まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

まったり攻城戦 -日本100名城・続日本100名城訪問の記録-

城の訪問記録。のんびり200名城の制覇を目指します。

 今回の旅程の最後の城、「小牧山城」にやってきました。

 小牧山は濃尾平野の中にポツンと立つ標高86mの低山で、真っ先に連想したのはドラえもんに出てくる裏山です。

 このように市街地に囲まれている低山は私の郷里である新潟県には存在しません。私にとっての平野は市街地か田んぼであり、山と言えば真の山間部、といった感じなので、ここの景色は新鮮味を覚えます。

 

 小牧山城の歴史は、1563年織田信長は美濃攻略の為に本拠を清州から小牧山に移したことから始まります。山頂に石垣が築かれるなど、石を多用しており、当時としては画期的な城でした。
 城の南側には城下町も整備されましたが、1567年に信長が岐阜に居城を移したため、小牧山城はたった4年でその役割を終えることとなりました。

 城下町まで造るくらいだから、信長も仮住まいのつもりではなかったのだろうけど、想定よりも早く美濃平定が成ったということなのかな?

 

 この城に再度スポットがあたるようになったのは、それから17年後の1584年。天下人に近づきつつある羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の間で「小牧・長久手の戦い」が起こりました。

 家康は、ここで羽柴軍を迎え撃つため、わずか5日間で土塁を高め、堀を深くし、要所に砦を築いたといわれています。もっとも、この城で直接戦いが行われることはありませんでした。

 

 山と城跡は、江戸時代を通して尾張徳川家の領地として保護を受け、一般の入山は禁止されていました。明治維新後も尾張徳川家の所有地でしたが、1927年に国に寄付され、現在は山全体が公園として整備されています。

 

 

 麓から見た小牧山。山頂に天守風の歴史資料館が建っています。


 

 小牧山北駐車場に車を停めて、搦手側から遊歩道を通って登城します。


 

 空堀の跡のようです。


 

 

 山頂が近づいてくると所々に発掘されたとみられる石垣が見えてきます。



 

 

 やっと山頂まで来ました。資料館の下の石垣は、最近になって復元されたものです。


 

 山頂からの展望。




 大手道の方まで行きたかったのですが、今も発掘調査中のようで迂回ルートになっており、時間もなかったので駐車場に戻ることにしました。



 

 駐車場の近くに土塁断面の展示があります。地層を見ると、黒い層、黄色い層、礫層からなっており、新たに堀を掘って出た土で土塁を高めた証左となっています。




 

 今回の旅はこれにて終了。実質2日間で、9城を巡るハードな旅でした。

 

 

 

 小牧空港からFDAで帰ります。新潟空港までは離陸から40分くらい。


 

 久々の飛行機が楽しくて、子供のように窓から写真をパシャパシャ撮っていると、何やら見慣れた小山が……!?


 

 なんと、飛行機が小牧山の上空を通過。まったく意図せず空撮に成功しました。


  

 

日本100名城    9/100

続日本100名城 11/100

 「岡崎城」にやってきました。この城は徳川家康の生誕の地としてよく知られています。

 

 1530~1531年頃、家康のおじいちゃんである松平清康が、それまで本拠としていた明大寺より龍頭山の砦へと移り、本格的な城を構えたのが、岡崎城の始まりです。岡崎城は、矢作川と 菅生川(乙川)との合流点に立地しています。矢作川が西方に、菅生川が南方に対する天然の要害となっています。

 

 家康は、1542年にこの城の城内で誕生します。少年期は人質として他国で過ごしましたが、桶狭間の合戦で今川義元が戦死したことを契機に、この岡崎城を本拠に自立しました。

 1570年、家康は本拠を浜松に移し、嫡男信康を岡崎城主としました。1579年に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。

 1590年に家康が関東に移封すると、豊臣家臣の田中吉政が城主となりますが、江戸期以降は、「本多(康重系)家」「水野家」「松井松平家」「本多(忠勝系)家」と、徳川家の譜代大名が歴代の城主を務めました。

 

