大友裕子  傷心 | Get Up And Go !

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前回の記事で 「和製ジャニス・ジョプリン」 なんて言葉を使ってしまったため、そのように呼ばれた女性シンガーたちを思い起こすこととなりました。

古くは麻生レミ、カルメン・マキ、金子マリ。 最近だと越智志帆、松尾レミ。 他にもいたと思うのですが・・・。 昔、大友裕子という強烈な声とコトバを持ったシンガー・ソングライターがいて、彼女もそのように言われていたことを思い出しました。 僕が10代の頃のことです。 忘れてはいけないシンガーを思い出したのです。



大友 裕子 (wikipedia より抜粋)
1959年 宮城県名取郡岩沼町出身。
1978年 東北学院大学1年の時に、ヤマハ・ポピュラーソングコンテストに出場。東北地区代表に選ばれ、つま恋本選会で自作の 「傷心」 で優秀曲賞を受賞。
さらに同年11月、世界歌謡祭の本選においても、「傷心」 で最優秀歌唱賞に選ばれる。同12月1日、「傷心」 でデビュー。
1979年 日本青年館でファースト・コンサート。
1982年 シングル 「ボヘミアン」 発表直後に結婚し歌手活動を引退。






心の叫び、裸の魂
彼女はヤマハのポプコン出身です。 当時、ヤマハは若者音楽にはかなりの影響力があって、それは主流であった歌謡曲の流れとは別の流れとして存在していました。 ヤマハが生み出す音楽は、当時全盛であったニューミュージックと言われていたジャンルの、重要な一部を成していたと思います。 テレビでもラジオでも、ヤマハ提供/制作の音楽番組を持っていましたからね。 彼女の歌は、その番組内で聞いたのが最初であったはずです。

ヤマハの中では異色の存在だったと思います。ヤマハの音楽って、カドを削ぎ落とし毒っ気を薄めてしまうようなところがあって、それを嫌っている人間もいました。でも大友裕子さんはむき出しの強い個性ゆえに、ヤマハから出たことがむしろ幸いした面があると思います。彼女の作る曲は情念の世界で、それは演歌にも通ずるものでしたが、ヤマハの制作スタッフの手によって、洗練を伴ったポップ・ソングの枠内に留まる音楽となったのではないかと。

僕が当時ただ1枚買った大友裕子のレコードは、「火の鳥」 という歌謡ロックとも呼べるタイプの曲でした。 声も詞も強烈な曲でした。 でも実は、演歌であろうと歌謡曲であろうと、そんなことはどうでもいいだろ! とねじ伏せてしまう魅力が彼女の歌にはあったんですよね。 彼女のことを 「日本のジャニス・ジョプリン」 と評価したひとたちは、歌のスタイルではなく、もっと本質的な部分を見てジャニスと並べたのだと思います。

情報が溢れ、その情報に支配された首から上だけで歌われる曲たちによって、私たちは飼いならされてしまっています。 もうそれに気づく機会さえないようにも思えます。 歌わなければいられなかった歌手が確かにいたこと。自分をさらけ出し全身全霊で歌うとはどういうことなのか。30数年ぶりに大友裕子の歌を聴いて、今再び揺さぶられています。