っている幸せ。

幸せを探したり、幸せを手に入れるために努力したり、他人の幸せを羨ましく思ったり、多くの人が幸せは手に入れるもの、今ここにはないどこかにある崇高なものと思い、歌や小説そして映画等様々なものの題材にしてます。

ここで1つ幸せとは一体何なのか改めて考えてみましょう。

皆が言う幸せとは、たくさんのお金が入ったこと、権力を持ったこと、おいしいものを食べれたこと、欲しいものが手に入ったこと、好きな人と一緒になれたこと、その対象は多岐に渡っています。

だから幸せになるためにお金をいっぱい稼ぐとか、仕事を頑張るとか相手に好かれるように努力するなど、それが幸せになる方法だと信じ生きています。

幸せは来るもの、何処かにあるもの、今ここにはないもの、そう考えるから、そして世のみんながそう言ってるから、幸せになる人なんて一部の人だと、生まれてから刷り込まれているのです。


実は、幸せとは"もの"ではなく、どこかにある"こと"でもなく感情なのです。

喜怒哀楽で言えば喜びなのです。

さっきの幸せになる条件に当てはめてみましょう。

お金があるから喜ぶ、おいしいもの食べられたから喜ぶ、好きな人と付き合えたから喜ぶ、権力持てたから喜ぶ、欲しいものが手に入ったから喜ぶ。
そうすべては喜びにつながるのです。
だから、本来はものなどは関係なく、たくさんの喜びが集まっていつも嬉しい状態であること、それを幸せと呼ぶのです。

ただ何もなく喜ぶと言うことが難しいから、その対象の相手として様々な事があるだけなのです。
幸せは感情なのですから、幸せがないなんて事は本来は無いのです。

幸せが無いのではなく、その対象が手に入らないから悲しむとか落ち込むとか絶望するとか、それが本当の所なのです。

だから幸せそうな人を見て羨むのは、その対象のお金とか相手とかではなく、注目すべきはその喜んでいる姿なのです。

これは顕在意識と潜在意識に関係があることなのですが、様々なことに喜びを見出せる人は、潜在意識の領域もその喜びの感情がたくさんつまっていることになり、日々の中でさらに喜ぶべきことをたくさん見つけることができます。
喜びに対して幸せをものやことだと、それだけに注目している人は、それが手に入らないと悲しみ、幸せじゃない方、そして否定のほうに目が行き、逆側の感情に注目しすぎてるから、それが潜在意識内で増幅され続けるのです。

幸せな人はより幸せになり、不幸な人はより不幸になる。
そのメカニズムはこういうことなのです。

この様に少し見方を変えればこれまで見えていた景色がちょっと変わってくるんじゃないのかと思います。
どうせ同じもの見るのだったら、ほんの少しだけ視点を変えれば、幸せの種はいくらでも見つける事が出来るのです。
ここで忘れていけないのは、あくまでもそれは喜びという心の光や潤いが無いと芽吹かない"種"でしか無いのです。
そう、あくまでも大切な事は、あなた自身の喜ぶ心。

あなたはいろんなことに喜べていますか?
そして今幸せですか?
 

一歩踏み出す

Photo title:旅立ちの決意

未来に向かい一歩踏み出す事を決意する旅人

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出来ない
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今の時点のあなたが
それを出来ないのは
大した問題じゃない

出来ない自分への
不安に囚われて
行動できない事が
問題なんだ

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一歩踏み出す

日々暮らしていく中で、全て思った通り行動や言動する事ってなかなか出来ないものですよね。

それは相手との関係性や、今の自分の立場や立ち位置、そして自分が見積もっている今の自分の能力や財力など、様々な事で制限を課して、それをやめたり諦めたり心の奥に閉じ込めたりしてしまいます。

もちろん、様々な人や物事と関わり合いながら生きているのでその行動自体間違いではありません。
それをする事で自分の心に不必要な負荷が掛からないのであれば、むしろそうすべきかと思います。

ただ、それは自分の中で折り合いがつくと言う前提があるものに対しての事で、そうではない事、信念や夢、なりたい自分に関しては、今は出来ない事だからとか出来そうにないとか、出来なかった時に絶望しない様にその事自体を目指すのをやめてしまうと言う、本末転倒な予防線を引いてしまうと言うことをするべきでは無いのです。

なりたい自分と言うのは今そうでは無いから"なりたい自分"であり、なっていればとか簡単になれるのであれば"なれる自分"でありわざわざ目指すものでも無いのです。

なりたい自分とは、それを思うだけでワクワクした嬉しい気持ちになれる存在で、今の自分を変容させる為の道標なのです。

ですので、そう思えない様な絶望してしまう所を目指すのでは無く、心から純粋になりたい自分を思い描くこと。それが大切なのです。

ではなぜ時に人は絶望するような遠いところを目指してしまうのか?

