小さな頃に見て、いまだに心に残っているのは、コウモリの冷凍食品のことだ。
それは私がまだインドネシアに住んでいた時に、スーパーマーケットの冷凍食品のコーナーで目にした光景。
コウモリは白目で、綺麗に羽を折りたたまれていた。さらにトレーにしまわれ、その上にラップをされていた。それは完全なる「商品」だった。
私はそれを見つけると、思わず「うわっ」と小さな悲鳴を上げて、母親の方へ駆け戻っていった。
幼心に、とんでもないものを見てしまったと思った。
それは、親の本棚から成人向けの本を見つけた様な気持ちに近しい。



オジー・オズボーンはステージ上でコウモリを食いちぎり、病院に運ばれた。コウモリの血には悪性のウイルスが存在するらしく、口にすると死に至ることもあるためらしい。
何故コウモリを食いちぎったのか質問されたオジーはさらりと言って退けた。
「ぬいぐるみだと思ったんだよね」
私は一生オジーにはなれそうもない(当たり前か…)。


でも上記のエピソードを鑑みると、インドネシアで見たコウモリの冷凍食品は、私が見た幻覚の様な気もする。
だって悪性のウイルスがいるんでしょう?
いくら血抜きなどして安全にしているからって、食べるものなんだろうか?
よく分からないが、もしもそれが本当に存在して、なおかつ安全が保証されているならば、一度くらい食してみたいと気持ちはないではない。
うーん、でもやっぱり怖いかな…?
「好奇心のないやつとは友達になりたくない」と言っていたのは遠藤周作だけれど、彼の作品の多さを見ると、その言葉に至極納得できる。
遠藤周作の作風は金太郎飴的な側面が強いのも事実だけれど、それでもアレだけの作品を残したのだから、やっぱり人一倍好奇心の強い人物だったのだなぁと思う。



手塚治虫も、その異常と言い換える事もできる好奇心の強さは有名で、遠藤周作同様(というかそれ以上に)とてつもない数の作品を残した。
描きたいものが常に頭の中でくすぶっていたのだろう。



先日、宝塚にある手塚治虫記念館に行ってきた。小さな頃に(確か小学校5年生くらいの時に)一度来た事があったけれど、私は呆然とした子供だったから(こんな表現があるかは知らない)、さっぱり覚えていなかった。
入口には火の鳥のオブジェがあって、記念館を訪れた私を出迎えてくれる。でも残念ながらそれ程、私は火の鳥が好きじゃない。残念だけど。



私は図書館とか記念館とか博物館とか美術館とか…つまり「館」がつく建物がすごく好きだ。何でもその筋の人からは「館モノ」と呼ばれているらしい。
館モノの魅力はやはり、往々にして施設が綺麗なことだ(もちろん例外もある)。トイレは館モノ好きにとっては一番最初に見ておくべき箇所だろう。そこもやはり往々にして美しいものだ。
そして、建物の入れ物としての価値を感じれるのも館モノの良さだろう。そこは芸術品を飾るため、あるいは膨大な本を市民に提供するために存在している。そんな崇高な役割を担った建物が他にあるだろうか?いや、あるはずがない(反語)。



手塚治虫記念館は建てられて、もう結構な年月が経っているから、単純に施設の綺麗さというところに関しては分が悪いかもしれない(それでもトイレは入念に掃除がされていたし、床もピカピカだった)。
しかし、そこまで綺麗な建物でなくても、手塚治虫という偉人(と言って問題ないと思うけれど)の業績を余すことなく伝える立派な館モノなのである。



館モノは、入ってみれば、何かしら得るものがある。
手塚治虫記念館なら、手塚治虫という人の人となりが、インターネットには載っていない様な資料で知ることが出来る。
美術館なら、本物を生の質感を味わいながら見ることが出来るし、図書館なら、素敵な本との出会いがある。
他の館モノも同様だ。
これってやっぱり素晴らしいことだと思う。
だから館モノはとっても良い。
大河ドラマ「軍師 官兵衛」を観た。去年の綾瀬はるか主演のドラマも、その前の松山ケンイチのドラマも全く観なかったから、本当に久々に大河ドラマを観た。
しかし次から観ることはないだろうなぁ。



