真言僧儀海の足跡 十四 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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真言僧儀海の足跡 十四


十四 儀海と高幡不動尊

正式名高幡山明王院金剛寺、別称高幡不動。金剛寺は東京都日野市高幡にある真言宗智山派別各本山の寺院、高幡不動の通称でしられる。本尊は不動明王。古来関東三不動の一つにあげられ高幡不動尊として親しまれている。その草創は古文書によれば、大宝年間(七〇一)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る一一〇〇年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が清和天皇の削がん勅願によって当地を関東鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立し、不動明王を御安置したのに始まる。のち建武二年(一三三五)八月四日夜の台風によってやんちゅうの堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(一三四二)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方を始めとする戦国武将の尊崇をあつめた、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。



〔銅造鰐口刻銘〕

 (第一面)

 敬白 奉懸

 右、尋當寺者慈覚大師建立 清和天皇御願所 第二建立平円陽成天皇

 彼時頼義朝臣 自於登山 奉崇八幡 第三建立永意得秘密両檀

 大旦那美作助貞幷記氏一宮田人鍋師源恒有

  文永十年癸酉五月二十日

             銀念西守氏 鋳清連

 (第二面)

 武州高幡常住金剛寺虚空蔵院別当法印

 等海

                  願主乗海

  文安二年乙丑二月二日



〔高幡不動尊火焔背銘〕

 武州多西郡徳常郷内十院不動堂修複事 右此堂者、建立不知何代、檀那又不知何人只星霜相継、貴賤崇敬也、然建武二年乙亥八月四日夜、大風俄起、大木抜根柢、仍当寺忽顛倒、本尊諸尊皆以令破損、然間暦応二年己夘檀那平助綱地頭幷大中臣氏女、各専合力励大

 功、仍重奉修造本造一宇幷二童子尊躰、是只非興隆佛法供願、為檀那安穏・四海泰平・六趣衆生平等利済也、仍所演旨趣如件

   康永元年壬午六月廿八日修複功畢

 別当権少僧都儀海

     本尊修複小比丘朗意

             大檀那平助綱 大工橘広忠

             大中臣氏女  假冶橘行近



 儀海は嘉元四年(一三〇六)二十八歳の時、由井横河慈根寺で「秘鍵草」「秘蔵開蔵鈔本」「大日経疏指心抄第一」等頼瑜の本を写して以来、現八王子西部の永徳寺・虚空蔵院・長楽寺・延福寺で開かれた頼縁の講筵に参加し、聖教の書写を精力的に行っている。従って儀海は二十代後半の比較的早い頃から多摩地方に縁を持っていた僧であるが、この事は細谷勘資氏が一九八九刊の『八王子の歴史と文化』第一号で指摘している通り、大仏谷を本拠とした師の頼縁が由井氏と特別なつながりをもっていた事によるものであろう。儀海が高幡不動堂を本拠としていつから止住し、いつまで活躍したかその年月は明らかではないが、元亨四年(一三二四)四十五歳の折、高幡不動堂弊坊で「理趣釈口決鈔第七」を書写しており、その後正中二年(一三二五)に同じく高幡不動堂弊坊で「阿字観秘釈巻上・下」を書写し、さらに元徳元年(一三二九)には師の鑁海を高幡不動堂に迎えて最後の伝授を受けているので、この頃には常住の状態になっていたと考えても間違いないと思われ、それ以後文和三年(一三五四)に弟子宥恵に各種印信をさずけているので、凡そ三十年と見るのが妥当なところであろう。この三十年間は儀海教学の仕上期間であり、その盛名を慕って各地から新義の学僧が数多く儀海の膝下に馳せ参じて勉学に励んでいる。殊に大須真福寺関係の学僧は開山の能信をはじめ実快・能秀・良賢・良慶など数多くの僧が高幡不動堂で学んでおり、また儀海が格別な思いを抱いていたと思われる弟子の宥恵も儀海から伝授された印信を大須真福寺第二世信瑜に伝えているので、本来は大須真福寺と関係あった僧であろう。尚大須関係の僧達は儀海没後と思われる延文年間以降も宥舜・宗恵・良慶・祐信・頼済等の僧が高幡不動堂をはじめ長楽寺・大塚宿坊・由木宿坊・河口別院など儀海ゆかりの寺々を訪ねて聖教の書写に励んでいる(川澄祐勝氏「儀海上人と高幡不動尊金剛寺」『多摩のあゆみ』第一〇四号)。

