令和

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令徳という元号案がかつて存在しました。

令徳、徳川に命令するとの意味を持つ、この言葉は、幕末の元治に改元される前に朝廷が希望したものの、

最終的に大元の朝廷が治めるとの意味を持つ元治となったと言われています。

 

今回、和を命令するという意味の元号になったことは、安倍政権への宮内庁関係者の意志であり、それに皇太子殿下も同意されたということでしょうか?

 

深読みかなと思わなくもありませんが、そう取られ兼ねない元号をつけたことは、とても興味深いことでした。

先日、劇場版シティハンター<新宿プライベート・アイズ>を見に行きました。

完全に息抜きの遊びで行ってきたのですが、折角ですので、政治も絡めて本作を語ってみたく思います。

 

私はもうアラフォーですので、少年時代にやっていたシティハンターの主人公である冴羽獠は、理想のカッコいい大人の一人でした。

今にして思うのは、冴羽獠のカッコ良さは、誰かに見せるためのものではなかったということです。誰かにカッコをつけたいなら、「モッコリ!」なんてノリで話をする筈がありませんし、冴羽獠は、只のスケベと他人から看做されようとも意に介しません。

 

とはいえ、シティハンターの登場人物は皆、格好をつけないわけではありません。

むしろ、シティハンターは格好をつける人たちの物語といっても良いでしょう。

 

では、彼ら彼女らはだれに対して格好をつけているのかというと、それは自分自身に対してです。

 

シティハンターで語られてきた格好良いセリフ・行動は他人から見てどうかというところにはありません。自分の納得できる振る舞いを頑なにやり遂げようとする人たちの物語であり、いわゆるハードボイルド作品です。ハードボイルドとは元々は固ゆで卵を語源とする頑固な人たちを指す言葉ですが、彼らは頑なに自分が求める格好良さを追求します。それを他人がどう評価するかということに拘りません。評価したい人がいれば評価してくれてもかまわないし、評価されようという積極的な努力は基本的にしません。

 

カッコいい生き方は、今でも、無論、多くの人が希求しているのでしょうが、どうも21世紀になって、カッコいいという概念が少し変わってきました。21世紀になり、他人の目に映る格好よさに重きが置かれているように思います。

 

論戦で間違いを認めるのは格好悪いとか、議論の中で過激な言葉を使っていると格好よく見られるとか、根拠はないけど、とりあえず断言しておけば格好いいだろうとか、そういう格好の良さを求める人が増え、また、そういう格好よさを演じることを周りも求めていることが多くなったように思えるのです。

 

安倍総理は、相手が誤解しやすいような話をし、時にウソと断言できる事項も含まれる話を平気でします。

私の感性としては、そういう嘘をつく自分がカッコいいとは思えないのですが、彼は嘘をつく自分はカッコいいと思っているのでしょうか?

何らかの目標のため、嘘をついてでも物事をやり通すというのなら、それも一種のハードボイルドですが、どうも彼はそういう自信があるようには見受けられません。

 

嘘をついてでも前に進もうとしている自分はカッコいいと思っているのではなく、嘘を認めて周りから攻め立てられ、カッコ悪くみられるのは嫌という心理で、嘘を認めることもできず、苦し紛れの答弁を繰り返す様は、20世紀のカッコ良さとは程遠いように思います。

 

大阪都構想が、大阪市民の利益にならないことを知りながら、自分たちの利益である議員数の増加という目標を隠して、大阪都構想を進めている人たちも、その様は、自分自身でカッコ良いと思えているのでしょうか?

 

有権者に格好をつけ、支援者に格好悪いところを見せられないという姿勢は無論保っているのでしょうが、彼らは、自分自身が政治家を志した時に理想としたカッコいい政治家に近づけていると思えておられるでしょうか?

 

私には、どうにもそうは思えないのです。

 

政治家だけではありませんね。政治系のブログ界隈でも、他者の意見を叩いて自分は格好良いという振りをしたがる人は多くいますが、ブログを始めた時の、こんな社会になってほしいという願いに近づけるために頑張って始めようと思った時の自分に対して、カッコつけることができるでしょうか?

