以前、ぽてぽてと駅まで歩いていると、アスファルトの道路の上に真っ赤なパンティが一つ落ちていた。
キョロキョロと周りを見渡したが、特に何もない、持ち主(と思われる人)ももちろん居ない。
洗濯物が風に吹かれてひらひら落ちてきたのかもと思ったが、残念ながら周囲には大きなパチンコ屋が一つあるだけだ。



人目がないと分かると、おかしなものだけれど、私はどんどんとこの真っ赤なパンティに対して興味が出て来た。
持ち帰ろうとは別に思わなかったが、試しに持ち上げてみるくらいなら、構わないんじゃないかと思った。
でも結局、理性が邪魔をした。
私は何もないような顔をしてその場を通り過ぎた。
用事を済まして、また帰りに同じ場所を通ったが、もうそこには何もなかった。今思えば、悪魔の仕業だったのやもしれない。



パンティと言えば、私が高校生の時にこんな話を聞いたことがある。
ある時、私が通っていた高校の付近で、新品の女児のパンティが、民家の庭先に投げ込まれるという事件が多発した。
それも一枚や二枚ではなく、一回に何十枚も投げ込まれたらしい(枚数に関しては噂に過ぎない)。
さすがに警察が動き、犯人が逮捕された。
犯人はその近くに住む男性で、男手一つで子どもを三人育て上げた近所で有名な人格者だった。



それで話が済むのならどんなに良かったか。
男性は逮捕後に、さらに余罪が出て来た。
それは何十年も前の殺人の容疑だった。詳しくは知らないが、DNAが一致したとか、しなかったとか、そんなことであったらしい。
本来なら変な人が居たものだで済んだ話が、突然殺人事件に早変わりした。
結局、その男性は刑務所で病気にかかって、亡くなったらしい。



あの日、落ちていた真っ赤なパンティも、私には想像もつかない、そんな込み入った事情で、あの場所に落ちていたのかもしれない。
村上春樹は著書(どれかは忘れた)でこんなことを言っていた。

君は小説家になりたいんだろう。だったら想像しろ。見たこともないものを想像するのが作家の仕事じゃないか。



もしも、小説家の仕事が、上記のパンティの話の様なことを毎日想像することであるならば、やはり私には向いてなさそうである。
残念だけれど、やっぱり向いてなさそうだ。
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昔クレヨンしんちゃんの何巻かを読んでいたら、しんちゃんが何処かから貰ってきた金魚に「ゲイくん」と名前を付けて、ミサエを困惑されるという場面がありました。
ゲイとは「芸」を色々覚えて欲しいという気持ちから付けられたもので、ホモソーシャルとは何ら関わりのないものだったのだけど、小学生だった私はイマイチギャグの意味が掴めなかったのを覚えている。



男子校を卒業をした私だけれど、結局、いわゆるゲイと言われる人をはっきりと見たことはなかった。
ただクラスの中では「あいつは男が好きらしい」とまことしやかにに囁かれる人間が複数いたのは確かだ。
結局、それらの噂も卒業するまで噂の域を出ることはなかった。
誰もその噂の真偽を確かめようとはしなかったのだ。
誰だったか忘れたけれど、「ホモソーシャルこそが一番プラトニックな愛だ」という様なことを言っていた哲学者がいた気がする。
誰だっけ?



先日、アン・リー監督の「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」を観た。
批判されるのも分かるが、個人的には傑作だと思ったし、映画館で観なかったことを悔やんだ。
それと同時に思い出したのはアン・リーの何作か前の映画「ブロークバック・マウンテン」。
ライフ・オブ~の方もやけに隠喩に富んだ作品だったけれど、ブロークバック~の方もそれに負けず劣らずに作品内の至るところに、メッセージが込められていた。



