神癒の法 | 夕顔日誌

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footprints of emancipation

神癒の法 -いかなる苦しみにも効く-


1.質問者:ラージュ、あなたは数多くの人を癒してあげたんでしょう。わたしの歩行困難を癒していただけませんか。

わたしは「医者よ自らを癒せ」という諺を実行しはじめてから歩行能力はまあ、ある程度までは、回復してきたんです。

でもわたしは、ちゃんと、歩けるようになりたいんです、ちゃんと。優雅に、がっちりした踏ん張りで、苦もなく。

ラージュ:それはあなたの願いですか?

質問者:はい、わたしの願いです。

ラージュ:それでは、その治癒を経験しましょう、わたしと共に。

「医者よ自らを癒せ」とあなたは言いました、しかしこの諺は慎重を要しています。

「医者」という言葉には、学識のある賢者という含みがあります。この諺は、外部からの助けを借りずに治癒を行うべきだと解釈されますが、その解釈は上滑りです。

まず何より先に癒されるべきものがあるのです。

その癒されるべきものとは、ある狂いです。あなたたちの自助自立の精神がもたらした狂いです。これはあなたたち皆にとってそうなのです、例外なく。

この狂いを直す方法とは何でしょうか?

いいですか。自分の殻の外側のものを招き入れるということです。説明しましょう。


2.昨日わたしは「願いとは祈りである」という言い回しを使いました。そのことについてより詳しく話します。注意して聞いてください。

願いを抱いたら、それを一人だけで抱えることは賢明ではありません。欠乏を一人だけで抱えると、その願いは自分だけが持つ欠乏の現れになってしまうからです。

(個という殻の)外側のものと一緒に願いを抱くことが賢明です。

そういうわけでわたしはこう述べました。「聖霊、父なる神、またはわたしと共に願えばいい」と。

なぜでしょうか?

これが自分の孤立状態を脱出する方法だからです。この孤立状態こそ、自分を限られたちっぽけな存在だという知覚をもたらすものなのです。だから脱出したほうがいいのです。


3.わたしが昨日述べたように、願いが何であれ、その願いを感じ続けることが重要です。願いというものは自然に成就するものなので、そのための許可をその願い自身に与えるのです。

その成就する過程の中に、何も持ち込まなくてもいいのです、また活性化するためのテンションをその願いに少しも吹き込まなくてもいいのです。

なぜ?

願いというものは、成就するための要素を完全に宿しているからです。
さて、昨日は触れませんでしたが、自分が願っている事柄を突き止めるためにはどうしたらいいでしょうか? まずあえて静かになることです。そう、自分の存在という運動の静けさの中に沈むことです。

なぜなら自分の存在という運動を感じると、その潮流に乗ることが容易くなるからです。

この運動は願いを充足する運動なのです。この運動を感じれば、しかもそれが自分自身のものだと実感すれば、それに対する願いを自然に経験するということです。


4.さて、あなたは治癒を願うと言いました。それはすばらしいことです。制限というものは経験されるべきものではないからです。精神的にも、身体的にも。

無制限な自由こそがあなたの天与の権利だからです。

そういうわけで(個の殻の)外側のものを招き入れるといいと言うのです。よって、わたしを招き入れたことが正解だったのです。

このように、わたしまたは聖霊を自分たちの治癒過程に招き入れてもいいのです。こうして自分たちの孤立状態を囲む殻を打ち破るのです。

この殻が打ち破られれば、自ずと聖霊が働き出そうとするものです。それを許せばいいのです。

聖霊とは、外側のものではあっても、あなたの実相の存在という運動のことなのです。この聖霊はあなたの完全無欠さを、確認できる形にして、明るみに出してくれるものなのです。

一つ言っておきます。

お手上げで自分の問題を潔く受け入れることは賢明ではありません。そういうことが癒しではないからです。癒しとは、紛れもない完全無欠さの現れにほかならないのです。


5.癒しはあなたの天与の権利です。

あなたは自分のことを孤立した存在だと思い込んでいますが、この思い込みこそ、あなたの抱えている問題なのです。

この問題はさまざまな形として現れ得ますが、どのような形で現れたにせよ、これが自分自身が課した虚偽の知覚なのです。それは厄介なものです。

したがって先ほどの諺の医者は、自らを癒すために何をするのでしょう。答えは、自分の虚偽の知覚を見破るために、自分の殻の外側に助けを求めるということです。

つまり、完全無欠なものと共に願うということです。

ACIMに述べてあるように、これを行えば、聖霊があなたの苦境をあなたの得に変換してくれるのです。その苦境がどのような形で現れているとしてもです。

なぜでしょう?

