ムスメのガル子、日本に戻るということで、ムスコのガル男のラスベガス演奏の旅を終えた翌日、ロスの空港に送り届け、我々はリノまで約9時間の旅に出たのである。
そう、我々がリノに到着するころには、ガル子も日本に到着するという、陸・空の旅、よ~いどん、が始まったのである。
ロスもあんなに都会だというのに、ほんの少し走っただけで
すぐこんなん出てくる。
そしてら、急に
斜めに色の違うい小さな岩の丘みたいなのが現れたりして。
茶色で同じみの砂漠だが、この今の時期、しかもほんの少しの間だけ、緑が勝つ時期があるのだ。
それが今。
この時期は、青空と山にかかる雪も美しく、運転しながらの景色は
こんな感じとなるのだ。
そして、ちょうどこれくらいの景色のところに、
マンザナー強制収容所だった場所に、マンザナー国定史跡がある。
これは第2次世界大戦の時、日系アメリカ人が収容された場所である。風のキツイ砂漠、夏は灼熱、冬は極寒のこの土地に収容されていたのだ。
当時のものとして残されている建物は
この監視塔である。収容された日系アメリカ人たちはこの監視下で生活していたことになる。
ちょうどムスコのガル男が3月に学校で学んでいたのが第2次世界大戦だったこともありこの場所に立ち寄ることにした我が家。施設内には、当時使っていたものや職人などが作ったものが展示されていた。
戦争の説明については、やはり、日本がパールハーバーで襲撃をおこない、フィリピンやシンガポールを占領したということが書かれていただけで、アメリカがその後に爆弾を落としたという記述はなかたのであるが、ガル男いわく、授業では、その後、アメリカが日本に爆弾を投下したというところまで学んだらしい。ムスメのガル子の時は教わらなかったので、少し前進したのかなぁ、と。
リノからラスベガスへ行く時には、軍需工場とその兵器倉庫があり、その少し先には刑務所があり、そしてこの収容所。やはり、兵器が誤爆しても最小限の被害でとどめられ、また逃げたところで、自力で民家まではたどり着けない、というこの場所はこのような施設が建てられるのに選ばれがちなのだな、とやや切ない思いが沸き上がる道中だったのである。
そしてその後は
雪山を見たり
湖を見たり
牛を見たり・・・
道路すれすれ
車に乗りながら、
まるで川下り体験
みたいな道を通り、やる気があるのかないのかさぁどっちというリノのカジノホテルの明かりが遠くに見え始め、もいちょいやと車を走らせ、無事リノに到着。
こうして総走行距離1960キロメートルの苫小牧から那覇までに匹敵する距離の旅を終えたのでありました。
いやぁ、腰がわや・・・
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写真いっぱいのせたし、今日はココの画像なし。
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