ポチッ



欲望は、「幸福の敵」であり、「みじめさの源」である。
「欲望」を手放せば手放すほど、心は静まり、集中することが出来るようになる。
そして集中すればするほど、「自己(SELF)」を実現しやすくなる。
「欲望」を満足させようとするほど、より「欲望」が強くなる。
「欲望」は、満たされることのない、底なし沼のようなものだ。
「欲望」は世界を創り、「無欲」は「自己(Self)、神」に至る。
「欲望」は物や人から幸せを得ようとする。
「心」は、始めに「必要性」や「欠乏」という思考を作り出す。
「物」が手に入ると、心は静まる。
その「心の静けさ」の状態の時に「自己(Self)」が現れる。
すると「心」は「物」が喜びの源だと思い、さらに満足させてくれる「物」を探し求める。
「心(mind)」はもっと「物」から「喜び」を得ようとするのだ。
しかし「喜び(joy)」は「物」から得られるものではない。
だから、我々は決して満足できないのだ。
基本的な「欲望」の構造はこうだ。
最初、我々は「欠乏」を生みだし、それからその「欠乏」を埋めるために必要な「物」は何でも得ようとする。
「欲望」は「あれが欲しい」などの「思考」を創造する。
「思考」は「自己(Self)を覆い隠す。
そして自己が隠されてしまうから、我々は幸せを感じられないのだ。
だが、欲望を満たすことで、一時的に思考が静まる。
その「思考の不在」の状態は、「自己(Self)」を隠している覆いを少し取り除いてくれる。
そして、「喜び」である「自己(Self)」の状態を少しだけ感じさせてくれるのだ。
だから、我々は「喜び(Self)」を「物」や「人」など間違ったものに求めてしまうのだ。
しかし、「欲望」は決して満たされることはない。
なぜなら、「喜び」は「物」や「人」にあるのではないのだから。
本当の「喜び」はあなた自身の「自己(Self)」の中にしかないのだ。
レスター・レヴェンソン セドナメソッド創始者
※次回に続きます…
要するに、人間て「あれが欲しい」といった「思考 = 欲望」で普段頭が一杯なんですが、「欲望」が満たされると一時的にその「思考 = 欲望」がなくなるんですね。
その「思考」がなくなると、ある意味「無」のような思考不在の状態になり、その時に「自己(Self)」を少し感じて幸せな感覚を味わえる…ということなんですね。
だから、欲しかった物を手に入れた時は、それが手に入ったから嬉しいのではなく、それを欲しい!と思った「思考」がなくなるから幸せなんだ…ということです。
思考ってどれだけ人間を不幸にしているのか…ということでしょうね。
ある意味SEXをしている時なぜエクスタシーを感じるかと言うと、実は「思考」がなくなるから…とも言われています。
だから、禅のマスターはある意味常に「エクスタシー」を感じているそうな。。
だって、瞑想して思考が不在になれば「エクスタシー」を感じるのだから。
「エクスタシー」を感じたい人は、瞑想なんていかがでしょうか?
とは言え、瞑想ですぐに「エクスタシー」を感じることは出来ないでしょうから、大抵の人間は、手っ取り早くSEXに走るのでしょうけどね。。
(種の保存という本能もありますからね…)