 歴史的には徳川色の極めて強い岡崎城ですが、現在残る近世城郭の多くは田中吉政時代に築かれました。秀吉の譜代である吉政は「二十七曲(まがり)」を始め城郭の東側を堅固にする等、 江戸の家康に対する防備の備えをしました。また、城下町全体を堀と土塁でぐるりと囲む総構にするなど、大規模な都市開発を行いました。

 

 また、1617年、本多康紀が城主のときに、三層三階地下一階で、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ望楼型の複合天守が建てられています。ただ、この城も明治の廃条令によって廃城となり、天守を含むすべての建物が取り壊されてしまいます。

 

 廃城令の際、旧藩士から保存を希望する声が明治政府に多数寄せられた結果、本丸・二の丸跡が保管対象となり、現在の岡崎公園として整備されました。現在では、本丸と周辺の曲輪、石垣、堀などの遺構が残っています。

 また、1959年復興天守が造られ、2010年には東隅櫓が再建されています。

 

 

 下図のとおり、三の丸部分については市街化が進んでしまい、城の痕跡はほとんど残っていません。

 

 

 1993年に木造再建された大手門から城内に入ります。今は国道1号線沿いに建っていますが、本来はこの場所にはなかったようです。白漆喰総塗籠めで切込接の石垣でできている綺麗な門です。

 ちなみに、岡崎市は良質な花崗岩(御影石)の産地としても有名で、ここの石垣にも当然に地元産の御影石が使われています。

 

 

 本多平八郎忠勝像。
 公園内に常駐しているガイドさんから聞いた話では、1769年以降、本多忠勝の子孫が岡崎藩主となったため、本多忠勝が岡崎藩祖とされたそうなのです。三河藩の初代藩主である本多康重(同じ本多でも別系統)が藩祖ではないのか??と思ってしまいますが。

 

 

 本丸西側の坂谷曲輪からぐるっと周って歩いていきます。石垣は吉政の時代から築かれてきましたが、場所によって積み方は様々であり、それぞれ異なる年代に築かれているようです。 

 

 

 坂谷曲輪を歩いていると天守が見えてきました。岡崎城には古写真が残っており、それを元にRC造りで再建されてはいるものの、最上階に本来なかった廻縁が付けられるなど、必ずしも図面どおりの復元とは言えないことから、分類上は「外観復元天守」ではなく「復興天守」という位置づけとなります。

 


 東照公産湯の井戸。家康の産湯に、この井戸の水が用いられたと言われています。

 

 

 東照公えな塚。家康が生まれたときのえな(へその尾・胎盤)を壺に入れて埋めたと伝えられる塚です。昔はえなを埋めて子供の成長を願ったそうです。


 

 埋門(うずみもん)から本丸に入っていきます。 

 

 

 近年、大きく育った樹木の根が内側から石垣を押し出し、各所に孕みやズレが出てきています。岡崎市では、石垣保存修理計画を策定しており、石垣を傷めている樹木の伐採を計画的に進めているそうです。

 下の写真は、埋門の石垣ですが、石と石の間にさりげなく計器や透明の棒状の物が取り付けられており、歪みの変動を測っているそうです。

 

 

 埋門付近からみた復興天守。内部は資料館のようになっています。

 

 

 天守の前にある家康遺言の碑です。

「私の命はそろそろ尽きてしまうのだが、将軍が、ちゃんとしていれば、私は安心して死ねる。
もし、将軍の政道がその理にかなわず、民衆が苦労していることがあったら、他の人に変わってもらうべきである、たとえ、政権が他家に移ったとしても、民衆が幸せならば、それが私の本意であり、恨みに思うことはない。」

というようなことが書いてあります。

 


 天守からの展望。



 龍城神社(たつきじんじゃ)は天守のすぐ隣にある神社です。家康の偉業を讃えるための東照宮として創建されました。社殿は日光東照宮の御神木で建立されています。


 

 本丸を取り囲む清海堀は、岡崎城築城者の西郷清海からきており、岡崎城の最も古い構成要素の一つです。かなり深さはありますが、近年の発掘調査の結果、後の時代に土砂が堆積したことが明らかになっており、本来はもっと深かったと考えられています。

 

 

 家康公・竹千代像ベンチと天守。右側には廊下橋も見えますが、現在は通行禁止になっています。


 

 本丸の南側、龍城堀に映える鮮やかな神橋。なお、この橋はここが公園として整備されるようになってから架けられたものであり、江戸時代以前に存在していたものはありません。