「大塚宿坊」は大塚の清鏡寺の前身あるいは同所にある観音堂、「由木宿坊」は別所の蓮生寺であろうか。清鏡寺は、文禄元年(一五九二)長銀が再興開山したものであるが、ここには鎌倉時代の作とされる十一面観音立像がある。また蓮生寺については、『吾妻鏡』寿永元年四月二十日条に僧円淨房が平治の乱の後、武蔵国に来て蓮生寺を建立したという記事があって、両者は同じ寺と考えられている(『細谷勘資』)。

 元弘三年(一三三三)五月八日、新田義貞は上野国新田郡生品神社で鎌倉幕府打倒の旗揚げをした。そして、足利方と協力し上野・越後・武蔵の兵を糾合して武蔵小手指ヶ原の合戦に臨み、つづいて久米川・分倍河原・関戸と北条方を撃破し鎌倉を落とし北条氏を滅ぼした。元弘の戦いである。武蔵国は北条氏の重要な地盤であった。この地の武士たちもどちらかの陣営に馳せ参じて戦ったと思われる。この時、横山氏直系子孫の横山重真は新田勢に加わり鎌倉で討死した。儀海はこの翌年に由井横河慈根寺にいた奥書があるので、この合戦の時には高幡不動尊におり戦いの帰趨を見守っていたと思われる。敗戦ともなれば寺に逃れ自害となることは京徳の乱(一四五四)の際に上杉憲顕がこの寺で自害していることから、このように大規模な分倍河原の戦いでは、その勝敗が重要であったと思われる。

楠正成の出自については、さまざまな説が出され、商業活動に従事した隊商集団の頭目という側面が強調されている。一方、楠という名字の地が摂津・河内・和泉一帯にないことから、土着の勢力という通念に疑問が出され始めている。『吾妻鏡』には、楠氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、もとは利根川流域に基盤をもつ武蔵の党的武士だった可能性が高い。武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂河泉など北条氏の守護国に移住していた。河内の勧心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領だった所であり、正成は本来得宗被官として河内に移住してきたものと思われる(海津一朗著『楠木正成と悪党』)。

新人物往来社刊『全譯吾妻鏡』二、建久元年十一月七日条、次の随兵四十二番、に楠四郎とある。海津一朗氏の説を地域的に考えれば新田氏と楠氏の接点はかなり近いと言えないだろうか。越後の新田氏の一族が義貞の旗揚げの日に間に合うのには当時の交通事情からすると、事前に義貞が楠正成と綿密に連絡をとりあっていなければと思われる。千早城攻めから義貞が撤退した時点では、すでに幕府に反旗を翻す計画が正成との間で決まっていたと思われる。

 高幡不動尊の不動明王坐像の胎内から発見された胎内文書は、暦応二年(一三三九)に山内経之が高師冬の陣に加わり、北畠親房と常陸駒城での合戦場から家族宛に送られた書状である。その内容は残された家族を心配する深い愛情に溢れている。そして、寺(高幡不動尊)に対して戦費の借用などを頼みこむものである。『日野市史通史二(上)』に詳しいので参考とされたい。

➉月日不明(暦応二年)、経之書状、僧の御方・六郎宛

下河辺庄の向いに着きました。下向しない人は所領を没収されると言われています。その他訴訟をする人などは本領までもとられるとのことです。笠幡の北方の「しほえ殿跡」も………いかにしても銭二、三貫文ほしいのです。大進房に仰せて銭五貫文を借りて下さい。