これはあなたをえこひいきするわけではないのです。錯覚を見破れば、実際に行われているのは全体性だけだとわかるのです。完全無欠の全体性です。常に、ずっとあるものです。


6.それなのにあなたは自分のことを独立した存在だと思い込み、孤独であるという夢想に憂き身をやつしているのです。これでは自分の全体性は目に入りません。

しかし聖霊など外側のものと一緒になるということは、自分は決して一人きりではないと知ることになります。これでその独立した存在という思い込みが揺らぎ、自分の全体性と完全無欠さが現れてくるようになれるのです。

そういうわけなのです。

神の普遍性をそのまま意識的に経験することは、あなたの、言わば「(必然的に)たどり着くところ」です。なぜなら、いつまでもこれと異なる事柄を夢想し続けることは不可能だからです。

したがって治癒というものは、目覚めと同じように、避けられないものなのです。こうしてわたしと共にあなたは治癒を経験するのです。


7.では、あなたの役割は何でしょう? 毎日何をすればいいのでしょう? これを常に心に持ち続けるべきでしょうか。やらなければならないこととは何でしょう?

答えは単純で分かりやすいものです。

その願いを感じ、その出現を聖霊にゆだねればいいのです。毎日、自分のことを「わたし」ではなく、常に「わたしたち」だということに留意することです。要するに自分が父なる神・聖霊・わたしと共にあるということにしっかりと注意を向けることです。

自身の治癒に関してこれ以上の負担を背負い込んではなりません。

あなたは決して一人だけで物事と対面しているのではないからです。

実相を遮断して自分を孤立させることは愛とは正反対の行為です。愛の行為とは実相を受け入れるということなのだから。外側のものと一緒になることは愛の行為なのです。


8.愛は高貴な道だと言われています。

先日この「高貴」について話しました。わたしが言う高貴とは、王室や皇室などの性質という意味ではなく、瑠璃色という感じのものです。または貴族のまとうような深い紫色のベルベットという感じのものです。特に貴族に限定しているわけではありませんが。

これは存在という運動の本質の豊かさの感触です。

この存在という運動とは、あなたの存在という運動のことです。神の存在という運動とも言えます。

愛は癒してくれるものです。なぜなら愛の臨在の前では、自分のぽつりと孤立した存在の錯覚が持ちこたえられないからです。

対象がなければ愛するということあり得ません。

愛しているということは、何かを愛しているわけです、何かをです。要するにその対象の実相を受け入れているということです。実相を受け入れている間中、自分の孤独状態が停止されるからです。

実相を受け入れるには、怖れを手放す必要があります。


9.「愛とは怖れを手放すこと」という名言の通りです。怖れがなければ、防御がないからです。これで自分の実相をことごとく受け入れることができるのです。

「友情」「温もり」「無邪気」「純粋」など単純な表現に注意を払い始めるよう、あなたたち皆に勧めます。このような単純な表現は人間の価値観で重んじられているだけではありません。

これは、実は存在という運動の基本的な性質を言い表しているのです。

それに対して、「複雑な無邪気」のようなこちゃこちゃした表現はどうでしょう。思考を巡らさなければその意味が見えてこないでしょう。

互いにうまく折り合うために、ほとんどの人は心理的プロセスを学ぼうとしています。パートナーシップの中でのウィンウィンの関係を築く戦い方を学ぶために、講座を受けている人も少なくありません。

しかしそんな学べる技能を忘れ、「友情」というものの意味・フィーリング・質感を探ったほうがいい。そうすれば自分の抱える問題をより早く通り抜けることができます。

生きているという不可避なことは本来、とても楽なことです。

それなのにあなたたちはこれをごちゃごちゃにしてしまう。何もしなくても自然に起きるようなことも、煩わしくしてしまう。


10.正体は見抜きにくいですが、あなたが経験している問題は例外なく、あなた自身が作り上げたものです。昨日言いましたが、あなたが実際に作り上げられる唯一のものは、見間違いというものです。

あなたが抱えている問題は例外なく、見間違いです。

この見間違いとは何でしょう?