 敷地内にある三河武士のやかた家康館にも様々な展示がありましたが、時間がなかったのでササッとみて終わりにしてしまいましたが、グレート家康公「葵」武将隊という観光PR部隊の方たちが案内をしてくれるようです。

 

 この後は犬山城へ向かうことも考えましたが、帰りのフライトまでの時間を考慮し、最後に小牧山城に向かうこととしました。


 

日本100名城   9/100

続日本100名城   10/100

 設楽原から1時間ほど車を走らせて「古宮城」にやってきました。今回レンタカーを借りたのはこの城を訪れたかったからです。


 ちなみに公共の交通機関で行く場合、新城駅までJRで行き、最寄りの新城栄町・新城駅口バス停から作手高里行きのバスに乗ることになるのですが、朝7時台の便を除くと最速で12:07の便になってしまいます。

 これでは古宮城だけで1日が終わってしまいます。


 さてスタンプですが、古宮城から少し離れた作手歴史民俗資料館で押すことができます。


 この神社から城内に入っていきます。


 古宮城は、1572年に武田信玄により、馬場信春

の縄張で築かれたと伝わります。


 東三河進出の拠点として築かれましたが、勝頼が1575年の長篠・設楽原の戦いで敗れた後は戦線が後退し、廃城になったものとみられています。


 この城の見どころは複雑で個性的な縄張りです。


 神社脇の登城口を登っていくと両袖枡形虎口が現れます。両袖枡形虎口って初耳なのですが、両側に鉤の手状に左右対称の土塁を設け、方形の枡形状の空間を設けた虎口のことをいうそうです。

 

 案内図の③を見ると、枡形が2つ並んだような形になっています。


 案内図③の左側の方の虎口です。主郭に通じる正面玄関で三方を土塁で囲まれています。



 櫓台の上から見た枡形虎口。主郭への入口も喰違いになっていて、防御力高めです。


 主郭と西曲輪方面を繋ぐ通路。櫓台から見下ろしています。


 主郭。ここはただ広い空間が広がっています。

 主郭と西曲輪を分断する大堀切と土橋。


 西曲輪。

 西曲輪を取り囲む土塁。

 西曲輪外側の土塁より。シナモンロールのように段土塁、帯曲輪、土塁、帯曲輪が連続しており、しかも上に登る道が分かりにくい。

 
 西曲輪の下の方まで来ましたが、縄張りが複雑過ぎて、今どこにいるのか分からなくなった…。


 

 往時は西側を除く3方が泥炭層の湿地に囲まれており、天然の要害となっていました。

 比較的単調な造りの東側に対し、西側の縄張りが極めて複雑なのは、このためでしょう。


 決して大きな城ではありませんが、見どころは十分でした。次は家康生誕の地・岡崎に向かいます。



日本100名城    8/100 

続日本100名城 10/100

 前回の長篠城訪問のブログの続きです。「設楽原決戦場」は長篠城から西に3、4km程離れた辺りにあります。




 1575年5月18日、織田・徳川連合軍は長篠城手前の設楽原に着陣しました。原といっても、小川や沢に沿って丘陵地が南北にいくつも連なる場所であり、互いに相手陣の全容を見渡せない場所でありました。

 信長はこの点を利用し、3万の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努めました。


 現在、地元の人々の手によって馬防柵が再現されています。 

 この馬防柵の材料である丸太については、岐阜や岡崎から連合軍の兵一人一人が1本ずつ運んできたと伝えられています。 




 

 信長到着の報を受けた武田陣営では、翌5月19日に軍議が開かれました。信玄時代からの重臣たちは、信長自らの出陣を知って撤退を進言したといわれていますが、武田勝頼は決戦を行うことを決定します。

 そして長篠城の牽制に3千ほどを置き、残り1万2千を設楽原に向けました。

 

 馬場信春内藤昌豊山県昌景土屋昌次ら歴戦の将たちは、この日の軍議を嘆き、「このような事態になった上は一命を賭して戦おう」と陣所としていた大通寺の井戸に集まり、訣別の水盃を交わして出陣して行ったという話があります。

 この4人はいずれもこの戦で落命しました。

 

 これがその井戸です。大通寺は、長篠城の目と鼻の先にあります。




  

 5月20日深夜、酒井忠次率いる4千の別動隊が長篠城の背後に位置する鳶ヶ巣山砦への奇襲を成功させ、長篠城の牽制に置かれていた武田兵をも撃退します。これにより武田軍は、連合軍の本軍と酒井隊に挟撃される形となり、いよいよ前進する他に道がなくなってきます。

 写真は大通寺付近からみた鷲ヶ巣山砦方面。矢印の山が鳶ケ巣山と思うのですが当たっているかな?