⑫十月八日(暦応二年)、経之書状、又けさ宛か

寺に申して苦くないお茶をもらって下さい。干柿やかち栗も送って下さい

⑩月日不明山内経之書状の「僧の御方」はその丁寧な言い回しから儀海宛であろうと思われる



元亨四年(一三二四)八月九日於武州西郡恒常郷高幡不動堂御坊書畢 権律師儀海四十五歳

正中二年(一三二五)七月三日於武州高幡不動堂蔽坊書写畢 為偏是旡上菩提更無二心而已 権律師儀海四十六

嘉暦二年(一三二七)十月七日於武州多西郡高幡不動同虚空蔵院弊坊書写了 願以一部十巻書写之功生之世之為大師値遇縁而已 権律師儀海

嘉暦二年(一三二七)九月廿日為興隆仏法書写畢 願以書写功為生之世之大師値遇之縁而已 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)元徳元年(一三二九)十二月三日於武州多西郡高幡不動堂蔽坊書写畢 右此秘決者先師(梵字二字)(鑁海)上人最後対面之時奉伝授了 誠是依数年之懇功令盛況之権律師儀海 私云酉酉正教与欠受之 私云此抄作者主決之極位加持門之有作伏間根来寺方聖教仁毛哉有之明師ニ可問之可稔云云 右此書者越前金津惣持寺院家不出雖為一代信州諏訪大坊日増法印似初仕数年之懇切テ雖稔書写畢 越中全山台金寺之住呂融儀不思議之感況之可稔云々

元徳元年(一三二九)十二月三日武州多西郡高幡不動堂蔽坊書写畢右此秘决者先師最後対面之尅奉伝授之畢或是依数年之懇切令感徳之畢 権律師儀海

元徳二年(一三三〇)正月四日於高幡不動堂弊坊書写了 金剛資儀海五十一才



空無相理釼印之事 一巻

右於武州虚空蔵院道場授両部潅頂畢 観応三年(一三五二)歳次壬辰三月二十八日胃宿日曜 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海

伝法潅頂阿闍梨位事(三宝院憲深方幸心流印信)



 観応三年(一三五二)三月二十八日胃宿日曜 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海

     授大法師宥恵(三宝院憲深方幸心流印信)

 文和二年(一三五三)三月二十一日 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海



二所皇大神宮麗気秘密潅頂印信 一紙(奥書)

文和二年(一三五三)癸巳五月二十一日 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海

     端裏「麗気 宥恵」



 文和二年(一三五三)十月十六日能信示之傳受阿闍梨法印大和尚位儀海

文和三年(一三五四)四月十九日信慶示之傳受阿闍梨和上大和尚位能信

文和三年(一三五四)七月二十一日於武州高幡不動堂此口决相承了 金剛資宥恵伝授阿闍梨法印大和尚位儀

阿闍梨位宥恵 授印可(三宝院憲深方幸心流印信)



 賢密堕情論談鈔 二冊(奥書)

干時文和二年(一三五三)癸巳四月晦日書写畢 武州定光寺談所府中南町上下□同寺令写畢 但書写之趣必好承意◆目残為稽古同旨雖毛間不顧其令書写畢 同□□毛如法如法々々々々々々々々 頼舜 美濃国方郡福光郷真福寺□門為仏法求学分武蔵国府中安栄寺所学之干数外同此両局難□無中局[   ]

延文六年(一三六一)二月七日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶   一交畢

延文六年(一三六一)二月十日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶 一交畢

延文六年(一三六一)二月十三日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶

延文六年(一三一八)二月十七日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶 一交畢

延文六年(一三一八)二月廿日於武州多西郡由木宿坊書写畢 執筆金剛資良慶 一交畢

 延文六年(一三六一)三月十八日於武州多西郡横山書写畢 執筆三位 同三月廿日於同

     州同郡河口長楽寺別当坊交合畢良慶