一応「アイデア」という単語を使いますが、この見違いというものは、統一しない「アイデア」でできています。これらの「アイデア」が、統一した「アイデア」群として扱われ、信じ込まれているものです。

知ってほしいことは、問題という現象は常に、見間違いというものの具現だということです。

はい、癌もそうです。運動障害も、けがも、ぎくしゃくした人間関係もそうです。どのように見えても、問題という現象は見間違いの具現です、これに例外はありません。

見間違いというものは、がっちりと固定した物体ではないので簡単に対処することができます。


11.わたしたちは皆そうですが、毎日考えがころころと変わります。トイレへ行こうとする途中に片付けなければならないことがふと目に入り、それを先にすますようなことも日常茶飯事です。

考えを変えることは可能なわけです。


ACIMのワークブック《レッスン33》には、「これについての別の見方がある」という練習があります。

いいえ、ACIMを宣伝するためではありません。この句の真実性を言い表すために言及したのです。

「これについての別の見方がある」
ACIMワークブック レッスン33

これは考えを変えることができると言っているのです。

物や事柄を見る見方、すなわちその有様がああである、こうであると信じ込む道筋は、決して唯一の見方ではありません。だから見間違いしている中では、考えを変える方法があるということです。

では、考えを変えるには、どうすればいいでしょう。

第一歩は、「これについての別の見方がある」というエクササイズを実行することです。この言い回しのままでやってもいいし、自分なりに言い換えてもいい。

1960年代の英語圏には「セレンディピティ」という流行語がありました。願ってもないものをふっと発見する、という意味です。すばらしいことです。

あなたたちは普段こちんこちんに固定した見方で物や事柄を見ています。しかも断固たる決意で。しかしそんな見方にとらわれていないときは、例の別の見方というものが不意に顔を出すことが可能になるのです。


12.あなたは瞬間治癒を、ある程度まで疑っていながら、頭でかすかに感情的にそれを信じています。それでもそれは例の別の見方ではなく、まだ自分の通常のがっちりと固定した見方のままなのです。

その固定した見方で見なくてもいいのです。

セレンディピティによる、不意に起きる瞬間治癒はいかがでしょうか。

物や事柄を見る別の見方が本当にあるわけです。

そう、自分の体を経験する別のやり方が本当にあるのです。この別の見方で、物理的な限界という現象がなく、細胞や組織がなんらかの物理過程によって行動するのでもない。

そういうものは正しい見解だと思われているのですが、実際は見間違いです。見間違い、つまり事実だとみなされている錯覚というわけです。


13.しかしあなたは考えを変えることができる。考えは変えられるものであるということです。「医者よ自らを癒せ」とは、考えを変えなさい、ということです。

では、考えを変える一番いい方法は何でしょうか。

先ず言っておきますが、「考え」と一般に思われているものは、記憶からしか成り立っていないものです。したがってその意味で考えを変えても、ある記憶が別の記憶に置き換えられるだけで、埒が明きません。

ではどうすればいいでしょうか?

自分たちが真実だと思い込んでいる事柄は本当の真実ではないので、まずは、その思い込みを保持するのを拒否しておくことです。

そして、その本当の真実、すなわちその実相を知りたいと願うことです。

あなたのアイデンティティ意識は、今のままでは、独特に配列された無知によるものにすぎません、ただの信念の一群というわけです。したがってこのアイデンティティ意識をよりどころにせず、物や事柄の実相を求めるのです。

どうやって?