これも本末転倒な予防線であり、どうせ目指すなら辿り着いてしまったら、その先は何もしなくても楽に生きていける様な、馬鹿げた領域までなりたい自分に足してしまっているからなのです。

心から望んでいない事だから、そして自分の成長をそこで終わらせてしまう様な不毛な夢だから、その為の答えなど出るはずもなく、踏み出す事すらも出来ないのです。

なりたい自分と言うのが、自分が載せた不毛な夢と言う重しに押し潰されてしまうのは勿体無いですよね。

ですので、一旦見つめ直して本当になりたい自分とはどんな存在か?
それをクリアにする事で正しい道標が灯り、そこにたどり着く為の純粋な一歩を踏み出せるようになれるのです。


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今の時点のあなたが
それを出来ないのは
大した問題じゃない

出来ない自分への
不安に囚われて
行動できない事が
問題なんだ

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さあ、一歩踏み出しましょう。
 

Photo title:蘇生の神子

倒れし者を蘇らせる神子

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幻花
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潰えぬ想い 永久に
我を行きゆく 今日明日へ
眠る其の為 闇穿ち
娑羅林寓せて 幻花
 
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まぼろばな
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ついえぬおもひ とこしゑに
われをゐきゆく けふあすへ
ねむるそのため やみうがち
さらりんよせて まぼろばな
 
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つながると言う事

"この世界は見えないところでつながっている"そう以前の話でお伝えしましたが、実際生きてる中でそのこと自体を感じることってなかなかないと思います。

ただそんな中、ある意味見えるつながり、家族、親子、兄弟姉妹、同じ国、同じ星である地球に住む人々など、これらも1つのつながりであり、それをつなぐものが私たちが「縁」と呼ぶ繋がりなのです。

これは決してただその時代のその場所のその関係性の中で生まれたと言う証だけではないのです。

あなたも、そしてすべての人々、そしてすべての存在も、世界が淀まないように、この世界に対流を起こす大切な存在なのです。

そのつながりの意味は喜怒哀楽やすべての感情を動かすための対極の存在であったり、同類の存在であったりします。

ですので同じ属性の人々と引き合うために、逆の属性の人がたくさんいる中に身を置いたり、その感情を増幅するために、同じ属性の人たちに人たちと引き寄せあったりと、世界の各地で様々なことが起こっているのです。

そしてその中心である"ひとつ"の中は私たちの持つ潜在意識と同様に、善悪良否や肯定否定はなく、ただただすべてのものが混沌と渦巻いているそんな世界なのです。

"ひとつ"で言う顕在意識の中に生きる私たち、そしてその全てを司る潜在意識で言う"ひとつ"

私たちはひとりひとりは、この世界すべての縮図なのです

だから生きてる中で様々な人や物事に出会い、その度に様々な感情をフル稼働し、自分の心を対流させているのは自然の流れなのです。


この世界の根源である"ひとつ"の中の本質的な部分は全て「喜び」なのです。

ただその喜びだけでは、対比する相手がいないのでそれが何なのかわからず、そして同じ成分同じ温度のものしかなければ、対流しなくなり、新鮮さが薄れ澱んでゆくのです。

何も無い純粋な喜びである"ひとつ"だった存在の臨界点に達し、世界に広がり始めたのがそう所謂ビッグバンなのです。

それからだんだん世界は世界は広がり続けています。
ただ広がりすぎてしまうと制御できなくなり、四方八方に霧散してこの世界は消えてしまうので、内側に戻り続けなければなりません。
それが世界で起こる続ける戦争と平和の関係性なのです。

これも以前お話ししましたが、哀楽の4つの感情のうち喜びと楽しみは、包み込む力極性で言えばマイナス内側へと働く力。そして怒りと悲しみは外側へと働く力、世界を広げる力プラスのエネルギーなのです。

マイナスが強ければ元の大きさにだんだん収縮していき、それが強ければ最大限に圧縮されて行きます。
広がる力が強すぎれば、世界をその姿を保つことができなくなり、四方八方に霧散してこの世界自体がなくなってしまいます。