 

 

 5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと思われる頃の設楽原では、武田軍が攻撃を開始します。

 

 私がむかし歴史の授業で習った「長篠の戦い」は、織田・徳川連合軍が横1列に1,000挺ずつ3段に分けた鉄砲3,000挺で一斉交代射撃を行って、戦国最強を誇る武田騎馬隊を完膚なきまでに叩きのめしたというものでした。…が、この鉄砲3段撃ちは今では否定されていますし、武田軍のうち騎兵はごく一部だったのではないかとも言われています。

 

 この屏風図の通りの戦ではなかった?


 

 

 実際に来てみると分かりますが、設楽原って東西で見るとかなり狭い。屏風図のように騎馬隊の大軍が一斉に突撃するような広さはないように思われます。

 

 馬防柵より武田陣営を臨む。向こう側まで300〜400メートルくらい? 


 

 ちなみに、武田軍にも鉄砲は存在しており、勝頼もその有用性を認識していた可能性は高いと思います。

 しかし、当時は鉄砲弾薬の材料である硝石を国内で調達することができず、必然的に南蛮からの輸入に頼るほかありませんでした。また、弾丸に使われた鉛についても国内産だけでは消費に追い付かず、多くが輸入により賄われていたようです。

 こうなると、対外貿易の中心地である堺を抑え経済力もある織田と、物流ルートに乏しい甲斐を本拠とする武田では、用意できる弾薬の差は大きかったものと思われます。

 現代風の言い方をすると、両者には明確な地域格差がありました。

 

 

 連合軍の勝因をまとめると、①兵数の優位性(3万8千vs1万5千)、②馬防柵のほか土塁や空堀を交えた簡易的な陣地による地理的優位性、③圧倒的な弾薬量を背景とする攻撃力の差、というところではないでしょうか。

 

 

 

 土屋昌次の子孫が建立した碑があります。昌次は相手陣営の三重柵の二重まで突破したところ、この辺りで一斉射撃を受け戦死したといいます。


 

 

 馬場信春の墓は、長篠城の近く、農地と竹藪に囲まれたひっそりとした場所にありました。勝頼が退却を始めると、信春は内藤正豊らとともに殿を務め、勝頼の退却を確認した後に戦死しました。



 これから7年後に武田家は滅ぶことになりますが、この戦が武田の終わりの始まりであったように思います。


 このあとは古宮城に向かいます。

 本日の予定は、まず豊橋でレンタカーを借りて、長篠城→古宮城→岡崎城→小牧山城という経路で4城を巡ったのち、小牧空港近くの営業所でレンタカーを返却してそのまま新潟空港行のフライトに乗ります。

 

 電車での移動も考えましたが、そうすると時間の都合上、公共交通機関でのアクセスが悪い古宮城をスキップせざるを得なくなります。

 

 古宮城は推しの馬場さんが築いた城なので是非行きたいですし、縄張りが面白そうですし、地理的に長篠城とセットで周ると効率が良いですし、…ということでレンタカーで周遊することにしました。

 

 最高38℃の酷暑のなか、エアコンの効く車で移動できるので、結論としてはこれが最適解だったと思います。

 

 

 

 さて、豊橋から1時間ほど車を走らせて「長篠城」にやってきました。まずは長篠城史跡保存館でスタンプをゲット。

 

 

 まずは周辺の位置関係を把握。JRの線路が城を分断していますね。

 

 

 

 1575年の「長篠・設楽原の戦い」で有名な長篠城は、東三河の山間部にあり豊川(寒狭川)と宇連川が合流する地点に築かれています。
 城は、1508年、今川氏の傘下にあった菅沼元成により築かれました。
 
