エリック・クラプトン - 12小節の人生 - | Get Up And Go !

Get Up And Go !

音楽を中心に、映画、文芸、スポーツ など・・・。

より高く! より深く! けれど優雅に・・・ 冗談も好きなんですけどね (*゚.゚)ゞ






エリック・クラプトン - 12小節の人生 - (原題: ERIC CLAPTON : LIFE IN 12 BARS) (2017 / イギリス)
● 監督: リリ・フィニーザナック 
〇 出演: エリック・クラプトン / B.B.キング / ジョージ・ハリスン / パティ・ボイド / ザ・ローリング・ストーンズ / ジミ・ヘンドリックス



エリック・クラプトンの半生を描いた音楽ドキュメンタリー 『エリック・クラプトン ~ 12小節の人生』が、日本でもようやく公開となりました。 初日に観てきました。

2時間15分に渡っての濃密な内容は、ファン以外にとってはきつく感じるかもしれません。 初日ということもあって、すぐに劇場に足を運んだに違いないコアなファンと思われる客たちは、さすがに年齢層としては高かったのですが、おそらく皆さんどっぷりと、スクリーンの中に入り込んでいたんじゃないですかね。 もちろん僕もそのひとりですが。






映画冒頭は、2015年にB.B.キングが亡くなった際に撮影したと思われるクラプトンのワンショット映像から。 そこでB.B.への哀悼の意を表し、この映画の主題 『12小節の人生』がスタート。 12小節とは、ブルースという音楽の基本単位のことです。 この基本単位を積み重ね、繰り返しながらクラプトンのブルース人生は展開していくわけです。

物語は、クラプトンの幼少期から語られています。実母から拒絶され祖父母によって育てられたという、孤独とともにあった少年時代。 買い与えられたギターにのめり込み、ブルースと出会い、そこで自分が何者であるかを知っていくわけですね。 「弾いている時だけは、痛みはどこかに消えていた」 は、その後のクラプトン物語にとっても常に重要なフレーズです。





クラプトンにとって大人へと成長していく過程で、ギターが、そして音楽がどれだけ大切なものであったのか。 クラプトンにとって音楽だけは譲れないものであり、ゆえにプロとして活動していく中でも高みだけを目指し、躊躇なくバンドを移っていく行動となるわけです。

それからもうひとつ女性遍歴。 クラプトンの女好きは有名なものです。 親友であるジョージ・ハリスンの妻・パティ・ボイドを好きになり、奪っていく過程も映画では描かれています。 血ヘドを吐くようにして奪い取った女性でさえ、自らの浮気によって手放してしまう。 映画の中では、パティ・ボイドのナレーションで語られる 「バカな男」 という言葉が強烈です。





そしてドラッグとアルコール。 これもかなり壮絶です。 女にだらしがなくドラッグと酒に溺れても、周囲からは憎しみよりも「助けてやらなければ」という救済の声のほうが常に大きかったひとです。

これは映画では語られていないエピソードですが、80年代末、スティーヴィー・レイ・ヴォーンが、コカインを溶かした酒を飲むなどと言う無茶苦茶な飲み方を繰り返して倒れ、更生施設に運び込まれた時、クラプトンは病室を満たすほどの花とともにスティーヴィーを見舞ったことがあるそうです。 アーティストとして同じプレッシャーを感じ、障害を克服したものとして。 自分中心でエゴの塊のように見えても、こういった優しさもあるところに、クラプトンが友人から好かれる理由があるように思います。

一番大切な音楽についてを忘れてはいけませんね。 僕がクラプトンのライヴに初めて行ったのは1987年11月の武道館です。 90年代に訪れる、新たな黄金時代への序章とも言える頃です。

以来、現在まで頻繁に来日しているクラプトンのライヴには、20回以上足を運んでいます。 自分がギターを弾いていることもありますが、クラプトンのギタープレイは大好きであるし、いつも 「凄いなぁ」 と思って憧れてきたひとです。






映画の中では、60年代にレスポールとマーシャルアンプの組み合わせで、ロック・ギターに革命を起こした人として語られている場面があります。「CLAPTON IS GOD」 何てことを言われ始めた時代です。 「芸は身を助ける」 ではありませんが、やはり才能が自らを救う事となった一番の要因だと思いますね。

現在のクラプトンは家庭人としての幸せも掴み、その姿は英国の老紳士といった感じでしょうか。 ギター・プレイには、かつてのような研ぎ澄まされたものはありませんが、それもまたクラプトンの音楽なのではないかと捉えています。








共演したステージ上から、ずっと敬愛してきたB.B.キングがクラプトンの名を呼び称賛する言葉によって、物語の最後が飾られています。