 

保守系ブログと言いながら外国人移民の受け入れにつながるのが目に見えている法案改正を許し、どころか批判もまともにしていないブログも多くあるように見受けられますが、彼らは10年前の自分にカッコ良いと思ってもらえるのでしょうか?10年後の自分にカッコ良かったと思ってもらえるのでしょうか?

 

私は、彼らは10年後に、10年前の自分がカッコ悪かったと認めることはできないでしょうが、カッコ良かったと誇ることもできないだろうと思います。

 

願わくば、私や進撃の庶民に属する方々、その他の多くの真剣に日本をよくしたいと願っている人達が、10年後に、あの時の自分は、まぁまぁカッコ良かったなと思えていますように。切に願うばかりです。

今朝方、とある方から「たった3分の遅刻で5時間も放棄する野党はおかしい」との言葉をいただきました。

3分の遅刻に対して、5時間も審議時間を減らした野党はおかしい。サボりたかっただけではないか?

との指摘をする人も多くいらっしゃるようです。しかし、そういう方に「なぜ5時間も審議拒否したか、それは、自民党が野党側の要求する「審議時間の十分な確保」になかなか同意しなかったから」という事実を申し上げたく思います。

そして、この5時間の審議拒否の結果、審議時間の延長を野党側が勝ち取っているのです。

 

 

サボりたいなら、審議時間の延長なんて求めませんよね。

 

一応、この話をもう少し詳しくしたく思います。

 

皆様もご存知の方が多いと思いますが、国会日程を決定するのは議会運営委員会で、ここで審議日程を決めます。

基本的に与党側は審議日程を少なくしたいと考えますし、この数年は、与党側が安定多数であることもあり、野党側の質問時間を削る方向で運営されていました。

 

今回の予算審議も、2月25日に集中審議を行い、26日にも予算の委員会報告を受けて、予算案を可決するという流れになっていました。

予算審議に入ったのも例年より遅かったので、十分な審議時間が確保できないとの危惧を無視して、このスケジュールが決められていました。

 

 

国会審議における予算の成立は、衆院が議決して、参院に議案送付してから30日で成立しますが、通常、衆議院の議決日=送付日なので、年度内に予算を成立させるためには3月2日までに衆院で議決されたら良いことになります。ところが、与党側は、3月まで持ち越さずに2月中に衆院議決というスケジュールでいきたいと野党側に伝えていました。これは、与党側にとっては余裕を持って成立させることができ、また、衆議院の審議の中で与党側が野党側と交渉する材料としても使えるとの判断があったのでしょうが、野党としては不満を感じていたことでしょう。

 

さらに、予算の審議時間は本会議よりも予算委員会で決められる部分も多いのですが、衆議院予算委員会の委員会運営も委員長と理事会で決めるなかで、野党側の質問時間の割り当てが少ないと野党側は予算審議に対して度重なる不満を抱えていました。(衆議院予算委員会理事会の構成は与党7人、国民民主、立憲民主各1人で、参院予算委員会の比率与党6人、野党3人よりも分が悪いのです。)

 

この中で3分の遅刻という事態があれば、当然、3月1日までは予算審議日程を確保しろと野党が騒ぐのは当然でした。

揚げ足取りだと言われると、そのとおりですが、揚げ足をとられる方が悪いというのが与党でも認識されています。

 

こういうことがないように、地方の議会運営では、随分前から執行部は待機をするのが普通です。議会軽視と騒がれたなら、とても大変なことになることを知っていますから、1時間前に委員会室や議会の隣の控室で待機するのが普通です。無論、国政を担う大臣ですから、公務で議会の1時間前に行くことは難しいでしょうが、それでも、大臣、それも仕事内容が見えにくい五輪相が、議員を1分でも待たせたとなれば与党議員であっても怒りを感じるでしょう。

 

野党側がこの怒りに乗じて、審議時間の確保のために審議拒否という戦術をとり、自民党も、これを認めて28日の予算委員会の集中審議を認めて、事実上3月1日以降の予算決議とすることで野党に譲歩せざる得なくなったというのが、一連の動きの中立的な評価です。

 

 