 今川家の衰退後は、三河進出を目論む武田氏と徳川氏の間で何度も争奪戦が繰り広げられました。

 そして1575年5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて城を攻撃しました。城の救援に駆けつけた織田・徳川連合軍は、長篠西方の設楽原で武田軍と激突し大勝しました。
 信長は、わずか500の兵で城を守りぬいた奥平貞昌を称賛し、「信」の字を与え信昌と改名させました。
 
 この攻防戦で城が大きく損壊していたこともあり、信昌は新城(しんしろ)に城を築き、長篠城は廃城となりました。
 
 
 駐車場から入るとすぐに本丸を囲む堀が見えます。往時は水堀でした。 
 城の反対側は川に面した断崖絶壁で攻略はまず不可能ですので、必然的にこちら側の防御が重要になります。

 

 

 

 

 帯郭から本丸へ向かう土橋です。このあたりに門があったようです。

 

 

 本丸は方形に近い感じですね。周囲は土塁と川に囲まれています。

 

 

 

 土塁の上に登ってみます。

 

 

 厩跡。線路の向こうは野牛郭という郭がありますが、そちらには行けなそう。


 

 

 この城を語るうえで鳥居強右衛門は外せません。


 武田軍に包囲された長篠城は、兵糧庫も焼失してしまい、落城寸前に追い込まれていました。

 そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断しました。そこで使者に選ばれたのが強右衛門でした。身分は高くなく、雑兵の類であったようです。

 

 武田の包囲網の中、命がけで城の脱出に成功した強右衛門は、1日足らずで家康がいる岡崎城に到着しました。

 このとき、家康の援軍要請を受けた信長が3万の援軍を率いて到着しており、3万8,000もの織田・徳川連合軍が、翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていました。

 

 これを聞いた鳥居強右衛門は、援軍が到着することを知らせるため長篠城に戻りますが、城の一歩手前で武田軍に捕らえられてしまいます。

 武田方からは、城内に向かって援軍が来ないと叫べば助命し、知行も与えると言われた強右衛門でしたが、逆に「援軍はすぐ到着する。それまで持ちこたえよ」と叫んだため、磔の刑に処せられました。

 

 磔にされたのは長篠城の対岸で、城から良く見える場所でした。今は木が生い茂っていて見えにくいですが、距離にして数百メートルしか離れていません。


 

 城兵たちは、強右衛門の雄姿を見て大いに士気が上がり、武田軍の猛攻から城を守り抜くことができたのだといいます。

 

 武田軍は設楽ヶ原に布陣した際、長篠城に抑えの兵を残したほか、長篠城を見下ろせる5つの砦を築きました。徳川の重臣・酒井忠次は夜襲により、この5つの砦をことごとく落とすことに成功し、さらには長篠城を取り囲む兵を撃退しました。
 これにより長篠城は武田軍の包囲から解かれることになります。


 

 

 城を出て、川の対岸にやってきました。この地で強右衛門は磔の刑に処せられました。




 

 

 近くの新昌寺に強右衛門の墓があります。


 


 食糧庫のあった場所。





 強右衛門が城への呼び掛けを行った地。




 元々予定はしていなかったのですが、やはり戦の現場を見たいと思い、設楽ヶ原に向かうことにしました。


 

日本100名城  8/100

続日本100名城 9/100

 豊橋駅に着いたのは、18時過ぎでした。


 既に6つの城を巡って歩いてきてクタクタでしたので、取りあえずホテルにチェックインして汗を流すことに。もうこのまま寝てしまいたい気持ちもありましたが、今日「吉田城」を訪問できれば、明日のスケジュールがグッと楽になります。(明日のスケジュールについては別記事にて)

 ので、頑張ってもう一度足を動かすことにします。

 

 吉田城は、1505年に今川氏親の命を受けた牧野古伯が築城しました。

 その後の争奪戦を経て今川家が支配を固めることになりますが、1565年には今川家を離反した松平家康(のちの徳川家康)に攻略されます。

 その後、家康の三河統一による酒井忠次の配置、家康の関東移封による池田輝政の入城と続きます。現在みられる吉田城の基礎は、輝政の時代に造られています。

 江戸幕府成立後は9家22代の譜代大名が支配しましたが、前期は転封が激しく、中期以降は松平(大河内)氏が城主となりました。

 