戦国時代を題材にしたドラマや映画を見る度に思うのだけれど、登場人物に「命の尊さ」を語らせるのはナンセンスである。
今回の「軍師 官兵衛」でも母親が息子(幼少の官兵衛)に命の大切さを滔々と述べていたけれど、非常に演出としてはダサい。
私の大好きな戦国時代を扱った作品にクレヨンしんちゃんの「アッパレ戦国大合戦」があるけれど、あちらは「命の尊さ」を一度も口にしないのに、それを物語で語る見事さがある。
だから一話1000万円かかる大河ドラマよりも、クレヨンしんちゃんの映画の方がよっぽど立派だし、作品の完成度は高いと思う。



それにテンプレートな人物設定も飽き飽きだ。
信長は例によって最初から天下統一を目論む風雲児だし、秀吉は道化みたいな役回りだ。
しかし最近は、当時の一級資料などの解析が進み、そんなテンプレートな人物像に対する批判的な意見も多い。
作家の井沢元彦氏はその著書「逆説の日本史」で、宗教や当時の常識などを絡めた新しい彼らの人物像を提示している。
特に戦国時代は大河ドラマで取り上げられることも多い分、毎回同じ様な人物造形はつまらないし、手抜きにしか見えない。



そんな訳で「軍師 官兵衛」を観るのはこれが最初で最後だろう。
もうちょっとどうにかならないものかなぁ。
でも最終回くらいは観るかもね。
どこかの誰かが「一つの本を何度も読み返すのが一番良い読書」と言っていた。
私は、本に対してそこまで愛がないから、一度読んでしまえば読み返すことはほとんどない。
つまり低級な読書だ。


そんな私でも読み返す本がないわけではない。二三冊はある。
それは村上春樹のエッセイで、年に一二回は家の本棚からいくつか見繕い、読み始める。
ちょうど今読んでいるのもそれで、「村上朝日堂」という村上春樹の一番最初のエッセイ集。これは出版されている村上春樹のエッセイ集の中では最も読みやすい。何たってすべての話が二ページしかないのだから。


この人のエッセイを読んでいると、何だかお腹が空く。
「豆腐」や「ビフカツ」や「ありあわせスパゲティ」のことを、こだわりタップリに書くものだから、私もついつい真似したくなる。
つまりその日に買った豆腐はその日のうちに食べ、旅の途中に食堂車でロンメル将軍の様にしなやかにビツカツを食べる。そして冷蔵庫のありあわせの具材でスパゲティを作る、そんな日々を真似たくなるのだ。
村上春樹のエッセイを読み終わるといつも「何だか良いものを読んだなぁ」と思う。
一番良い読書の方法なんて、人それぞれだ。それでもこう言う素晴らしいものがある以上、何度も読み返す読書もやっぱり素晴らしいんだろうなと思える。

祖母の家は島根県で、出雲大社の近くにある。だから正月に帰省すると、毎年、年明けには出雲大社にお参りにいく。
例年通り車で行くのかと思うと、祖父は言った。
「今年は遷宮で人が多いから、車じゃ混む。だから電車で行こう」
生まれた時から、度々島根に来ているが、電車に乗るのは始めてだった。ご存知の様に田舎の足は乗用車だ。一人に一台とでも言う様に、各家庭は二、三台の乗用車を所有している。だから電車なんて言葉を聞いて驚いた。



家から少し行ったところに一畑電車(通称バタデン)の駅があった。
「私も一度も乗ったことがない」と島根出身の母が言った。駅の数が少ないし、普段電車は一時間に一本しか来ないから、通学や通勤にもあまり使われない。
しかし、そんなバタデンだが、今日だけはさすがに人が多かった。小さなホームに人がひしめき合っている。
少しすると電車がやって来た。ご当地キャラのしまねっこのイラストがくまなく描かれている。えらくポップな車両だった。さながらディズニーランドと言った趣きで、中にはしまねっこの人形が愛くるしく座席に座っていた。



島根のギャルたちが写メをパシャパシャ撮りまくっている。大阪とギャルと比べると、格段に静かに騒ぐのが、一つの良さなのかもしれない。
私は祖父とどうでも良い様な話をしながら発車を待った(ホームに着いても、何故か電車はなかなか発車しようとしなかったのだ)。
ベルがなって、ゆっくり電車が動き出す。ずいぶん億劫そうな動きだった。
線路は一直線に伸びていて、カーブもほとんどなかった。
来年は就職だから、来れなくなるかもなぁと私は対面の窓の景色を見ながら、そんなことを思っていた。