「韓国の国会の議長が日本に来日して、日韓の企業と両国国民の自発的な寄付を募り、被害者へ支援することを柱とする「1プラス1プラスアルファ」案を公式に提案した」とのニュースが流れました。

 

自民党の佐藤まさひさ議員は保守系で、対韓強硬論者ですから、猛反発していますが、

 

一方で、政府としては「韓国の国会で模索されているものだと承知しているが、他国の立法府の議論にコメントするのは差し控えたい」」とのコメントで否定も肯定もしないという立ち位置です。

 

そしてアメーバタイムズで石橋文登・前産経新聞政治部長が語ったことによれば日韓議員連盟の河村建夫幹事長は受け入れるべきだという立ち位置で動いているとのことですから、自民党の一部には賛成する勢力もあるようです。

 

さて、そもそもの話ですが、韓国の国会議長が語ったスキームは現実に可能なものでしょうか?

 

1億ウォンの賠償を求めて提訴中というのであれば、色んな形で解決することはできたでしょう。日本でもよくありますが、裁判中の和解や救済法案の成立により、すでに救済されているため訴えの利益なしという形で裁判を終結させるというような手法が考えられますし、慰安婦の問題も、この手法によって終結させたのではと思います。(韓国の話なので、日本と違う部分もあり得ますが、基本的な法体系は変わりません。)

 

今回は、既に1億ウォン(日本円では今のレートで940万円前後)の賠償が確定しています。無論、現時点で確定判決を受けている人は少数ですが、最低でも50万人以上、多ければ230万人、日本に来て働いた人以外に韓国内で軍事工場など日本のために働かされたという主張まで際限なく受け入れていったなら2000万人(当時の朝鮮半島の成人人口)という数字だって現実的にあり得ます。

 

50万人だとしても、50万人×1億ウォンが確定した債権として存在すると考えると日本円で4兆7000億円という途方もない債権債務関係が発生しているわけです。この債権債務関係は、新日鉄分が〇〇〇億円、三菱重工業が〇〇〇億円、不二越〇〇〇億円、IHI〇〇〇億円など現時点で70社に分散している訳ですが、既に訴えるべき企業が存在しないというケースもあり得ます。(ただし、既に訴えるべき企業がないという理論でいうと新日鉄なども戦前の日本製鉄と連続性はないとも言えますが。)

 

いずれにせよ、そういった債権を全部まとめて一つの財団が債務を肩代わりするというスキームを作るとしたなら、日本の法的な整理では債権の譲渡という取り扱いになります。債権の譲渡は国内でも多く行われていますが、債権者が債権を債務者から回収するのが大変なので、少し割り引いて譲渡することが殆どですが、裁判等により確定した信頼のある債権であり、取る相手先が資産を十分に持っていて逃げることが難しい相手であれば、割引率も小さくなるのが一般的です。(逆に言うと債権関係があいまいであったり、債務者が資産があまりなく回収できるか分からないものなら、タダ同然で取引されることもあります。)

 

当たり前の話ですが、債権者は債権譲渡するにあたり、債権譲渡の割引率や債権譲渡先に対する同意があって初めて成立します。

 

政府だからとはいえ、他人の債権を一方的に譲渡させるというのは私権の侵害になりますから、各種税法などによる差押、換価手続きなどがなされない限り、国家が債権を取り上げることは不可能です。法律を作ればいいという意見もあるかもしれませんが、個人の財産への侵害は憲法で禁じられており、法律であっても勝手なルールを作ることはできません。徴税という措置で行うことはできるかもしれませんが、公平性が担保され、公共の福祉の目的に合致し、私権の侵害を最小限にする努力が立法府には当然に求められますから現実的ではないでしょう。

 

こういう私権のルールを踏まえると、当然、債権者の同意がないと、この案は実現しないということに気が付きます。

 

無論、債権者に確定判決のとおりの1億ウォンを支払うとするなら、99%は同意することでしょうし、残る1%についても、同意したならいつでも提供しますよという姿勢を示していたなら、強制換価手続きを止めることくらいはできるでしょう。ただ、先ほども言いましたが、この債権額は最低でも日本円で4兆7000億円というとんでもない金額が必要になります。

 

この最低でもの4兆7000億円でという金額を前提に実施すると、旧日本軍の兵士や軍属であった13万人の人たちが、自分たちに支給された金額(韓国政府から1965年の日韓基本条約に基づき支給を受けた約300万円 ※)との差に怒り狂い、200万円しかもらっていない慰安婦の方々もおさまりがつかなくなることでしょうから、いずれ4兆7000億円でも不足することになるのではと思います。