14.神に手を伸ばす。または第四次元の自分自身である聖霊に手を伸ばすのです。こう頼みます。

「助けてください。ここにある実相を知らせてください。あなたを招き入れ、あなたと一緒になります。私自身の完全性という実相を明らかにしてくださるために、あなたに耳を傾けます」と。

はばからなくてもいいのです。

「わたしは神罰を受けるかもしれない」とか、「罰が当たる」という言葉はよく耳にしますね。なんて空しい概念でしょう!神に対する無意味な概念です。神罰だなんて、 ただの迷信です。

実際の神は、自分のすべてをそのまま自分の自己表現に与えているのです、何一つ惜しまずに。

神の自己表現とは何か?あなたの自我のことではありません。この自己表現とは表現されている神ご自身のことです。

それは確かに利口ぶったような言い回しですが、ここで重要な指摘をしています。


15.「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。《ローマ人への手紙9:21》」

神は自分自身を表現するのであり、自分自身でないものを表現することはできないということなのです。自分自身だけを表現するわけです。

ついでに言いますが、わたしは「父なる神」という言い回しを頻繁に使っていますが、これは言葉のあやです。これを「母なる神」と言い換えても構いません。

では本題に戻りますが、父なる神は自分自身を表現するものです。そして、この自己表現は自分自身の延長となっています。要するにこの自己表現によって、神の喜びが倍増するということです。

この自己表現は、神から分離したものではありません。分離して別の有り様に変わるわけではありません。この自己表現は、分離によってではなく、延長によって行われるのです、果てしなく。


16.神は自己をかたどって自己のかたちに人を創造したという、創世記の記述も同じことを言っています。

要するにあなたという存在は、神から分離していない、神の臨在にほかならないということです。

それなのにあなたたちは皆、五感にしか頼ろうとはしません。存在という運動の全貌は広大無辺です。果てしない無限です。しかし五感では、これを少しずつ、とぎれとぎれにしか経験できません。

これでは、自分のことをちっぽけな存在だと思い込んでしまいます。無限大の中をぽつりと生きているように、森羅万象から分離しています。しかもケガや病気などの辛酸をなめかねない心境に陥っています。

しかしあなたという存在は、心の存在そのものなのです。

心の存在? 換言すればあなたという存在は、あの「Observing Self」というもの、すなわち自分自身を常に観察する意識そのものなのです。

これはすべての意識的経験を宿す究極のものです。

これらの意識的経験はたった今、あなたの中で行われている最中なのです。そう、あなたという存在はすべての意識的経験を宿す究極の意識なのです。

そういうわけであなたは、今の状態でも、自分が物質ではなく、心であるということを把握できるはずです。そう、心なのです。身体というものは、意識的経験としてあなたの中に宿っているものです。


17.「わたしは肉体ではない。わたしは自由である。わたしは今も神が創造したままのわたしなのだから」
ACIMワークブック レッスン201

「わたしは肉体ではない。わたしは自由である。わたしは今も神が創造したままのわたしなのだから《ACIMワークブック レッスン201》」 では、全知の究極の意識について語っていますが、これはどういうものでしょうか。

意識というものが存在するということは、意識する対象が存在するということになります。意識の対象がなければ意識が存在するはずがありません。

聖書には、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった・・・《創世記1:31》」と記されています。

ついでですが、わたしが以前に指摘したように、この「極めて良かった」という言葉は嘘ではありませんが、誤訳です。正しく訳出すれば、「正に自分自身だった」となります。神は自分自身を見て、見ている光景が自分自身であると知ったという意味です。

全知の究極の意識で見て知ったわけです。

これは気持ちの良い経験です。なぜなら、存在という運動の完全性を経験しているからです、分割できない完全性です。


18.さて、わたしはペラペラとしゃべってきましたが、果たしてこれは本題と関係あるのでしょうか。関係あるのです。すべて関係あるのです。神について説き明かしてきましたが、これはあなたの実相についても当て嵌まることなのです。