無論、野党側のやり方が100点満点でもありませんし、スマートさにかけている部分はあるでしょう。自民党側が譲歩し、大人の対応をしたと評価するべきだという考え方もありえるでしょう。ただ、野党がサボりたいから審議拒否したとの批判は、あまりに稚拙であると申し上げざるを得ないでしょう。

進撃の庶民に寄稿したもので、本ブログに転載したものを、再掲します。

自分のアメーバブログで4年前に書いた貴方の記事として表示されたものでしたが、今日書いた記事としても見間違えそうなものでしたので、思わず再掲しました。私がブログを書かなくなったのも、5年前と問題点が何も変わっていないため、改めて書くことがなくなったというのも実は背景にありまして、そういう意味でも象徴的な稿とも言えます。

 

訴えて待っているだけで、問題を誰かが解決してくれると願うのは甘えだったのかなと、反省するところです。

 

 

先日からお伝えしておりますとおり進撃の庶民というサイトで記事をあげております。 この進撃の庶民では、ポルシェ万次郎さんによりマンガ「アイドル新党なでしこ!」(第1話はこちらです。)が隔週で掲載されることになっています。他にも多くのブロガーが稿をあげており非常に質の高いコンテンツが提供されております。 必見ですよ!

 

 本日の稿は、話題になっている大阪都構想について低俗な視点で書いたものです。 本来的には大上段から議論している方が楽しいですし、自分のためにもなるのですが、とりあえず伝えるべき情報を伝えておく必要性があるだろうと、取り上げました。 正直なところ、藤井氏のように大上段から2200億円とか取り上げても、真面目に議論する気がない人には打撃にならないと思うのです。これは、はっきり申し上げると、大阪都構想を支持する人は、真面目に政治を考えている人ではないためです。だからこそ、低俗ですが、大阪の方々に、君らの財布から、政治家をもっと養ってって言われているんだよと気づいてもらうことが大事だとおもったのです。 以下、本文です。 

 

大阪都構想についての議論が盛んになっております。藤井聡氏の指摘する7つの事実は、公表されている大阪都構想、地方自治法を考慮して、現実的に起き得る問題点として正確な指摘をしており、行政法を学ぶものにとっては、非常に有意な指摘だったと思います。 

 

例えば事実1で指摘した大阪都の名称については、地方自治法の中で都道府県の名称については法律で定められると規定されていますから、地方自治法を見たことがある人にとっては、「あぁ、地自法3条にあった、あの規定だね」と、一つ学ぶことができるでしょう。 

 

事実2の大阪都構想の肝になる話にしても、事実3から語られる自治体制度と自治体の繁栄に関連する話にしても、地方自治を学ぶものには良い教材になると思います。 ただ、実はいずれも本質の話ではありません。本当に指摘するべき問題は、大阪都構想で得をするのは誰でしょう?という、とても低俗な話です。 政治体制がどのようなものが良いのかという議論は、議論が好きな人には面白くて、真面目に政治を考える人には、その視点で大阪都構想も考えてしまうでしょう。ただ、絶対王政の政治体制で目覚ましい成果をあげることもあれば、民主主義の政治体制で世界中に惨禍を及ぼすこともあり、結局は時代と運営する人によって政治体制の評価も変動します。 無論、現在の日本でもっとも適しており、最も成果が期待できる政治システムというのは、存在し得ますし、それを議論することが無駄という訳ではないのですが、大阪都構想での議論で、この話をすると、運用でどうにでもなるという部分が前面に押し出されて、議論にならなくなるだろうと思うのです。 大阪都構想を推進する人々が、真摯に現在の日本でもっとも適しており、最も成果が期待できる政治システムを議論し、その結果として大阪都構想があったなら、いくらでも議論する余地があります。

 

しかし、私には、大阪都構想を推進しているのが、そのような議論の結果とは思えず、政治システムの良し悪しを考えるような議論にならないと判断しております。 大阪都構想の推進派は、大阪府と大阪都の二重行政を解消するためなどと説明しております。 確かに大阪都と大阪市の間の二重行政はなくなるでしょうが、代わりに大阪都と各区の間に発生する二重行政については口を噤んでいます。この時点で、私には大阪都構想が真面目に議論してできたものではないと思えるのです。 

 