 

 

 スタンプは、吉田城鉄櫓(くろがねやぐら)内でも押せるのですが、時間が10時~15時と限られているので、22時までオープンしている豊橋市役所東館で押すことにします。まずは日が暮れる前にできるだけ吉田城を見学しておきたい。

 

 吉田城は豊橋公園の中にあります。というか、吉田城の本丸を中心とした一部が豊橋公園として整備されています。今にも日が暮れそうなので巻き巻きで見ていきます。



 もし堀が残ってたら、中々の規模の城ですね。

 


 南御多門石垣。打込接の石垣です。


 

 実質的な天守として使用されていた鉄櫓(くろがねやぐら)は1954年に産業文化大博覧会の開催にあわせて模擬再建されました。ちなみに往時は三重櫓が5基も存在していたそうです。





算木積みっぽいけどやや粗めの鉄櫓石垣。


 

 

 北御多門跡。高低差のある桝形になっていて攻めにくそうです。なんとか写真撮れてるけど、もう相当暗い。


 

 

 鉄櫓のすぐ背後には豊川が流れています。川を天然の堀とする後堅固の縄張りです。

 ただ、吉田城の堀は豊川とは繋がっていませんが、城への物資の搬入に豊川の水運は利用されており、そのための水門跡が残されています。(時間の都合で確認できず)


 

 

 帯曲輪の方からも映える写真が撮れそうですが、もう真っ暗になってしまったので、引き上げることにします。

 

明日は朝からレンタカーを借りて城巡りをする予定です。

 

 

日本100名城  7/100

続日本100名城 9/100

 これから「浜松城」へ向かいます。

 ここまでは以前のブログに書いた計画通りに行程を進められています。東京出張からの流れで、仕事用のスーツや革靴など、不要な大荷物をリュックに詰めたまま移動してきたので、背中も悲鳴を上げています。

 

 最低限の荷物以外は駅のコインロッカーに預けて、駅前のバス乗り場に向かうことにします。

 

 予定では16:00発の遠鉄バス・医科大学行に乗り、市役所前停留所に16:05着、そこから急いで浜松城天守に向かい、16:20に締め切られるスタンプを押す、という流れなのですが、ダイヤが遅れ気味らしく、実際に駅を出発できたのは16:03頃。さらに道が混んでいたため、市役所前に着いたのは16:13。

 

 そこからはもう天守目指して猛ダッシュです。何とか入場終了時刻2分前に天守に入って一安心するも、今度は…スタンプがない!スタンプがないぞ!

 

 天守1階を一通り見回した後に係の方に聞くと、「スタンプは天守ではなく、天守門の方です」とのこと。私の情報は古かったようです。


 急いで天守門に向かうも入り口がよく分からず、ここでもマゴマゴ。ようやく入り口を見つけましたが、既に係の人は撤収作業を始めていました。

 

 もう16:20は過ぎていましたが、スタンプ帳片手に必死の形相の私を哀れに思ったのか、スタンプを押させてくれました。大変助かりました。

 

 残念ながら、天守や天守門内部の展示を見る時間はありませんでしたが、まあ模擬天守ですし。


 取りあえず、この旅最大のボトルネックを何とかすり抜けることができたので、後はゆっくり外観を周ってみることにします。

 


 今川家支配のころの浜松城付近には、曳馬城(引馬城とも)という城が建っていました。1568年、今川領の制圧を開始した徳川家康はこの城を落としました。

 家康は、それまでの本拠であった岡崎城を嫡男・信康に任せ、1570年にこの城に入城しています。このとき、城域の拡張や改修を行うとともに、浜松城へと改称しました。引馬という名称だと、「馬を引く」=「撤退する」という意味になるので、縁起を担いで改称したものと言われています。

 徳川家康は、のちに駿府に移るまで、29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。

 ちなみに、家康が武田信玄に完敗した三方ヶ原の戦いは、この城の僅か数キロ北で繰り広げられました。

 

 天守は、江戸初期に失われており、今建っている天守は模擬天守です。実物よりもサイズダウンして造られているので天守台が余ったような感じになっています。


 