これに気づけば気づくほど、あなたは自分のアイデンティティに対しての欠如した解釈を手放す勇気が増すのです。そうすれば、自分のことを身体だけだと見なすことをもっと楽にやめられるようになるのです。

この気づきの中では、自分の人生の経験が偏っているということが明らかになります。

偏っているとは?あなたは自分のことを形状の世界の中にある塊だと思い込んでいますが、それは逆なのです。あなたという存在は形状の世界の中にあるのではなく、形状の世界があなたというの究極の意識の中にあるのです。

あなたという存在は本来、推測や論理など思考力で知る意識ではなく、何もかもを直接知っている意識なのです。つまり全知そのものであるということです。


19.実相世界をはっきりと浮き彫りにするパズルのピースはすべて既にテーブルの上に置いてあります。これを理解しなければなりません。

これらのピースはすべて、今、あなたの経験の中にあります。しかも、自分のアイデンティティを身体から離して究極の意識に移すたびに、ひずみが補正されていくので、それぞれのピースが見て取られるようになるということです。

形状という現象は確かに、目に見える、また指で触れる、神の心の運動のある要素ではあります。とはいっても、自分という存在を究極の意識として自分の実相を経験したほうがなおいいでしょう。

自分のことを形状として形状の世界に馴染ませれば馴染ませるほど、自分の実相を経験することができなくなるのです。

そうすると自分の天与の展望を見失い、自分にかかわる各形状はぎゅうぎゅうと凝縮してしまう。それらの形状は凝縮すればするほどに化けてしまうものです。


20.要するにあなたの天与の自由とは無関係に、壊れたり病気になったりするように知覚されるわけです。挙句の果てには病気や罪、死などが引き起こされるのです。

あの『人間の堕落』という例え話もそういうことです。あなたの天与の展望は広大無辺で、神という運動の可視的な具現をすっぽりと含んでいます。あなたのアイデンティティはこの天与の展望にあるはずです。

しかしあなたは自分のアイデンティティを、この展望からその可視的な具現のほうに移したのです。

まさに堕落です。

これは展望の移りです。第四次元から第三次元への移りというわけです。この移りの中で、あなたは自分の束縛されていない無限性の経験を犠牲にし、隔離された孤独性の経験を始めたのです。

どうやってでしょうか? 注意の焦点を絞ることによってです。要するに、自分の束縛されていない無限性を利用することで、自分の全体の中にある数ヶ所にだけ焦点を絞ったということです。


21.あたかもジグソーパズルのピースがじゃらじゃらとかきまわされ、ごちゃごちゃになってしまったかのようです。

これであなたはここから1枚のピース、そこからもう1枚、あそこからもう1枚を手に取っています。「よし、この3枚を組み合わせてみよう」と決めました。互いにかみ合わない3枚をです。

なのにあなたは片意地を張るばかりで、その3枚にしか注意を払おうとしません。ほかのピースが全部テーブルの上に置いてあるのにです。

「かみ合わせる方法を絶対に突き止めてやる。これらは神の体制に属するのだから神性なのだ。どのピースも、ほかのどのピースとも、きっちりとかみ合うはずだ。絶対にかみ合わせてやる。雨が降ろうが槍が降ろうが」と屁理屈をこねています。

そして槍が降ってきて、むごたらしい事態が生じてしまいました。

肝に銘じてください。あなたは数枚しか受け入れていませんが、ジグソーパズルのすべてのピースは常にテーブルの上にあるのです。

同じように、あなたの天与の正気のすべての要素も、今もあなたと共にあるのです、完全に。


22.しかしあなたは自分の注意の焦点をぐっと絞り、自分という存在を形状の世界の中にあるものだと見なしている。形状となったからには、身体の調子が悪くなりかねませんし、境遇もめちゃくちゃになりかねません。

しかしそうならなくてもいいのです。

自分の全体性は自分の目の前にどっしりと居座っているからです。といってもあなたには目に入っていません。この全体性こそがあなたの神性の意識です。全知の究極の意識です。あなたの真のアイデンティティなのです。