ブロークバック~は1963年の夏から物語が始まる。
2人のカウボーイが、一夏だけの契約でブロークバック・マウンテンという山で羊の世話をするのだ。
初対面の2人は最初はぎこちなく、業務的に仕事をこなして行くが、最終的に、ある寒い晩のテントの中で恋に落ちる。
ここまで書けばお分かりだと思うが、つまりこのブロークバック・マウンテンはゲイを扱った映画なのだ。
ライムスターの宇多丸が自身のラジオ番組でアン・リー監督の作家性は「イノセントの喪失」と言っていた(と思う)。
ブロークバック・マウンテンというイノセントを失った2人のカウボーイに待っていたのは、地獄の様な現実だった。



アン・リー監督はインタビューでブロークバック・マウンテンについてこんなことを言っている。
少々長いけれど、以下。

アン・リー:これはゲイ映画です。その意見に対して反対はしません。ゲイ映画であるべきですし。しかし、この映画のテーマは普遍的なものなんです。この作品が、ただのゲイ映画だとも思っていません。ゲイ映画という言葉は面白くて、ゲイ映画というとゲイについての映画、アウトサイダーを描いた映画、アート映画のように思われますが、この映画はそうではなくて、中間の位置にあるんです。でも、ゲイの恋愛映画ではあります。最終的にたどり着くのは愛なんです。愛というものは謎に満ちていて、愛に触れたり、全体を理解するということはできませんね。愛をさまざまな角度から見ると、それぞれ違った一面が見える。しかし、それも愛の一つの側面でしかない。この映画が見せようとしているのはまさにそれなんです。



私の高校時代は、とてもじゃないが素晴らしいものとは程遠かった。今思い返しても、その気持ちは一向に変わらない。
校内では、人の悪口や盗みが横行していた。運動部の何人かは結託して、クラス内カーストの低い人間から財布をせびった。教師は事なかれ主義で犯人を罰する根気も勇気も持ち合わせてはいなかった。
でも少しはマシに思えることがあるとすれば、「ゲイだ」と噂される人間がいても、それをネタにしたイジメが一つもなかったことかもしれない。
私はアン・リーの言う「愛の一つ側面」にゲイが含まれているかは分からない(少なくとも私は物語の中でしか彼らを知らないからだ)。
軽はずみに肯定も否定もしたくない。
ただブロークバック・マウンテンを最後まで観れば、多少のキッカケを貰える気はしなくもない。
分かったつもりになるのは恥ずかしいが、知らないよりかはマシだろう。



遠藤周作(またか!)はエッセイ作品「狐狸庵閑話」にて、こう述べた。

二十代の頃、私はえらそうに「死に関する考察」などという本を読んで分かったような気がし、額におちる二、三本の髪を薬指でパラリともちあげ、
「実存と死こそ、人間の本質である」
深こくな表情をして低く呟いたりしたものであるが、今、あの頃の自分を思い出すと背中にジンマシンの起きる恥ずかしさを禁じえんのである。


今、私は深こくそうな顔をしているに違いない。それはとても滑稽な姿に違いない。
しかし、遠藤周作先生でさえも、そうだったのだ。分かった気になるのも悪くはない。
将来、恥ずかしくなってもジンマシンが出るだけだ。
構わない、たんと悩めばいいさ!
という訳でブロークバック・マウンテン、オススメです。
ここ最近遠藤周作の作品を続けて読んでいるのは、前にも書いた。
遠藤周作の「同伴者としてのキリスト」という考えに、何と無く感化され、宗教もあながち悪いものではないのでは?という気さえ起こっていた。
改めて振り返るとやはり、私はまだまだ若輩者です。