 

そもそも徴用工に1億ウォンというとんでもない賠償金を認定し確定させた韓国の最高裁がおかしいと言わざるを得ないのですが、出てしまった判決に基づき確定した債権を整理するというのは極めて困難であることを本日の稿の締めとして、また後日、解決策を記載したく思います。

 

※この手の議論で、大変残念なことに認識されていない事実ですが、韓国政府は1965年の日韓基本条約に基づき、サンフランシスコ平和条約で規定された賠償関係手続きを清算するため、韓国籍の旧日本兵や旧日本軍属の方々に補償を行っております。日本政府が払ったと誤解する人もいますが、日本政府が払ったのは韓国政府が救済しなかった在日朝鮮人の旧日本兵や旧日本軍属の方々へのものだけです。

 

なお、この質問趣意書と回答を見るとわかりやすいかとおもいます。

第4次安倍内閣 第2次改造になりましてから2ヶ月といったところですが、閣僚が2人辞任しております。

安倍政権は、第4次安倍内閣 第2次改造という長い名前になった今回の改造で、安倍内閣としては11回目となりました。ここまで改造を重ねている内閣はかつてなく、歴代最長だった桂内閣は内閣改造はしていませんので、3回のみ。戦後最長の佐藤内閣で9回、吉田内閣で8回だったことを考えると異例の長さと回数であり、現政権と一定の信頼関係がある大臣候補が払低しているように見えます。最早、安倍政権として改造するのも限界で、新しい首相と、首脳部を選出し、その人たちと信頼関係を築けている人たちを大臣として迎え入れていくことが必要なのだと個人的には感じます。

 

さて、こういう不正が起きる度に言われるのが、議員定数削減です。

 

議員が多すぎるから議員の質が悪くなるという理屈だそうですが、私には到底理解できず、ルサンチマンを煽るためのものとしか私は思えません。仮に、日本でもっとも優秀な1000人が選ばれていて、半分にして、その中からさらに500人を国会議員に選抜するという仕組みになるなら議員の質があがるでしょう。しかし、皆様の多くもお考えでしょうが、日本人の平均レベルにも及ばないモラルと、小狡い知恵は平均以上でも、平均レベルの叡智すら持たない国会議員が大量に選ばれているのが実状でしょう。

 

そんな中で議員定数を削減して、議員の質があがるという理屈がどこにあるのかまともな思考力がある人に説得できるものなのでしょうか?

私には到底、そんな理屈は思いつけません。

 

例えば、運動会のリレー代表選手で、上位10人を代表に選んでいた際の平均タイムと、上位5位を代表に選んだ際の平均タイムでは、確かに上位5位を選んだ方が早いでしょう。しかし、生徒からランダムで10人選ぶのと5人選ぶのでは、その平均タイムに有意な差は発生しません。

 

その違いにおいて有意の差が発生するのは、質のばらつきが増えることで、より最悪の政権が生まれやすいという程度でしょう。(公正のために述べると、最高の政権も生まれやすくはなりますが、政治に安定を求めるなら最悪の政権が生まれることを避けるような制度が望ましいように思います。)
 
また、大臣を国会議員から選んでいる以上、より大臣を選択する際の選択肢が狭まるということであり、大臣数を減らさないなら、不祥事の起きる可能性は、減少するどころか増大し、大臣の更なる質の低下につながることでしょう。
 
これは、内閣総理大臣が的確に見極める視点と、適材適所を行える公平さを兼ね揃えているという前提の話ですが、さきほどの例を用いると運動会のリレー代表選手で、生徒からランダムで選んだ10人から2人を選手として担任の先生が選ぶのと、平均付近の生徒からランダムで選んだ5人から2人を選手として選んだ場合、先生が依怙贔屓をしないなら、前者の方が圧倒的に有利であるという実に当たり前の話をしているに過ぎません。
 
このように数学的、あるいは統計学的に考える場合に、議員定数を単純に削減して、議員の質があがるという理屈は成立する余地はありません。国会議員の選出において、優秀で日本の国益に資する議員を選出するための制度を変えるというのなら大賛成ですが、現状の制度に準拠した形で議員数を減らしても、国会議員の質があがることには決してつながらず、大臣の質が落ちる可能性が高くなり、さらに、国民の声が、より届きにくくなるということにしかなりません。
 