拡大と収縮、程良いバランスに保つこと、それがこの世界を健全に保つための理なのです。

だから世界各地で戦争が起こり、世界各地で反戦運動が起こっている。
その根本はこういうことなのです。

顕在世界である私たちが持つ善悪良否それは世界を動かす力となるのです。
潜在世界の様にその善悪良否の極性が無ければ、全てが混沌と渦巻くだけとなってしまいますので、流れる方向の秩序を創る為、顕在世界すなわち顕在意識が存在するのです。

世界の比率で言うと顕在意識:潜在意識は5:95と圧倒的に潜在意識が優位ですが、世界を正しく存在させる為の重要度に関しては50:50なのです。

また少しだけこの世界の深いところに触れたようなお話になりました。
この話は私たちが生きていく上で意識していく事はほとんどない世界の話ですが、心の奥に置いておくことで、世界の見え方がほんの少し変わってくるんじゃないかと思います。

ただ1つ言える事はこの世界が流れるために、誰ひとりそして何ひとつの存在に間違いがない。
そういうことなのです。

この続きはまたいつか。

Photo title:天馬翔ける空

自由な心で空を翔ける天馬


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見つからない答え
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たとえそれが
特定の相手だったとしても

自分以外の誰かにとっての
正解なんて見つからない

絶対に見つからない

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認められたいと言う心

「認められたい」そう思う事は無いでしょうか?
普段生活していく中で、仕事や趣味遊びなど様々な場面でたくさんの人々と関わり合います。
そんな時自らの行動に対し評価されること、それに喜びを感じる。
むしろそのために頑張ると言うのも1つの目標だったりもします。

認められたいから努力をする。
そして人に認められたいから自分自身を整える。
人に認められたいから研鑽する。

この世界は大きく分けて自と他の二極の対比の世界。

人に認められる事、それが自分自身を前に向かせそして進んでいくための推進力であれば悪いことではない、いや、むしろ良いことではないかと思います。

しかしそれに囚われすぎて人に認められること、それ自体が目標すなわち到達点になってしまうと、自分自身を枷に掛けてしまうことになりかねません。

人に認められるために努力する、人に認められるために行動する。
それはあくまでも経過の中のさらに一部であり、そこだけに注目してしまうと、何のために人に認められたいのか何のためにその行動してるのか分からなくなり、そして思うように認められない、誰も自分のことなんて見てくれてない。そんな思いに囚われ1歩踏み出す足が重くなり、最後には身動きが取れなくなってしまう。
そんなことになってしまいます

人は何のために生きているのか、
別の章でお話ししましたが、それは自分自身が喜ぶためなのです。
その喜びを、他人に認められると言うことに全振りしてしまうと、自分ではコントロールできない領域となり、他人の目を気にしてこちらから見えるそのわからない他人の一挙手一投足に気を配ることになり、本来の目的であるなりたい自分を見失ってしまうことになります。

自分から見えている他人とは、他人の真の姿ではなく、自分から見ている「都合の良い他人」そして「都合の悪い他人」それでしかないのです
100歩譲って、自分から見て「都合の良い他人」と言う解釈であれば、何かしらの推進力にはなりますが、自分にとって「都合の悪い他人」としか見えてない時は自分を縛る鎖にしかならないのです。

さらにそれが自分自身で作り上げた単なる幻想であるから、そのまま見つめていても何の解決も出来ず、苦しくなるばかりなのです。

認められたいそう思うことの中には、自分が得意としていること、そして認められるために毎日継続していることがあると思います。
ただそれは本来は認められるために始めたことではないことが多く、本当は自分が好きなことそしてなりたい自分になる為の途中であることが多く、その過程でいつの間にか人に認められることがなりたい自分を達成するための近道だとか、それが本当のやり方だとかそう思い込んでしまうのです。

それは何故か。
そう、それは顕在意識、自分が思考コントロールできる範囲で考えてるからその範囲で出せる答えで、その程度でしか無いのです。
そしてそれが1番楽で簡単で目に見えてできるであろう方法に思えてしまうからです。

なりたい自分になる為にはずっとずっと俯瞰して、今の時点では見えない繋がりなど、それを辿るために様々な行動を起こす必要がありますが、それは潜在意識の中でしか見つけることができません。
実は今その方向に向かって進んでいるのに、それが目に見えて現れないから、今やってることや思ってることが間違いじゃないかと不安になり、目に見える他人からの評価、それを求め安心してしまいたいのです。

もちろん心穏やかに安心して生きていくのは大切なことですが、それを自分以外の他人に委ねてしまっては、その場で足踏みしてしまっているのと同じなのです。
そしてただその場で足踏みしているだけなら、まだしも、その場でくるくる回りながら足踏みして、もうどこに向かっていいかわからない。そんな状態に陥ってしまうのです。