 

 家康時代の浜松城は、土造りの城であり、石垣を備えていなかったというのが定説でしたが、最近の研究でこの説は覆されています。ただし、天守台の石垣は、家康の関東移封後に入城した堀尾吉晴の時代に築かれたもののようです。


 

 

 400年の風雪に耐えた荒々しい野面積の石垣。今まで見てきた野面の石垣の中ではダントツに好みです。


 

 

 青年期の家康公。家康が手にしているのはシダの葉です。シダの別名は「勝草」ということで、戦に挑むには縁起の良い植物だそうです。家康は兜の前立て(兜の正面の飾り)としてシダをかたどった飾りをつけていました。


 


 この城も20年前に訪れているのですが、ほとんど記憶から消えていました。やはり記録することは大事ですね。

 

 

 本丸から天守門を見上げる。



 天守曲輪石垣。



 

 登城を終えて一息。「浜名湖うなぎ 丸浜」さんのうな重を美味しくいただきました。


 

 

 

 

 

 これから今日の宿泊先のある豊橋に向かいます。

 

 

 

日本100名城  7/100

続日本100名城 8/100

 

 

 「掛川城」を前回訪れたのは2004年のことなので、もう20年も前のことになります。

 当時「功名が辻」の大河ドラマ化も決定し、当地も盛り上がっていたようだったのは記憶していますが、城の記憶も大分おぼろげになってしまっています。

 

 掛川城は、室町時代の中期に駿河守護の今川義忠が重臣の朝比奈泰煕(やすひろ)に命じて築城したと伝わっています。当初は現在地である龍頭山より北東にある子角山に築かれており、龍頭山の城は1513年に新たに築城されたものです。

 

 信玄の駿河侵攻後、駿府を追われた今川氏真はこの掛川城に逃げ込みましたが、武田と示し合わせて遠江に侵攻してきた徳川氏に包囲されることとなり、1569年5月、大名としての今川家の歴史はここで閉じることになります。

 ちなみに、家康と信玄の間では、「今川との和睦はしない」「氏真は殺す」という約束になっていたらしく、氏真との和睦は信玄を怒らせる結果となり、後の武田家による遠江侵攻に繋がっていくことになります。(いずれにせよ衝突することになっていたとは思いますが)

 

 現在みられる近世城郭は豊臣政権下において入封した山内一豊によって築かれたものです。

 

 天守を含む大半の建物は、1854年の安政東海地震により倒壊してしまいました。その後、政務所である二ノ丸御殿は再建され現在に至っています。

 安政東海地震は、今クローズアップされている南海トラフ巨大地震の一つとされています。

 

 

 駅から真っすぐ10分程歩くと城が見えてきます。

 

 

 

 現在の掛川城公園の入り口にもなっている四足門。調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図(しょうほしろえず)を元に復元されました。門の内側には、入城者を調べる番所があり、本丸に通じる重要な門でした。

 

 

 

 太鼓櫓。安政東海地震以後に建てられたもので、何度か移築されたのち、1955年から今の位置に建っています。

 

 

 

 久しぶりの天守でワクワクします。

 

 

 

 この天守は1994年に戦後初の木造復元天守として再建されたものです。3層4階の入母屋造である点と、2重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などは、絵図などの調査に基づいて忠実に復元されています。

 

 

 天守より見る掛川市街。

 

  

 

 二の丸御殿です。ちなみに、御殿は、川越城、高知城、二条城、掛川城の4城にしか現存しておらず、貴重な建築物と言えます。

 

 

 

 部屋の中も自由に見学できます。

 

 

 

 

 帰り際にパシャリ。

 

 

 

 

 酷暑で身体がしんどくなってきていますが、なんとか予定どおり浜松へ向かえそうです。

 

 

 

日本100名城  7/100

続日本100名城 7/100

 

 

 

 掛川駅に降り立ちました。スケジュールはここまで順調。

 さて、掛川市内には掛川城高天神城という、名城選定されている2つの城があります。

 

 高天神城は、徳川家康武田勝頼が遠江支配を巡って激しい争奪戦が繰り広げられた城であり、徳川氏が高天神城を包囲した際、勝頼が援軍を出さなかったことが武田家の求心力を低下させ、武田家滅亡を早める一因となったと言われる城なのですが…。