無論、議員数を減らせば議員経費の削減にはなりますから、その分の国民負担は減りますが、330億円程度のうちの一部の削減効果はあっても、その費用は国民一人当たりで言えば年に100円程度が関の山で、セブンのコーヒー1杯分くらいをケチって、国民の声がより反映されにくい世界にしたいかというと私はノーとしか思えません。
 
不正するような大臣は、もちろん許せませんし、そんな大臣に自分の払った税金の数円分でも使われるのは惜しいですが、他の目的を持って国会議員の数を減らせという非科学的でルサンチマンを煽るだけの発言には断固として与しないと各人が強く思った上で、国会議員のあり方について議論しなければならないと日本はよくならないことでしょう。
 
 
※最近、更新の頻度をあげているのは、いろいろと大変であろう進撃の庶民さまの支援に繋げたいとの思いもあって頻度をあげております。無論、本来なら進撃の庶民に定期的に記事をあげさせていただくのが一番良いのはわかっておりますが、じばらく書いていなかったので自分自身に慣らしが必要であるため当面、自分のブログで記事の卵を作って置こうかと思っております。
 
ぜひ、進撃の庶民の方の支援もよろしくお願い致します。
 

愛知県でトリエンナーレの展示を巡って、名古屋市長と愛知県知事が応酬を続けております。

それに乱入してきたのが、「あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」なる展示で本邦外出身者へのヘイトが含まれていると見なされかねない右翼系団体の主催するものです。

 

愛知県知事は、トリエンナーレの昭和天皇の肖像を焼くという表現物、つまりは「昭和天皇や天皇家に対する憎しみを増大させかねないヘイト」を含むものをも表現の自由として擁護している立場ですから、

当然に「あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」も擁護するべきだと思うのですが、これについては中止させるべきと述べています。

 

私には、この2重基準は、「お前の母ちゃんでべそ!」は悪口でダメだが、「お前の父ちゃんでべそ!」は表現の自由だと述べているように感じます。

 

ただ、県知事側にも根拠がありまして、その根拠は、「お前の母ちゃん出べそ!」はダメな悪口として、法律があるが、「お前の父ちゃん出べそ!」は法律に規制がないというものです。

 

その法律というのがヘイトスピーチ対策法、正式名称は本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に関する法律です。

 

「担任の先生が「お前の母ちゃん出べそ!」は悪口と言っていたけど、「お前の父ちゃん出べそ!」が悪口なんて言っていなかったもん!」

という子供の理屈です。

 

もう少し頭良さそうに言うなら、「お前の母ちゃん出べそ!」は広く一般的に悪口として認められているが、「お前の父ちゃん出べそ!」は「あなたの父さんは出べそである」という事実を摘示しているものに過ぎず、悪口を目的として言ったものとは限らないため、規制できないという理屈になるでしょうか?

 

ただの子供の言い訳と切り捨ててしまうのも考え方としてはありますが、

担任の先生が『「お前の母ちゃんでべそ!」は悪口ですよ』と言った際に、他のクラスメイトが『じゃあ、「お前の父ちゃんでべそ!」も悪口ですよね』と言った際に、先生が頷いてくれなかったことに責任があるという考え方もありえます。

 

ヘイトスピーチ対策法の審議の際に、国外出身者だけを対象にするのはおかしいと指摘があったのにも関わらず、法案を修正しなかったわけですから、法律制定時の内閣や国会に責任があるというのもひとつの考え方として、成立します。

 

まぁ、いずれにせよ、「お前の母ちゃんでべそ!」は悪口だが、「お前の父ちゃんでべそ!」は悪口ではないというのが国民に理解してもらえるかと言えば、まったく理解されるはずはないですし、愛知県知事の政治的な寿命を縮めるだけと思うのですが、これを機会にヘイトスピーチ対策法を見直す機運が高まり、本邦出身者へのヘイトが禁止されると、このバカな騒ぎにも価値が生まれることでしょう。

 

本日は、日曜勤務の代休でしたので、天皇家と日本の歴史を個人的なメモとして記載しておきたく思います。日本史の捉え方はいくつもありますが、権力を誰が持っていたかという視点で今回は考えてみたく思います。

 

