今回は水原城(すいばらじょう)跡および水原代官所跡を訪れました。韓国にある水原華城(スウォンファソン)ではなく、新潟県阿賀野市の話です。
鎌倉時代以降、この地を治めてきたのは、前回安田城の訪問記事でも触れました大見氏でした。
大見氏はその後、主筋の安田氏、分家筋の水原氏、下条氏へと枝分かれしていきました。水原氏に関しては、南北朝時代、武蔵野合戦で武功を上げた大見盛家が足利尊氏より白河庄水原郷を与えられ、水原盛家と改めたのが始祖とされています。
戦国時代を通じて水原氏は上杉氏に従属し、当時の当主である水原満家は、川中島の戦いや小田原の戦いなどにも旗下として参加しています。謙信死後の跡目争いである御館の乱では景勝方で戦いましたが、上杉景虎の同盟である会津からの軍勢に苦戦し水原城を侵略されます。御館の乱終結後は行賞として旧領に復しました。
新発田重家の乱でも景勝方につきましたが、この際に満家は放生橋にて戦死したとされています。満家には嫡子が居なかったのですが、断絶を惜しんだ上杉景勝は大関親憲に水原氏を継がせ、親憲は水原親憲と改めました。
水原城周辺は阿賀野川の水害を直接受けることも少なく水田耕作に適していたので、親憲時代には、宗家の安田氏が1,232石に対して3,414石の大身となっており、揚北衆の中では色部氏の4,868石に次ぐ大きさになっていました。
1598年に景勝が会津に転封となると、親憲は猪苗代城代に任じられ、水原城は廃城となります。その後、新発田城に入封した溝口秀勝によって跡地に陣屋が置かれました。
1746年には、この地は幕府の天領となり、水原城の跡地に水原代官所が置かれました。代官所は幕末に廃止されるまでの約120年間続きました。代官所は、年貢の徴収と民政、福島潟の開発のほか、外様である新発田藩、村上藩の監視などの役割を果たしました。
現在、跡地には1995年に木造復元された水原代官所が建っています。(城としての遺構はなさそうです。)
徳川家の葵の紋が幕府の公的施設であることを示しています。
門の左側に設置されている杉原常陸介碑。「すぎはら」って誰よ?と思うのですが、水原親憲のことです。
大坂冬の陣において親憲は、鉄砲隊を率いて佐竹軍を救出するなど大活躍しました。既に齢70を越える老兵ではありましたが、「謙信以来、弓矢のぬくもりを持った男」と家康から称賛され、感状をたまわっています。
ところが、その感状の宛名が「水原」ではなく「杉原」と書き間違えられていました。将軍家からの感状なので、親憲は異議を申し上げることもなく、なんと姓の方を「杉原」(読みは「すいばら」のまま)に改めました。
さて、代官所の中を見てまわります。
代官所の図。堀で囲まれていたようです。

年貢収納確保や民政などに関する執務を行った公事場(くじば)
訴所(うったえどころ)。主に名主など村方役人が、農地や年貢・税あるいは用水のことなどについて、ここで陳情していたようです。
犯罪者の取り調べを行った白洲(しらす)。当時の拷問器具などが再現されています。
湯呑所(ゆのみどころ)。役人や奉公人の休憩室です。

手前から、上ノ間(かみのま)、中ノ間(なかのま)、使者ノ間(ししゃのま)。
水原親憲の肖像画。
情緒ある中庭。
廊下。

上御湯殿(かみおゆどの)。お風呂です。
温故堂(おんこどう)という学問所も代官内にありました。幕末の1850年に作られたと伝わります。
代官所全体の模型。
城というよりも代官所の跡地としての見どころがたくさんありました。
代官所の近くには越後府の跡もあります。
1869年初頭、新潟府の本庁が新潟町に開かれましたが、直後に信濃川の分水をめぐる関屋掘割騒動が発生し、交通の便が悪く他地域と隔絶した新潟町から越後全域を統治するのは困難と判断されました。
そこで政府は、越後・佐渡を管轄する越後府を水原に設置し、同時に新潟町の行政と外交を担当する新潟県を並立させることにしました。しかし内政と外交が分離したこの体制は非効率であったため、同年7月に両者を統合して水原県を設置し、翌1870年に本庁を新潟町へ移して新潟県とした。その後、新潟町は幕末の開港5港の一つとして発展していくことになります。
代官所は水原で一番の高台に築かれました。敷地はこの地の豪農・市島家により寄贈されました。
写真は1996年に当時の平面図を基に再建された櫓です。
近くにある瓢湖(ひょうこ)は白鳥の飛来地として有名です。1626年に新発田藩主・溝口氏が渇水対策用に造営を開始した人造湖で、1639年に完成しました。湖名は、当時の形がひょうたんに似ていたことによります。
白鳥は、毎年10月頃になると冬を越すためにシベリア方面からやってきます。瓢湖は日本で最初に白鳥の餌付けに成功した名所でもあり、2008年にはラムサール条約の登録湿地となっています。