 

 今回パスさせていただきます。というのも、この時点で正午を過ぎており、掛川駅から高天神城まではバス+徒歩で片道40分程度、散策にも1時間程度を要し、バス自体も1時間に一本程度と少ないことを考えると、今日中に掛川城、浜松城を巡って豊橋までたどり着くのは不可能との算段です。(というか最初からそのつもりでした)

 

 でもなんと、掛川駅構内にあるビジターセンターで高天神城のスタンプは押せてしまうのです。邪道ですが、今回はスタンプだけ押させてもらい、かつちゃっかり御城印もいただいた後、掛川城へ向かいます。

 

 いつか必ず、必ず高天神城には訪れたいと思います。

 

 

 …とりあえずスタンプ上は、

日本100名城  6/100

続日本100名城 7/100

 駿府城散策の後、JRで静岡駅から金谷駅まで移動してきました。

 

 「諏訪原城」は、地図で見ると駅からすぐ近くに見えるのですが、かなり坂を登っていくことになるため、酷暑で体力消耗中の私には徒歩の選択肢はありません。


 金谷駅からバスも出ているようですが、時間が合わないので駅前に停まっていたタクシーで移動しました。思ったとおり坂道がキツかったのでタクシーで正解だったと思います。料金は1,100円くらいだったかな?

 

 

 諏訪原城は、1573年武田勝頼馬場信春に築かせた城と言われています。掛川方面を見渡せる牧之原台地上にあり、徳川氏の高天神城を攻略するために築かれました。城内に諏訪大明神を祀ったことから、「諏訪原城」の名がついたと言われています。

 1575年徳川家康の手に落ちた後は「牧野城」と改名され、今度は逆に武田方となった高天神城を攻略するための城として活用されました。

 

 ちなみに馬場信春は武田四天王の一人にして武田家きっての築城名人でもあり、私の推しでもあります。長篠合戦で戦死するまでかすり傷一つもなく、不死身の鬼美濃と称されています。(表情にも自信がみなぎっているように見えますね)


 この城の見どころは、なんと言っても複数の巨大な丸馬出の存在です。馬出とは、虎口の外側に防備強化と出撃拠点を目的に置かれた曲輪のことであり、武田の城にはよく見られます。

 ビジターセンターでスタンプを押印の後、展示物を見てイメトレをします。




 

 大手曲輪。


 

 大手北外堀。今は浅くなっていますが、当時は6m程の深さがあったようです。


 

 二の曲輪丸馬出三日月堀。壮大な馬出ですが、秋冬に来た方が下草が枯れてきて見やすくなりそうですね。




 二の曲輪北馬出より。大井川の先には富士山があるはずなのですが、夏場は富士山って見えないんですよね。



 外堀。城内でもっとも大きい横堀です。


 

 二の曲輪と二の曲輪大手馬出を繋ぐ土橋。


 

 二の曲輪大手馬出に諏訪神社が建っています。


 

 ビジターセンターに戻ってきたところ、次のバスままだ1時間近くもありました。散々迷いましたが、駅まで歩いて30分ほどと聞いたので、歩いて金谷坂の石畳を降りて金谷駅に向かうことにしました。

  

 諏訪原城を出てすぐの金谷坂石畳


 

 金谷坂は急坂なうえに「あおねば」と呼ばれる粘土層が露出しており、雨が降るとぬかるむため、旅人は歩行に苦労しました。そこで江戸時代末期に約720mの石畳が造成されました。

 明治以降に舗装され、もとの面影は失われていましたが、1991年に町おこし事業として430mの石畳が復元されました。

 ちなみにちょうど20年前の夏、東海道、山陽道を自転車で走破する旅をしていた私は、自転車を引きずりながらこの石畳を登っていました。城のすぐ脇を通ったはずですが、当時は諏訪原城の「す」の字も知りませんでした。

 それにしても、こんなに歩きにくい道だったっけ?

 

 30分くらいと聞いていましたが、20分ほどで駅に着きました。ここで駿府城でのスケジュールの遅れを完全に取り戻すことができました。

 

 次は掛川に向かいます。

 

 

日本100名城  6/100

続日本100名城 6/100