確かあれは今月の25日の出来事だったと思う。
私は大学の図書館で勉強しようと、大学通りをゆるゆると歩いていた。
もう授業自体はないから、普段は学生で溢れた通りには、まばらに地域の人達がいるくらいだった。
そろそろ大学の時計塔が見えてきたというぐらいまで来たところで、私はたどたどしい日本語の女性に話しかけられた。
「私は台湾から来ました。教会にお祈りに来ませんか?」
その時、私はとっさに強い嫌悪感を感じたのだった。
それは、「あんた達が神様を信じるのは勝手だけれど、私まで巻き込まないでくれ」という様な気持ちだったと思う(そう言えば遠藤周作の作品でもこんな風な話が何度か出てくる)。
もちろん、そんな言葉を信者の女性に言える度胸も信念もあるはずがなく、私は彼女に対してシカトを決め込んだ。
申し訳ないことをしているなとも思ったが、その嫌悪感を私は誤魔化す気にはなれなかったのだ。
彼女は私に対して幾つか言葉を伝えようとしたが、もう私の耳には彼女の言葉が入り込む余地など一ミリ足りともなかった。
彼女は諦めて、また他の通行人に話しかけていた。
「私は台湾から来ました。教会にお祈りに来ませんか?」
幾らか離れたところで、私は後ろを振り返った。
彼女は相変わらず誰にも相手にされないのに、それでも道行く人々に声をかけ続けていた。



私はごくごく一般的な日本的な宗教観の持ち主だと思う。
正月には地元の神社にお参りに行き、食事の前には「いただきます」と言う。
オバケはいるかもしれないし、いないかもしれないと思っている。
そして、何故だか宗教に関して不信感を持っている。
でも、それは特段、私が変わっているということはないはずだ。
大概の日本人が、宗教の勧誘に遭遇すれば嫌な顔をするし、逃げる様にして、足速に去って行く。
あの時感じた嫌悪感はいつか拭い去ることが出来るのだろうか?
脱ぐ去れたとして、それは良いことなのか?
遠藤周作という人が私達に伝えたかったキリスト教とは結局何だったのか?
段々分からなくなって来た。少なくとも表面的にだが、私は遠藤周作の思想を汲み取っているつもりだったのだ(実際には何も理解などしていなかったのだが)。
遠藤周作は30代に肺の病で死の淵を彷徨った。
「満潮の時刻」や「深い河」をはじめとした、彼の病気と向き合った作品群は、その経験を元にして書かれたものである。
最高傑作「沈黙」も、この病気のすぐ後に書かれたものだ。
元々キリスト教の信者であった遠藤周作が、改めて「キリストとは?」という考えを問い直した一因は、やはり自身の死をその肌で実感したからであろう。
だから、宗教というものを考えるのは、もうちょっと先で良い気がする。もっと人生がどうしようもない局面にまで追い込まれないと、それは理解することは難しいのかもしれない。何故なら私は若輩者だ。それは今の私にはこれっぽっちも分からない代物であるのだ。



来年もよろしくお願いします。


気が乗ってきたから、自分史についてもう少し。
先日書いたのが、芋虫時代(生まれてから物心がつくまで)の話だったから、今回はもう少し後、私の天使時代の話でもしたい。
天使時代とは4歳から8歳までの、私が最も純粋で、可愛らしかった時期なのです。


今思い出すと、当時私の住んでいたインドネシアのジャカルタという土地はとにかく暑かった。
太陽は低く小さかったが、それでもジワリと私の背中に迫って来るようだった。
インドネシアは南国ではあるが、私の記憶にあるインドネシアはどちらかといえばトロピカルとは程遠い煤と灰色の記憶である。
行き交う人の数は半端ではなく、いつも何をしているのかさっぱり分からない、所在無さげな大人たちで街中はごった返していたのだ。
そこを韋駄天の様に走り抜けていく浅黒い子供たち(だいたいはよれよれのTシャツと原色のサンダルを履いていた)。
私は車の窓から、その様子を伺っていた。物心ついた頃からすでにそんな状況だから、怯えは一切なかった。ただ、車窓から見えるそれらの光景は、私にとって奇妙でキテレツな物語のように感じられたのだ。
常にどこからかクラクションの音がする。いつもあんなにだらけているのに、インドネシアの人間はクラクションだけはきっちり鳴らすのだ。
とにかくうるさかった。