そんな時は一旦落ち着かせて少しその場から離れてみるのもいいかもしれません。
それか全く違うワクワクすること、他人の目なんて関係しなくて自分の中だけでやれることそんなこと始めてみるのもいいかもしれません。

それを、短くも長い人生の中を歩いていく中のちょっとした休憩点と思いやるのもよし、やめること自体がストレスになるのであれば、少しペース落としてやるのもよし、とにかく自分の心にマイナス方向での負荷がかからないようにすることが1つの方法です。

他人の評価は前から受けるものじゃなく、後から受けるもの。
背中から受け推進力にはしても良いが、正面から受けて自分を停滞させるものにはしないこと。

自分の心の先端を流線形にすること、そんなイメージで生きてみること。
時が来れば望むようになる。そう思うこと。
そしてもう一つ魔法の言葉。

「すべては自分にとって都合良くなるようにできている」
そう唱えること。

根拠なんていいのです。そうなっているのだから、心から信じその言葉を唱えるだけでも充分なのです。
他人の評価に勝手に押し潰れそうになった時、こんな風に心を整えることをお勧めします。
 

Photo title:銀龍のオーラ

全身から圧倒的なエネルギーを放つ銀龍

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喜怒哀楽
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喜怒哀楽
全てあるから
全てが成る

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怒りとは

人の感情の中で喜怒哀楽の中の1つに分類される"怒り"
喜怒哀楽ともにどれも大切な感情なのですが、どちらからかと言うとあまり良くないイメージに捉えてしまうこともあるかと思います。

怒りは放出する側で、ある意味ストレスのはけ口と言うのは言い過ぎかもしれませんが、放出する方にとっては悪いものでは無いかも知れません。
ただ怒られる側すなわちに受ける側関しては、逆に怒りをぶつけ返すか、身を固くして受け止めるか、そして大きな心で包み込むか、いずれにしても外から来るものに対して対処しなくてはならないと言うある意味良くない力に受け止められがちです。

ではなぜこの怒りと言うものがあるのか、深い話をするとこの世界を対流させるため、放出側のプラスの属性のエネルギーとなりますが、しかしずっとずっと小さな個々言う単位に生きている私たちにとっては、そんな対流など正直言って実感がなく、放出するエネルギーでしかありませんよね。

怒りのプロセスとすれば、自分の中にある信念と真逆又はその信念を阻害する事柄にぶつかったときに、それに対し信念をぶつけ返すまたはその反対側の信念を押し返すそのために使います。
また心に負い目などある時も、それに触れられるとその拒絶反応で思わずそちら側で使ってしまうこともあります。

もちろんどれも間違い等は無いのですが、その使い所によって、世界と分断してしまう可能性も孕んでいます。

ただそれが全て悪いことではなく、その分断すること自体があなたが望む未来にとって必要なものだから、今この場所に留まっていてはそこにたどり着くのに時間がかかってしまう、今いる場所が望んでいる世界とは全く違うなど、肯定的な意味で今いる世界との分断と言う場合もあり得ます。

その他に自分以外の人や自分の外の世界で常に怒っている人がいると思います。

怒りは放出する力ですので、近くにいるとそれが自分に向けられているのはないかと言うある意味不快感が起こりますが、そんな人も恐らくその人もなりたい自分の中で強く思っていること、それを達成するために怒っているのでありその人はその人の都合だけでしかないのです。

この様に、怒りの中にも様々ありますので、怒り=良くないエネルギーと一括りには出来ません。

怒りはその使い所をよく考える事が必要なのです。

怒りとは放出する力。
受け止める力は1つもありません。
だから怒りに怒りをぶつけても解決しないのです。
むしろ相手にぶつかった怒りが、また怒りとして返ってきてさらに増幅するばかり。
そして相手に向かって放出するのだから、後ろ向きに進むばかりでお互いどんどん離れていくのです
こうなると、お互い届かなくなるまで離れるか、どちらかが受け止め別の力に変えていかないと終わりはありません。


怒りの使いどころは心において、背中から放出し、前に進むための力推進力へと使うのが本来の目的なのです。
自分の想いと違うのであれば、自分の進みたい方へ進むために背中から放出する。
そう、否定的に使えば、あなたの前から放出し、肯定的に使えば背中から放出するのです。

怒りは相手にぶつけるのでは無く、自らの推進力とする事が全てを正しく対流させる事に繋がっていくのです。

怒りの使い方、もう一度考えてみませんか?