これは歴史的な話とは言い難いのかもしれませんが、大国主が天皇家に権力を禅譲した時点で、天皇家が主権者となり、国家元首となりました。この天皇家と申し上げているのは、上皇が権勢を得ていた事も含めて、天皇家と申し上げておりますが、ともかく、平安時代まで天皇家が主権者であり、前権力者の大国主をも権威として含めて、権威と権力の両方を保持しておりました。無論、天皇家がすべての権力を持つわけではなく、一部を現在で言うところの軍令を認め、各将軍職を持つものに委譲しておりましたし、摂政・太政大臣などが置かれた際にも権力の一部を委譲(あくまで委譲であり、移譲ではない。)していましたが、権力の頂点としての立場を天皇家は維持していました。

 

鎌倉時代になりますと、この将軍職を持つものへの権力移譲が行われるようになり、事実上、天皇家は権力の頂点ではなく権威の頂点となり、鎌倉幕府に権力の大部分が移譲されたと見做して良いと考えます。室町時代、江戸時代と時代が下っていく中で、より多くの権力を幕府が握っていくことになるわけですが、建武の新政の時代には、権力の取得を天皇家が目指した稀有の時代もありました。ただ、実際には、天皇家は完全な権力を取得することはなく、鎌倉幕府時代に移譲した権力の残滓である各地の守護職から権力を取り戻すことができず、足利尊氏を征東将軍に任じざるを得なくなります。その後、南朝として、「天皇家自身に権力を取り戻そうと考える勢力」と、北朝として、「権力は今まで通りに他者に移譲しても構わないと考える勢力」に分裂しますが、最終的に北朝に統合され、天皇家は権力の頂点ではなく権威の頂点となり、権力の大部分を移譲して構わないとの意思統一がなされます。

 

戦国時代は少し特殊な状況でしたが、それでも単に権力が分裂した状態が続いただけであって、天皇家が権力を回復するのは、明治維新の時までありませんでした。形式的に、徳川慶喜による1867年の大政奉還をもって天皇家が権威と権力の頂点となるわけですが、1868年には議会に権力を委譲あるいは移譲することを五箇条の御誓文により宣言したうえで、1869年に版籍奉還により実質的な権力も天皇家が回収します。そして、五箇条の御誓文などによる約束通り、1890年の明治憲法の制定と帝国議会の開会をもって、再び権力を手放しました。

 

天皇家は権力を委譲しただけで、天皇家自身に再び権力を集中させるべきだと考える勢力が昭和初期には一定数おり、クーデターなども起きましたが、天皇家自身が権力を持つことを望まず、可能な限り権力から遠ざかってきました。(大東亜戦争の終結についての聖断など、事実上の権力を行使したこともありますが、明治憲法成立後から昭和の時代においてほぼ権力を握っていない状況と見做していいかと存じますし、明治のはじめも権力を天皇家以外に持って貰える人がいなかったために権力者とならざるを得なかったとも言えるでしょう。)

 

そして、現在の天皇家をみると、自身の家のことを決定する権限すら権力すらも委譲せざるを得ないという状況に陥ってしまっています。勘違いした権力者である国民が天皇家のことを好き放題言うようになり、次の天皇陛下をどのようにするべきか、あるいは、天皇家の方のどなたがどういう役割をはたされるのか、どのような結婚をして、どのように天皇家を守り立てていくのかすら自分自身で決定できない異常な状況が続いております。これを是正しないままに天皇家の未来を語ることはできません。

 

我々が女性宮家がどうとか、次の天皇が女性が良いとか、女系が良いとか、そういうことを議論するのは本当にありえない話です。会社経営者である個人が、個人の相続財産や会社経営の今後をどうするか決めることができるように天皇家自身が天皇家の方のどなたがどういう役割をはたしていくか決定できるようにするべきと考えます。

 

憲法や法律の縛りのある中で、これを実現するのは難しいかもしれませんが、一つの考え方としては、天皇家を一つの国家として独立させてしまうのが良いのかもしれません。今の日本政府に平和的に権力を移譲させた最大の功績者であり、現在もなお日本国民の幸せを祈念してくださる天皇家に最大の敬意を払い、「我が国の象徴となっていただき、その代わりに職員や警備などの費用や活動の費用を日本政府が負担する」という旨の条約を締結するというのも一つの手段かもしれません。

 