突然誰かが窓を叩く音がする。私は左の車窓に顔を向ける。
そこには顔が張り付いているのだ。べったりと、よだれを垂らしながら。
それはハンセン病患者だった(もちろん、その頃の私はハンセン病など知らなかったが)。顔が変形してしまっている。
私はその人を見て、どんな風に思ったのかまったく覚えていない。ただ、見たという事実だけが記憶に残っている。
何も感じなかったのかもしれないし、何か感じたのかもしれない。
彼らはいわゆる物乞いで、お金を渡すと、離れていく。母がお金を渡し、その人はまたどこかへフラフラと立ち去って行った。
あの頃(1995年ごろ)はこんなことはよくあった。私は何度もその変形した顔を見たし、彼らも何度も車窓に顔を張り付けて金をせびった。でも不思議なことに、一度もその時何を思ったのか思い出せない。さらに言えば、その記憶さえも少しずつ薄らいでいるのだ。
それが良いのか悪いのかも、私にはよく分からないでいる。


※現在ではインドネシアでもハンセン病への取り組みが進み、患者の数は年々減少しているようです。

たいしたこともない自分史について。


生まれてしばらくは、両親は私の将来にずいぶん期待したものだったらしい。
それは私が長男という、悲しい十字架を背負ってこの世に生まれてしまったこともその一つ根拠であったが、何よりも私は中々くりくりとしていて可愛らしかった(少なくとも、周りの赤ちゃんたちと比べても私は可愛らしかった)し、言葉を話すのも早ければ、乳離れも早い。歩行だってスラスラと覚えたからです。
しかし、今の自分を鑑みると、それは人生で最も私が輝いていた時期だったのがよおく分かる。
「火星人襲来」をラジオで放送した時のオーソン・ウェルズのようなものだ(彼は結局、この素晴らしい記念すべき事件以降、自分の才能を上手く消費する場に出会えなかった)。


私の一番古い記憶はこんな感じだ。
二歳の頃、私は母の友人の家で昼食にソーメンを食べることになった。
もう私はお箸が使えたから、自慢げに母の友人に割り箸を借りてソーメンを食べようと試みた。
しかし家では上手にお箸が使えたのに、ここでは何度お箸でソーメンを摘まんで口元に運ぼうとしても、ソーメンは皿の上にポロリと落ちてしまう。
「何故かしらん」と私はぼんやりと考えていると、母が私に言った。
「割り箸割らないで、どうやって食べれるのよ?」。


昔の記憶を思い返すと万事こんな調子だから、私はもう物心ついたころには、素晴らしい将来などは約束されていなかったのは簡単に分かることであった。
つまりそこにあるのは、ぼんやりとした、うすのろとんま野郎の一生である。
案の定というか、あれだけ可愛らしかった容貌も、年齢が進むにつれ、見るも無残な結果となっていくではないか!!
父の転勤に伴い、2歳から8歳までの間住んでいたインドネシア(ジャカルタ)のマンションから、私はその排気ガスで綺麗に汚れた空を眺めながら、私はやっぱりぼんやりと思った。
「おそらく碌な人生にはなるまい」。


私は自分の歴史(と呼ぶのは大仰だが)を考える時は、幾つかに分けて考える。
日本にも、古代や中世、近世と区分けがあるように、私もそれと同じなのだ…と自慢げに書いたが、まぁほとんどの人がそうだと思うけれど。
私は生まれてから物心がつく2、3歳までを芋虫時代。
物心がついてから、インドネシアから日本に帰国するまで(つまり4歳ごろから8歳まで)を天使時代。
9歳から中学卒業までを伏龍時代。
高校生から今まで(つまり22歳の現在)を基地外時代と区分けしている。
つまり本日お話したのは、芋虫時代の話である。
しかし芋虫時代は私もほぼ記憶がないために、これにて完結としたい。
気分とノリによっては、今後はそれ以降の自分史について触れて行きたいと思う。
自分史…それはオナニーである。