怨恨の対義語は恩義、恩義の類義語に感謝 | 自活屋徳々の誰にも読まれない役立たずな随筆

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あくまで自分の関心のあることだけを綴る随筆で、それが誰かの役に立つかどうかは読み手に委ねるところ。
私が一番関心あるものは、どうやって死ぬか。死に様は生き様の末路、ならばそれまでの行程は、激しく穏やかに溌剌と愉快に生きてゆきたい思いです。

いつも最後まで
お読みいただき
ありがとうございます。






才能天命クリエイター
徳丸精一です。

 

 

 

 

 

今回は怨恨と恩義

そして感謝がテーマですが

なぜ怨恨が

人気と金運に繋がるのか?





そのわけは一旦置いといて

これより以下投稿する内容を
是非ニュートラルな気持ちで
読んでいただきたく思います。





時々ニュースなどで、
実の息子が

親を滅多刺しにして殺した事件や
親が愛人と組んで

実の子供を生き殺しする事件など
怨恨だけに囚われたものでなく

人として残虐極まりない殺人事件を

耳にすることがある。





その時我々は
どの立場で
その事件のことを

受け止めているだろうか?





殺人事件を肯定も否定もすることなく
中庸の立場で受け止めることは
無理なことはわかっていても
殺人を犯す者、
殺人被害を受けてしまう者
いわゆる加害者と被害者の関係は
当事者にしかわからないものがあると

強く感じてしまう。





我々はあくまで第三者であり
そのニュースを聞いて
その状況に全く関係のない立場で
ものを見ているため
その被害者にも
加害者の気持ちにも

絶対になれるわけがない。

もちろん裁くことも慰めることも

できるわけがないのだ。





つまりその事件を
我々自身が実際に経験しなければ
その気持ちにはなることも
わかってあげることもできないのだ。





実際になったとしたら

最初はきっとこう言うだろう、、、

 

 

 

 

 

そっとしといてほしい、、、

 





そっと

しといて

ください!

 

 

 



と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


映画やドラマや小説を読んでいると
その登場人物になりきることがある。






いわゆる疑似体験をすることができる。

 

 




その時に我々は
加害者の立場になるか
被害者の立場になるか
その捉え方も設定によるところにやって
様々だと言える。






おそらくその時の
我々の置かれている状況に
その登場人物を投影してしまうのでは
ないだろうか?





つくづく思うのだが
理由なき無差別殺人者など

動機なき事件に関しては

ただ胸が痛い感情しか起こらないが、
夫婦間を除き

親子関係、兄弟、

いわゆる血縁関係に当たる

殺人事件に関しては
表裏一帯の関係や因果関係が

何らかの形で根強く

残っているのだろうと思う。

 

 




それが単に光と影の関係や
先祖との縦の関係でも

無いような気がするのだ。





あえてここで勇気を出して
言わせてもらうならば、
例えば滅多刺し殺人事件のように

 

 

 

 


”なぜ”
そこまでして

殺さなければ

ならなかったのか?”

 

 

 


殺人者の中にそれだけの

怒りの憎悪があったということなのか?





本当に憎しみしかない関係だったのか?

 

 

 



しかしながら
その憎しみの反対側に絶対的な愛
深い愛があったとも考えられる





つまりはそのバランスが

保てていれば良かった話なのだが
片方に偏ってしまったから
そんな事件が起こってしまったと

話を丸く治めようとすること自体が

間違っているような気もする

 

 

 



つまりは人を憎んだり

恨んだりするパワーの
振り子の反動の思いっきり
面かじきった反対側には
ものすごく根深い愛があるということ





そんな振り子の一番反対の所に行ったり
手前へ戻って来たりするよりも
中央部分のど真ん中にいることが
1番より良い人間関係であるのだろうと

我が人生の呵責を振り返りながら回想する。





そのど真ん中の中心とは
当たらず触らずの無関心であれと
言うことでなく
振り子の横に移動する関係でもなく
縦の関係

つまり上に上がったり
下に下がったりする時間軸を
どれだけ自由に活きていくことが
愛につながるのではないだろうか




本当は縦が先祖からの恩恵を

受ける代々のラインで

横が我々の人生の時間軸であるが

ものの視点を変えてみればわかるが

体を横に回転させて見たら

同じことなのだ。





つまり人間関係で

相手との関わる時間こそか
愛の深さともいえるのではないだろうか





それは必ずしも

その人と会っている
時間のことではなく
その人への思いや
その空間を埋める願いや

すべてはあなたという人への

想念を抱くこと自体が

命のリミットを削っているということ

 

 

 

 

 

しかし決してネガティブなことではなく

命とはそもそもが永遠ではなく有限だから

その限られた時間を捧げること自体が

愛なんだと言える。





ならば血縁関係だけではなく
すべての人を想像することを感じれば、
それら全てが愛だと言える。




私が今この気持ちになったのは
実はある1本の映画を見て
このような思いになったのだ。





人気と金運とは今回真逆の怨恨
つまり
恨んだり憎んだりすることが
金運とつながる

直接的なつながりでは無いにしても、

憎しみの反対側にある愛と、
時間の関係と比例する愛を

うまく使っていける人が

人気もお金も手に入れられるというjこと

つまりそれらは

人の気持ちを集めることが

できている状態なので

金運とつながるということ

全てこの縦軸横軸それがつながっている

クロスロードとなる十字架の

中央部にあるということ

 

 

 









そんな私が今朝見た映画を
是非皆さんにシェアさせていただきます。






金田一耕助、横溝正史シリーズに次ぐ
東野圭吾最高傑作と言えるだろう

加賀恭一郎の
祈りの幕が下りるとき













この映画に出会えたことを
こころより感謝します。





もう後半は

涙がずっと

止まりませんでした。





私には娘が三人います。
娘たちを守るためならなんだってする!
実際はそんな度胸はないでしょうが
娘を脅やかす外的要因に
殺意でしか対抗できない時は
私は自分の体を差し出すだろうと思います。
いやひょっとしたら
相手を殺めてしまうかもしれません。
もちろんないとは思いますが、、、





そうせざるを得なかった理由は
当事者にしかわからないものなのだ!





しかしそこに至るまでの原因が

自分で作ったものではなく
幼き頃
どうしようもならなかった
環境にあった場合、
その当事者になってしまった自分とは、
今その時にある気持は
何を言おうとするか、
何をしてしまうか、
それは神のみぞ知るということ













人には絶対に譲れないものがある!
 

 

 

 

 

命をかけて守るべきものがあれば
我々はなんにだってなれる。





娘や嫁さん
家族を
守るために
命をかけていきます。

 

 

 



そして第二の家族とは
私をご利用いただけるお客様!
お客様は神様であり家族なんです。






つまりまだ見ぬあなたという
神様は
家族の一員です。














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