バチカン市国とイタリアの関係に外交的には近い関係で、かつ法律的にはイギリス王室と英連邦の国家との関係になるのでしょうか。こういう関係になりますと天皇家のことは、天皇家に決めていただくことができ、日本政府が口出しする必要がなくなるでしょう。外交的な活動と国家元首の象徴としての活動以外には日本政府は関与せず、日本国内での各種行事や被災地のお見舞いなどは天皇家とお招きする人々(自治体なども含む)が自主的にお決めいただき、行動してもらったほうが天皇家としても我が国としても良いかと思います。

 

無論、天皇家が自分を支える人々の意見を聞いて、天皇家のことを決めたいとお考えなら、天皇家を支えるものの集合体としての総代会として持ち、総代員選挙などを実施してもいいかと思います。長い年月の後、日本国民と天皇家の距離が変わり、日本国民の意を受けた日本政府が、天皇家に象徴としての役割や国家元首としての役割を担ってもらう必要性がないと考えれば条約を解消することもあり得るかもしれませんが、出雲大社として今も大切に前の前の権力者を大事にしている日本人が、日本人である限り、そのようなことにはならないでしょう。

 

逆に、長い年月の後、日本と関係の深い国が、天皇家を自分たちの国家の名目元首に迎え、オーストラリアとイギリス王国のような関係になりたいと願う国もでてくるかもしれません。天皇家は日本人の安寧だけではなく世界の安寧を願い祈っておられますから、我が国だけで独占するには申し訳ない存在でもあります。実際に他国が、天皇家とどう関わっていくかはわかりませんが、天皇家は我が国が独占するべきものではないと考える謙虚さが我々には必要かと思うのです。

今回の千葉県の長引く停電は、無論、自然災害に端を発するものですが、3日目以降に何十万戸もの停電が続くとなると人災の要素が強くなりますし、政治問題となるべきものです。

 

まして、5日目を迎えようとしているにもかかわらず、30万戸が停電となっているのです。

これが政治問題でないなら、政治の仕事はなくなるでしょう。

 

無論、この問題は、安倍政権が悪いというような短期間的なものではなく、長い時間の政治の積み重ねの結果です。

 

リブログした下記の記事にあるとおり、電力会社に十分な余裕を与え、電力の安定確保という観点からの指導が十分ではなかったという事実は、今回の災害で学ぶべき教訓です。これを解決するのは短期的には難しいのですが、やはり一番大きな問題は経済産業省がエネルギー庁を所管しているのが、ひとつの原因に思います。

 

G7の各国を見ますと、日本と同じように経済産業省が内包するのはイギリスやドイツだけで、アメリカでは1977年にエネルギー省は独立しており、商務省と同格の立場です。そして、フランスは「エコロジー・持続可能開発・エネルギー省」として、交通インフラなどを含めたインフラを担当している省が、エネルギー政策を担当させており、日本の経済産業省にあたる「経済・生産再建・デジタル省」などには所管させていません。

 

残るG7のカナダ、イタリアもインフラ整備に特化した社会基盤省などを設置しておりますし、経済産業省が内包していると紹介した2カ国、イギリスは「ビジネス・エネルギー・産業戦略省」、ドイツは「連邦経済エネルギー省」と日本のように完全な傘下ではない事を考えると、日本のエネルギー政策において、電力インフラの整備を十分にすすめることはできないでしょう。


企業の利益最大とインフラの充実というのは相反になるケースが頻繁に起こるわけですが、この調整を経済産業省がしてしまうと、どうしても企業の利益が優先されてしまうでしょう。経済産業省は、経済を発展させるのが仕事で、インフラを守る仕事は付随的なものでしかありませんから、これは仕方がないことです。

 
これは役人や担当大臣が悪いのではなく、そういう仕組みになっているから当然に起こり得るわけで、言うならば「河童に天気を決めさせたなら、やたらと雨の日が増えた」というだけの話です。多くの晴れの日を求める人が、河童が悪いと思うかもしれませんが、実際には、河童に天気を決める権限を委ねた人が悪いのです。河童が晴れを求める人たちの声をしっかりと聞かないのが悪いというのは、枝葉の議論で、これに拘ると本質が見えなくなります。
 

こういうことが起こらないようにするには、国民生活をしっかりと守ることのできるインフラ整備することが、組織の存在意義であり存続するために必要という組織をつくり、その組織に十分な力を与えて委ねる。これが政治家の仕事であり、その組織をしっかりと守りさえするなら、後はインフラ整備を担当する組織の職員が仕頼まなくても仕事をしてくれることでしょう。