「岡崎城」にやってきました。この城は徳川家康の生誕の地としてよく知られています。
1530~1531年頃、家康のおじいちゃんである松平清康が、それまで本拠としていた明大寺より龍頭山の砦へと移り、本格的な城を構えたのが、岡崎城の始まりです。岡崎城は、矢作川と 菅生川(乙川)との合流点に立地しています。矢作川が西方に、菅生川が南方に対する天然の要害となっています。
家康は、1542年にこの城の城内で誕生します。少年期は人質として他国で過ごしましたが、桶狭間の合戦で今川義元が戦死したことを契機に、この岡崎城を本拠に自立しました。
1570年、家康は本拠を浜松に移し、嫡男信康を岡崎城主としました。1579年に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。
1590年に家康が関東に移封すると、豊臣家臣の田中吉政が城主となりますが、江戸期以降は、「本多(康重系)家」「水野家」「松井松平家」「本多(忠勝系)家」と、徳川家の譜代大名が歴代の城主を務めました。
歴史的には徳川色の極めて強い岡崎城ですが、現在残る近世城郭の多くは田中吉政時代に築かれました。秀吉の譜代である吉政は「二十七曲(まがり)」を始め城郭の東側を堅固にする等、 江戸の家康に対する防備の備えをしました。また、城下町全体を堀と土塁でぐるりと囲む総構にするなど、大規模な都市開発を行いました。
また、1617年、本多康紀が城主のときに、三層三階地下一階で、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ望楼型の複合天守が建てられています。ただ、この城も明治の廃条令によって廃城となり、天守を含むすべての建物が取り壊されてしまいます。
廃城令の際、旧藩士から保存を希望する声が明治政府に多数寄せられた結果、本丸・二の丸跡が保管対象となり、現在の岡崎公園として整備されました。現在では、本丸と周辺の曲輪、石垣、堀などの遺構が残っています。
また、1959年に復興天守が造られ、2010年には東隅櫓が再建されています。
下図のとおり、三の丸部分については市街化が進んでしまい、城の痕跡はほとんど残っていません。
1993年に木造再建された大手門から城内に入ります。今は国道1号線沿いに建っていますが、本来はこの場所にはなかったようです。白漆喰総塗籠めで切込接の石垣でできている綺麗な門です。
ちなみに、岡崎市は良質な花崗岩(御影石)の産地としても有名で、ここの石垣にも当然に地元産の御影石が使われています。
本多平八郎忠勝像。
公園内に常駐しているガイドさんから聞いた話では、1769年以降、本多忠勝の子孫が岡崎藩主となったため、本多忠勝が岡崎藩祖とされたそうなのです。三河藩の初代藩主である本多康重(同じ本多でも別系統)が藩祖ではないのか??と思ってしまいますが。
本丸西側の坂谷曲輪からぐるっと周って歩いていきます。石垣は吉政の時代から築かれてきましたが、場所によって積み方は様々であり、それぞれ異なる年代に築かれているようです。
坂谷曲輪を歩いていると天守が見えてきました。岡崎城には古写真が残っており、それを元にRC造りで再建されてはいるものの、最上階に本来なかった廻縁が付けられるなど、必ずしも図面どおりの復元とは言えないことから、分類上は「外観復元天守」ではなく「復興天守」という位置づけとなります。
東照公産湯の井戸。家康の産湯に、この井戸の水が用いられたと言われています。
東照公えな塚。家康が生まれたときのえな(へその尾・胎盤)を壺に入れて埋めたと伝えられる塚です。昔はえなを埋めて子供の成長を願ったそうです。
埋門(うずみもん)から本丸に入っていきます。
近年、大きく育った樹木の根が内側から石垣を押し出し、各所に孕みやズレが出てきています。岡崎市では、石垣保存修理計画を策定しており、石垣を傷めている樹木の伐採を計画的に進めているそうです。
下の写真は、埋門の石垣ですが、石と石の間にさりげなく計器や透明の棒状の物が取り付けられており、歪みの変動を測っているそうです。
埋門付近からみた復興天守。内部は資料館のようになっています。
天守の前にある家康遺言の碑です。
「私の命はそろそろ尽きてしまうのだが、将軍が、ちゃんとしていれば、私は安心して死ねる。
もし、将軍の政道がその理にかなわず、民衆が苦労していることがあったら、他の人に変わってもらうべきである、たとえ、政権が他家に移ったとしても、民衆が幸せならば、それが私の本意であり、恨みに思うことはない。」
というようなことが書いてあります。
天守からの展望。
龍城神社(たつきじんじゃ)は天守のすぐ隣にある神社です。家康の偉業を讃えるための東照宮として創建されました。社殿は日光東照宮の御神木で建立されています。
本丸を取り囲む清海堀は、岡崎城築城者の西郷清海からきており、岡崎城の最も古い構成要素の一つです。かなり深さはありますが、近年の発掘調査の結果、後の時代に土砂が堆積したことが明らかになっており、本来はもっと深かったと考えられています。
家康公・竹千代像ベンチと天守。右側には廊下橋も見えますが、現在は通行禁止になっています。
本丸の南側、龍城堀に映える鮮やかな神橋。なお、この橋はここが公園として整備されるようになってから架けられたものであり、江戸時代以前に存在していたものはありません。
敷地内にある三河武士のやかた家康館にも様々な展示がありましたが、時間がなかったのでササッとみて終わりにしてしまいましたが、グレート家康公「葵」武将隊という観光PR部隊の方たちが案内をしてくれるようです。
この後は犬山城へ向かうことも考えましたが、帰りのフライトまでの時間を考慮し、最後に小牧山城に向かうこととしました。
日本100名城 9/100
続日本100名城 10/100