あなたはいま正にに神性の意識として機能しています。

でなければ何も意識していないはずです。あなたの神性はちゃんと機能しているし、あなたは今これを利用しているのです。ただ自分のアイデンティティがこの神性にあるということを忘れているだけです。

あなたはそこに座っていながら、振り向いて窓の外を見て、美景を眺め、目の保養をすることができます。そのように頭に付いている目が利用されていることをまったく意識しなくてもそれができるのです。

でもそのとき目が存在しなくなったわけではないのです。自分がそれに注意を払っていないというだけです。

ろくろに粘土の塊をのせて回す間、また冷蔵庫から材料を出して料理する間、自分の注意は自分が作っている物の形のほうに向けられています。自分の手のほうには向けられていません。


23.それでも手はちゃんと存在し、あれこれとやっています。自分の注意がそれに向けられていないだけです。手のほうに注意を向けていなくても料理ができるからです。

同じように、あの神性な心である無限の臨在、すなわちあなたの実相はしっかりと機能しています。あなたはそれに注意を向けていないだけです。

自分の実相の中で行われている、限られた事柄に気を取られているからです。そしてあなたはその限られた事柄のほうを自分だと言い張っています。

それが狂気なのです。

この狂気はあなたの正気によってもたらされています。でもあなたの注意が狂気のほうに向けられていても、自分の正気が消え去ったりするわけではないのです。

比喩的に言えば、以前にも述べたように、あなたたちは皆、天国のど真ん中に座っていて、目をぎゅっとつぶったまま、「完全無欠というものが見えない」とぼやいています。

あなたの全知の意識は、天地創造という果てしない運動そのものだとも言えます。

ちょうど今も堂々と行われつつあるのです。

これこそあなたの本当のアイデンティティです。それなのに、「自分という存在をその果てしない運動の中にある、ちょこんとした一つの点にすぎない」とあなたは言い張っているのです。

それが見間違いです。

しかし、この見間違いを抱くことができるのは自分が神性だからです。そして自分が神性だからこそ、今にも目を覚ますことができるのです。


24.この見間違いは実相世界の外側で行われているわけではないし、非実相の世界を実際に繰り広げているわけでもないのです。この見間違いとは自分の注意を払う過程に持ち込まれた偏りにすぎないものなのです。

あなたは意地を張り、「この3枚のピースだけに専念したい。これらは神性なら、自分の思う通りに互いにかみ合うはずだ」と屁理屈をこねています。

あなたはかみ合わない物を無理やりにかみ合わせようとしています。とはいえ、この意志はどうでもいいのです。この心理状態もどうでもいいのです。

どうでもいいのです。

また、自分の中に潜むこの破壊的な要因を突き止めるために、この心理状態を正す必要もないのです。それもどうでもいいのです。

てはどうすればいいでしょうか。

潔くギブアップし、立ち上がってテーブルを見下ろせばいいのです。

そうすれば、すべてのピースがちゃんとそこにそろっていることを発見し、訳もなくそれらをかみ合わることができるということに気づくのです。

誰も彼も自分のアイデンティティが肉体にあると思い込み、自己改善に励んでいます。そうして心理学が出現しました。

いいですか。病気もその思い込みから生じた現象です。

この話は脱線しているようですが、すべては核心につながっていますから、安心してください。


25.さて、テーブルから立ち上がり、展望を開くにはいったいどうすればいいでしょうか。ある単純な愛の行為を実践すればいいのです。

あなたたちは一人ひとり、実相を遮断し、自分という存在を森羅万象から分離した単独の存在だと思い込んでいるわけです。わたしが言っている単純な愛の行為とは、実相を遮断せず、何かまたは誰かを自分の単独の世界の中へ招き入れるということです。

そうすればジグソーパズルの全貌が見えてくるのです。

全貌が見えるということはとても有意義なことです。全貌が見えてこないままでは、目と鼻の間にどっかと居座っているものが見落とされがちだからです。


26.ポールも、このような見落としをしでかしていました。彼はまるまる6ヶ月間わたしとの対話をしていたころまでは、死という現象が実際には起きていないという事実をずっと見落としていました。

