風間(魔)が村にやってくる | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

2010年1月30日 (土)

風間(魔)が村にやってくる

 『新編武蔵風土記稿』巻之百十一多摩郡之二十三(雄山閣版『新編武蔵記稿』第六巻81頁)の上段に、舊家百姓軍次とある、以下これを記す。
 氏は吉野なり先祖は北条の麾下にて、吉野対馬守橘盛光といへり、天正元年四月二十九日没す、法名を凌雲院貴州道富と号す、其子九郎右衛門もまた対馬守と稱せり、これより以來世々相續して今十三代に及ぶと家紋丸ノ内に酸漿草替紋丸ノ内橘なり、家系武器なども中古まで傳へたりしが、今は散逸せしと云、たゞ文書二通を蔵するのみ、その文左にのみ、
   風間來七月迄、六ヶ村被爲置候間、宿以下之事無
   相違可申付候、萬一對知行分、聊も狼藉致ニ付而者
   風間ニ一端相ニ斷、不致承引者、則書付者小田原へ可
   棒候、明鏡ニ可爲致之者也、仍如件、

   北条家虎印あり
    壬申五月七日 按ずるに壬申は元龜三年なるべし、
                           笠原藤左衛門奉
           岩井彌右衛門殿
           中村宮内丞殿
           足立又三郎殿
           濱野将監殿
           立川藤左衛門殿
   読み下し文
   風間来る七月迄六ヶ村置かせられ候間、宿以下の事
   相相違なく申し付けべく候、万一知行分に対し、いささかも
   狼藉致すに付いては
   風間に一端相断り、承引致さざるもの、則書付は小田原へ
   捧げべく候、明鏡におおせ付けらるべく候、馬の草薪取儀をば
   相違なくこれを致させべく者なり、仍てくだんの如し、(清水菊子)
 文中に風間(魔)といへるは、小田原北条家にかゝへおける亂波なり、亂波とは忍の者のことにて、あるひは透波とも云、風間(魔)はその首領にて、諸國を廻り軍事をたすけしものなり、

 角川書店『新編武州古文書上』398頁には〔舊檜原村本村軍次所蔵吉野氏〕(東京都西多摩郡檜原村本宿)とある。北条家印判状の印文は「禄寿応隠」である。「人民よ、皆で平和に暮らそう」の意味で、北条の始祖、早雲は「民の幸せなくして、国の発展などありえない」が口癖であったという。
 風間(魔)の在村は五月七日より、七月迄の二ヶ月に及んだのであろう。奉行の笠原藤左衛門と濱野将監・立川藤左衛門については下山冶久編『後北条氏家臣団(人名辞典)』東京堂出版にその名がある。岩井弥右衛門尉・中村宮内丞・足立又三郎についてはこの文書以外不明。岩井弥右衛門尉・中村宮内丞・足立又三郎・濱野将監・立川藤左衛門は共に岩付衆の侍
【笠原藤左衛門】康明 藤左衛門尉・越前守。北条氏康・氏政の家臣。武蔵国岩付城(埼・さいたま市岩槻区)の奉行、小田原城(神・小田原市)の評定衆を務める。康明の康は氏康の偏諱。永禄二年(1559)の『役帳』に御馬廻衆、笠原藤左衛門と見える。合計百九十一貫文の役高。天正二年頃から康明は北条氏繁と不和になり小田原城に戻ると共に氏政の側近として活躍。天正八年(1580)三月に笠原藤左衛門と間宮綱信は北条氏政・氏照の命令で近江国安土城の織田信長への使者として京都に向かった。『信長公記』にその時の記載がある。
【濱野将監】武蔵国埼玉郡上馬場村(埼・八潮市)の地侍。弥六郎 将監か。武蔵国岩付城主北条氏政の家臣。永禄九年(1566)八月二十三日・永禄十二年五月十八日の氏政の感状がある。この頃の岩付城代は北条氏繁である。
【立川藤左衛門】立川氏は、立河とも書く。武蔵国多摩郡の国衆。のち武蔵国岩付城の侍。藤左衛門尉は岩付城主太田資正、のち北条氏政・氏房の家臣。岩付城の奉行。藤左衛門尉は知行三千貫以上を持つ重臣。父、式部丞の嫡男か。
 新人物往来社刊改訂『関八州古戦録』262頁に「…翌年甲戌(天正二年)の秋、氏政、伊勢備中守貞連(運)に命じて湯田村に縄張させ、砦をかまへて所務方の米穀を悉く取入させ、飯沼のあなたに有し天満天神の社を焼払いて、其地に城を築き、件の兵粮を舟にて城内に運遭なさしめ、風間孫兵衛、石塚藤兵衛に軽卒三百差副て、是を守らしむ。…」とある。逆井城が砦の頃の時か。
 北条氏照の家臣にも忍を上手とする者がいた。『北条記』巻第三「九高野台合戦之事」に「…小田原方の物見、由井源三殿の内横江忠兵衛と大橋山城守とて屈竟一の忍の上手にて、敵陣へ忍に入、此の躰懇に見て帰り申上ければ、大将軍氏政老軍を召され…」とあり、この時の合戦に勝利したきっかけとなったとある。
 この文書の六ヶ村とは岩付衆の支配下の村であろう。それが何故檜原村の吉野家に伝わったのかは不明であるが、武蔵野開拓の祖・吉野織部之助正清は大和国吉野の生まれで、武蔵忍城主・成田長泰の家臣であり、天正十八年、豊臣秀吉に攻められ落城の折、師岡村に土着して村の里正となった。この吉野氏と関係があるのではないだろうか。檜原村以下の六ヶ村に風間(魔)が来たとすれば、境目の城としての檜原城の役割からであろうが、この時期武田氏の後方撹乱をするには、北条氏と武田氏の関係は良くなってきた時期にあたるのでそれはないと思われる。
 私が八王子市営大和田台団地に住んでいた時に、妻が徳兵衛という蕎麦屋に勤めていた。この時に一緒に働いていたのが、同じ団地の濱野氏の細君であった。団地一の美人であった。この濱野氏が濱野将監の末裔と知ったのは最近のことである。私の母方の先祖は志村将監といい、北条氏照の家臣である。御館の乱の前に、氏照は厩橋(群・前橋市)で上杉氏に対して示威を行っている。この折、濱野将監と志村将監は共に気勢を揚げていた可能性がある。440年後に同じ団地で二人の子孫が顔見知りになっている縁を考えると今更ながら感慨深い。