前回、障害者の苦悩は、障害者を取り巻く健常者(社会)との構造の違いから生まれているのではないかと仮定し、その一方である障害者の構造を考えてみました。

その結果、障害者は「普通を目指す教育」により、”劣等感”と”訓練された不寛容”という二つの二次障害を持つに至り、それが健常者(社会)とのコミュニケーションエラーの原因になっているのだと考えました。

今回は、もう一方である「健常者の構造」を通して、社会の姿を考えてみたいと思います。


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・障害者と健常者

そもそも障害者、健常者とは、それぞれどういう状態の人を指すのでしょうか。

厚生労働省のサイトによると

 

障害者基本法における「障害者」とは、「身体障害、知的障害又は精神障害があるため、継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者」と定義している。
また、障害者権利条約では、目的規定において、「長期的な身体的、精神的、知的又は感覚的な障害を有する者であって、様々な障壁との相互作用により他の者と平等に社会に完全かつ効果的に参加することを妨げられることのあるもの」とされている。
https://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/10/dl/s1031-10d.pdf


となると健常者とは、

継続的に日常生活または社会生活に制限を受けず、また、他の者と平等に社会に完全かつ効果的に参加することが妨げられないもの

であるといえます。


・社会に完全かつ効果的に参加するとは

「継続的に日常生活または社会生活に制限を受けるもの」は分かりますが、障害者権利条約における「社会に完全にかつ効果的に参加することを妨げられることのあるもの」とはどういうことでしょうか。

当たり前ですが、障害者は社会に生きています。

しかしそれにもかかわらず、完全かつ効果的に参加出来ていないと考えているわけですから、この条約が言う所の”完全かつ効果的に”という部分において、障害者は条件を満たしていないということになります。


・完全かつ効果的にとは

現実に社会に生きているにも関わらず、不完全で効果的でない社会参加とは、一体どういう状態なのでしょうか。

それは、”勤労”や”納税”のことを言っているのだと思うのです。

つまり、「完全かつ効果的に社会に参加することが妨げられる」とは、勤労といっても勤労の体をなしてないし、納税といっても収めるより使うほうが多く、現実問題納税の効果が出ていない、ということを言っているのではないでしょうか。


・健常者の構造

障害者とはその障害により、まともに働けてないし、ろくに納税もできない人。
これが障害者の定義ということのようです。

ということは、健常者とは自立して勤労し、使うより収める税金が多い人、ということになります。

つまり、憲法が定めるところの国民の三大義務である”教育・勤労・納税”のうち、”勤労”と”納税”の義務を負いその責任を十分に果たせている人、それが健常者だと言えます。(教育の義務は”保護する子女に教育を受けさせる義務”)

憲法27条 1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
憲法30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。



・義務と責任

勤労と納税の義務を負い、その責任を果たす能力の有無。

これが障害者と健常者を分ける壁のようです。

立派に働いて、立派に納税してこそ普通の国民だ。

しかしそれが私たちに「普通」を迫り、その結果、”劣等感”と”訓練された不寛容”という二つの二次障害を身に付けさせ、困難な生活をさらに困難にさせた原因なのだと感じます。

では、「生命と尊厳の維持に他者の同意と協力が必要」という状況に置かれた私たち障害者の義務と責任とは何でしょうか。


・障害者の義務と責任

それは、「与えられた命を生き切ること」だと思うのです。

私たちを含め生命が生まれてくる意味は分かりません。
ただ、体の仕組みがそのようになっていて、自然とその営みを繰り返してきた結果、不可抗力によりその能力で、不可抗力により今の社会に生まれてきたのです。

そう考えると、憲法が定義する勤労と納税の義務は、人間が作り上げたこの社会のために便宜上設定された二次的な義務と責任であって、障害者も健常者も、子供も老人も、生命体である私たちの本来的な義務と責任は、「不可抗力によって与えられたこの命を生き切ること」であり、社会や国家はその実現のためのただの道具なのだと思うのです。


・「勤労と納税の義務」が生み出したもの

にもかかわらず、現代の社会ではその道具であるはずの社会や国家の役に立つ人間になることが第一で、それができない人は国民の義務と責任をはたしていない「不完全で効果的でない存在だ」とされており、目的と手段が逆になっているのではないでしょうか。

だからこそ「そんな社会の役に立たない人は、社会の役に立っている人から差別されて当然だ」となるのだと思うのです。

しかし、このような「良き人」ではなく、「良き国家の一員」になることを第一にした価値観による不寛容さこそが、経済大国といわれる日本の高い自殺率に繋がっているのではないでしょうか。

大人の自殺だけでも大問題なのに、大人である私達が守らなければまともに生きていけない子供の自殺率までもが主要先進国で一番という現実。

果たしてこれが先人たちや私たちが、汗水たらして寝る間を惜しんで作りたかった国の姿なのでしょうか。


・障害者の幸福論が目指すこと

障害者の幸福論の出発点。
それは「障害者は子供に似ているよね」という気付きでした。

障害者も子供も「生命と尊厳の維持に他者の同意と協力が必要」という共通点。

「まてよ、だとしたら、障害者が幸福になれる幸福論があれば、それは子供も含めてすべての人を包含する究極の幸福論になるんじゃないか。」

ここからスタートしました。

つまり、障害者の幸福論を考えるということは、障害者はもちろん、子供や様々な困難を抱えた人すべてが幸せに生きられる社会の形を考えていくことなのです。

そしてそんな社会を実現させることこそ、私たち現代を生きる大人が次世代のために何を差し置いても真っ先にやるべき事だと思うのです。