わたしとの対話だけが生命が永久不滅であることを実証していたのに、彼はまったく気がつきませんでした。対話の内容の方ばかりに注意を払っていたからです。

あなたたちも皆明白な事柄を見落としています。

確かに、わたしは同じことを何度も繰り返してきましたが、これは反復効果の活用なのです。

ええ、広告業界で利用されている反復法なのです。新商品が発売されるとその集中的なキャンペーンが行われますよね。CMは大抵6回も繰り返さなければ覚えられないからです。その反復法なのです。

ここで肝心なことはジグソーパズルのピースが余すことなく、すべてテーブルの上に乗っているということです。

あなたの実相はしっかりと、そこで臨在し機能しているのです。ちょうど今です。霊的な成長を成し遂げた将来に現れてくるものではなのです。

すべての要素、すべての次元4つとも、ちょうど今、しっかりと機能しているのです。

この4つの次元とはあなたのことです。

あなたは、肉体や日没、木々、椅子などを意識的に経験しています。しかしこれらの経験とは存在という運動の意識的な経験の中で行われているものです。

いいですか。あなたという存在はこの中で行われているものではなく、これらをすっぽりと囲む存在という運動の究極の意識なのです。

ではどうすればいいのでしょうか。

注意の焦点を移せばいいのです。肉体から存在という運動の究極の意識の方にです。この意識というのは、物体としての意識ではなく、心の臨在としての意識です。常に行われている心の不可避の臨在としての意識です。

ある有名なたとえ話では、ある小魚は母魚にこう聞きました。

「お母さん、水というものがあるって本当?それはどこにあるの?」 と。

同じように、「お母さん、ぼくのことをね、『あなたは何もかも直接知っている究極の意識なんだよ』ってイエスが言ってたんだけど、それを体験するにはどこへ行けばいいの?」


27.当然ですが、この究極の意識があるからこそ、この質問が聞けるわけです。

といってもこの質問に捕らわれてはいけません。あえて質問から一歩離れて、静かになり、その静けさの中でこの究極の意識を体験すればいいのです。

それが、質問の答えだということです。

そこでは、自分のアイデンティティが移るのです。肉体から究極の意識にです。そう、全く遮られていない、全知の意識にです。

これは「空虚の中への飛び込み」とも呼ばれる行為です。でも本当は、空虚ではありません。普遍的な意識は空虚どころではありません。飛び込むとき、空虚のように見えるだけです。そういうことなのです。

小魚が水と空虚を見分けられないようなものです。これを空気にたとえることもできます。風を感じていないときは空気という存在を意識しないものです。

全知の意識への移りが深まるにつれて、形状という現象の濃度が低くなります。神という運動の顕現が解凍されるのです。

というのは、あなたたちの世界では、天地創造という運動の、目に見えたり手で触れられたりする様相は小さく圧縮されていますが、全知の意識の方へ移るとそれがふんわりと元通りに戻るわけです。

なぜでしょう?

あなたの偏見がなくなり、実相世界に対するゆがみが緩和するからです。これが癒しとなります。完全な癒しです。


28.ここで、ひとつだけはっきりさせておきたいことがあります。あなたの求めている神癒とは、あなたが完全に目覚めて昇天《解脱》してから享受するものでしょうか。そんなことはありません。そのような前提はまったくありません。

なので、「そんなことわたしには到底ムリムリ」と言って嘆かなくてもいいのです。

それでは問題がさらに酷くなり、癒しに対する抵抗を呼び起こすだけです。

先ほどの圧縮状態から元通りに戻るという話は、癒しを享受するための条件ではありません。それは皆さんの思い違いを晴らすためと同時に、癒しがそれほど難しくないということをあなたたちに知らせるためだったのです。

ジグソーパズルのすべてのピースはテーブルの上に置かれています。

あなたが値するまで取っておかれたピースは一つもありません。あなたが天国の門に到着するときまで取っておかれたピースはないのです。

すべてのピースはすでにテーブルの上に置かれています。今あなたの中に。これらを組み合わせれば、それが今あなたの実相となるのです。

イエスは語るより転載