レノン & マッカートニー | Get Up And Go !

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1980年12月8日。 あの事件が起きたのは22時50分。
ヨーコの新曲のためのミックス・ダウンを終えて帰路につき、自宅であるダコタ・アパート到着直後に起きた惨劇でした。忘れることのできないあの日から、39年経ったわけです。






その8日の午後、レノン夫妻はアメリカRKOラジオのインタビューを収録しています。これが、ファンに残した最後のメッセージとなったわけです。 YouTube には音声も残されています。

とても長い記事ですが、ジョン最後の言葉として読んだ場合、非常に印象に残る言葉がいくつかあります。そのひとつは、その日が自分にとっての最後の日となることを予期していたかのように、自身の生涯を振り返って発したとも思える言葉です。


「生涯に渡っての仕事をしたアーティストがふたりだけいる。 ポール・マッカートニーとヨーコ・オノだ。 これは極めて良い選択だったと思う」
原文: there's only two artists I've ever worked with for more than one night stand, as it were; Paul McCartney and Yoko Ono. I think that's a Pretty damned good choice.

ビートルズ解散前から気持ちは離れはじめ、解散時には険悪な仲となったジョン・レノンとポール・マッカートニー。 解散後にも続くふたりの "喧嘩" は、マスコミを通しての相手への非難であったり、あるいは自身の作品の中に批判や皮肉を込めたりといったもの。これはジョンのほうが辛辣であったように思います。 ポールよりジョンのほうが相手をやり込めるのは得意ですからね。

ですが、この喧嘩。 周囲に話題を提供することを、互いに楽しんでいたように思えます。 今となっては兄弟喧嘩みたいなものだったようにも思えます。ジョンは当時のインタビューで「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」 なんてことを言ってますからね。 解散してしまっても、ジョンにとってポールは身内だったんだろうなと、思えるんですよね。



ジョンのジョークは時に辛辣。。。。


関係を修復しようと積極的に動いたのは、おそらくポールからだったのではないでしょうか。ポールがジョンとヨーコの暮らすダコタ・ハウスを何度か訪ねたことが、ジョンのインタビュー記事によって明らかになっています。ギターを持って突然にやってくることもあったそうです。76年のウイングス・全米ツアーのニューヨーク公演の際には、ジョンがポールのステージに飛び入り参加するのでは、なんて噂も流れましたからね。 実際この頃、二人の仲は修復されていたようです。

いや実は、それ以前から二人の仲はすでに修復されていたようです。 2010年の 『ジョン・レノン、ニューヨーク』 というドキュメンタリー映画の中で、メイ・パンが驚きの証言をしています。メイ・パンというのは、ジョンとヨーコが別居していた時代に、ジョンに同行し身の回りの世話をしていた女性です。愛人ということになるのでしょうか。

ニューヨークを離れロスに借りた邸宅に、ポール・マッカートニーが訪ねてきたことがあるそうです。1973年秋から74年5月まで、ジョンとメイ・パンの暮らすロスの家には多くの有名人が訪ねてきたそうですが、その中にポール & リンダ・マッカートニー夫妻もいたんですね。

メイ・パンが撮影した、プールサイドでくつろぐ2人の写真が残されています。 ビートルズ解散後の2人のツーショット写真としてはとても貴重なものです。 他に見た記憶がないのですが。 もしかしたら、ヨーコはいくつか所有しているのかも知れませんが。

メイ・パンは 「2人の仲は、当時伝えられていたような敵対関係は微塵もなくて、兄弟のように仲が良かった」 と証言しています。 そしてビートルズ解散後としては、おそらく初となるジャム・セッションも楽しんだと言うのもまた驚きです。





ポール・マッカートニー株は、ジョンの死後に底まで落ちることとなります。ジョンの死に関する取材陣への対応が批判の的となりました。とりわけ日本ではああいった逮捕劇も重なり、急落しました。多くのファンを裏切ることとなったわけですから、それは仕方のないことでしょう。それでも僕は、ポール・マッカートニーへの悪口は聞きたくありませんでしたが。

ウイングスは解散し、ビートルズ解散直後と同じようにリンダと2人きりになってしまいます。 死後、神格化されていく人間と比較されてしまうことには辛さも感じたかも知れません。 気持ちの整理がついたのか、1982年になって、ポールはジョンへの追悼曲を発表します。

ヒア・トゥデイ。 とても地味な曲です。 それもそのはず、この曲はポール自身が言うように、ジョンとの対話の曲なのです。 現在のポールのライヴではとても重要な位置にある曲です。 ステージの前方部分が6メートルの高さまで上昇し、そこからアコースティック・ギター1本の弾き語りによって、天に向かってジョンに語りかけるようにして歌われます。 混ざりもののない美しさを感じさせる曲です。

この曲を初めてライヴで聴いた2013年。 この曲だけ異質な雰囲気であるのがすぐにわかりました。 静まり返った大会場に響くギターの音とポールの語りかけ。 ポールが聴き手を意識していないわけではありませんが、この曲に関してはジョンと1対1の回線でつながっているように思えたのです。



昔のことをはっきりと憶えている
溢れる涙を抑えるのはやめたんだ
僕は君が好きだ

初めて出会ったときはどうだったっけ?
多分、君ならこう言うだろう
ふたりとも、がむしゃらにプレイしたよって
僕たちは何もわかっていなかったけど、
いつだって歌うことはできたんだ

一緒に泣いた夜もあったけれど・・・

君が僕の前に現れてくれてうれしかった
君はいつも僕の歌の中にいた
そして今も・・・






ジョンは僕にこう言ったことがある
「僕は自分が作った曲よりも君の作った曲のほうがすきなんだ」
これが僕にたいするジョンの最高の賛辞だった。



来年のツアーも決まったポール。
最後までジョンへの語りかけは続くはずです。