大阪都構想において、もっとも重要な事実、それは、大阪市の現職政治家が、現在の87名から、200名程度に倍増するということです。

 

現在の大阪市は、大阪市議会の定数86人で、それに大阪市長の橋下氏を加えた87名が現職の公選された政治家となります。この方々は、大阪都構想後、皆失職するイメージですが、実のところはそう単純なものではありません。 どうなるかと言いますと、大阪市長はいなくなる代わりに5人の区長が区長選挙で選ばれるようになり、87名の大阪市議がいなくなるかわりに各区で区議選挙が行われ、各区で区議会を開くための区議が選ばれることになります。人口50万人弱規模の東京都の特別区では、区議の定数は40名強ですから、大阪都でも5区あわせて200名程度の区議が必要になるのです。 無論、政治体制として議員数が少ない方が必ずしも良い訳ではありません。

 

議員が多いほど地元の細やかな要望を届けることができる可能性は増えるでしょう。これは先にも言いましたように、政治システムに明快で確実な評価ができず、どちらが良いとか断言することはできないためです。

 

ただ、問題なのは、議員数を増やしてきめ細やかな政治を実現するという行政や政治のスリム化とは逆のベクトルに向いているにもかかわらず、逆の宣伝を行っていることです。 これは、例えば、おから(豆腐を作る時にできる雪花菜です)ハンバーグを出しているレストランが、霜降り和牛をふんだんにつかったハンバーグと錯覚させるような宣伝をしているレストランが信頼できるかという話です。 おからハンバーグはヘルシーですし、その上、調理の仕方ではとてもおいしいです。だから良いんだというのは逆切れであって、レストランの信頼性を回復させるものにはなりません。

 

同じように、行政や政治のスリム化を訴えている大阪維新の会が、仮に議員が多いほど地元の細やかな要望を届けることができるという主張を今更しても誰も信用しないでしょう。 

 

何よりも、大阪都知事に維新の会の候補者が当選し、その対抗馬となっていたような人が区長になった場合、それが府市一体に繋がるのでしょうか? 

 

以下のは邪推です。 

「大阪維新の会が大阪都構想に執着するのは、府市一体で何かをするためではなく、維新政治塾の888人の塾生への配慮ではないか?現職の大阪市議には頑張って区長を目指させ、現在、政治家を志している人には区議という新しい枠を与えることで頑張らせることができる。」 

「大阪都構想で、大阪市の現職政治家を増やすことができれば、維新政治塾の塾生への顔が立つし、大阪維新の会の党への忠誠心も高まるなどという絵を描いて、大阪都構想を着想し、仕事のパイを増やそうと維新の会のメンバーが大阪都構想の推進を煽っているのだ。」

 

 このようなことを、少なくとも維新の会の幹部の方が考えているわけではないと信じています。橋下氏にしても、大阪で日本全体の役に立つ政治家を育てるシステムができることは大阪都構想の慮外の利益にすぎず、結果的にできた政治家を育てるシステムは、大阪のためにも日本のためにもなるんだと考えられるのかもしれません。 

 

ただ、そうであるなら、一時的には確実に大阪市民が蒙るであろう不利益である『大阪市民が雇わなければならない現職政治家の倍増』という事実をしっかりと説明してほしいと思うのです。

 

本日、注目のニュースはこちらです。

内容はたいした内容ではありません。読む必要もないでしょう。

 

しかし、読売新聞政治部の記事という事実がとても大事です。

読売新聞政治部は、皆様ご存知のとおり、

安倍総理が読んでほしいと述べる読売新聞のなかでも、安倍総理や官邸と緊密な関係にあります。

 

この読売新聞政治部が、このニュースを配信すると、

安倍総理からの、任期があと少ししかないから、もう3年延長したいというメッセージとなるのです。

 

3月には毎年自民党の党大会があり、前回の任期延長も昨年の党大会で決まったわけですが、その時に一気に4期12年や期限なしにしたかったのでしょうが、同意が得られず3期9年にした経緯があります。早ければ今度の党大会でも任期延長ができたらという官邸の思惑が本記事で伝えられているわけです。

 

安倍総理が任期延長についての観測気球をあげはじめたという点で、このニュースは極めて重大なものです。