前回、障害者は限定された状態から脱するために、他人に対して利己的な態度を維持する必要があり、限定が多ければ多いほどその頻度が増すため、苦悩にさらされる機会も増えるのではないかと考えました。

その苦悩とは、コミュニケーションの度に浮き彫りになる”障害者と健常者の構造の違い”です。

今回はその両者の構造のうち、「障害者の構造」について考えてみたいと思います。


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障害者の構造、それは「生命と尊厳の維持に他者の同意と協力が必要なこと」だと考えました。その基本構造を持つ私たちは、どのように成長してきたのでしょうか。


・普通教育

私のような先天的な障害を持つ人は、物心つく前から「自立」という錦の御旗の元「普通」を目指す訓練がされます。

普通に近づくことこそが幸福の第一歩だと、苦手な分野を重点的にひたすら普通を目指します。

私の場合は「歩く」ことと「勉強」でした。

善意によりされているそれらの普通を目指す教育(以下普通教育)は、受ける本人にとっては同時に「普通じゃない自分、努力しても普通になれない自分を確認し続ける作業」という側面を持っています。

その結果、自分の普通じゃないところ、劣っているところに注目しこだわり続けるという価値観が知らず知らずのうちに刷り込まれ、それによって強い劣等感が備わりました。

その状態の私が、自分の生命と尊厳を維持するために利己的な態度で接する相手は、ずっと目指し達成できなかった「普通」の人たちなのです。

そうなると、普通の人と接するたびに
「こんなことを言ったら普通じゃないと思われるんじゃないか」
「こんなことをやったら普通じゃないと思われるんじゃないか。」
そんな不安が常に付きまとうようになりました。

そんな不安を抱えたままの状態で、内心ビクビクしながら普通の人に利己的な態度で指示を出す。これは非常にストレスの掛かる行為となります。

そのストレスを緩和するため、「この人たち(普通の人達)は、私の生命と尊厳を維持して当然の人たちなんだ」と自分に言い聞かせるのです。

そういう思考操作はやがて、
「じゃあ、私の生命と尊厳を維持して当然のこの人たちは、私の生命と尊厳を自分で維持できないことに起因する”孤独感や不安感”も、何とかしてくれて当然なんじゃないか。それも当然この人たちの仕事に含まれているだろう」
と、自分の自信のなさを払拭するように、だんだんと思考操作がエスカレートしていく。

その一方的な思いは、時に相手に孤独感や不安感を癒す「親友」や「恋人」になって欲しいという勝手な期待や願望へと変化し、そこまで行かなくとも、少なくとも、孤独感や不安感からくる「愚痴や不平不満」ぐらいは聞いてくれて当たり前だと思ってしまう。

しかし自分は勿論、誰であろうと他人の愚痴や不平不満は聞きたくないし、そういう人とは「親友」や「恋人」にはなりたくないのです。

しかし相手が「普通」の人で、さらに「介助者」であれば、自分でさえ嫌なそういう行為を当然のように相手に求めてしまう。

そういう一方的なコミュニケーションへの期待が、相手にとって”カスハラ(カスタマーハラスメント)”や”セクハラ”をする「困った障害者」と捉えられ、ただでさえ困難なコミュニケーションをさらに困難にするのです。


・障害者の構造の内面と外面

そんな状況になるとどうなるでしょうか。


それはさらなる疎外感、孤独感を生み、「すべてこの障害のせいだ」という遠い昔に散々刷り込まれた劣等感を思い起こさせ、どんなに努力をしても普通になれなかった自分を自己否定するのです。

つまり、日常生活で生命と尊厳を維持しようと構造の違う普通の人とコミュニケーションをとる度に、自分の気づかぬうちに「劣等感」「孤独感」「自己否定」を再確認し続けるということになります。これが障害者の構造の内面です。




 

その結果「劣等感」「孤独感」「自己否定」のループを抱えた私は、安々と「普通」を達成している周りの人に対しての期待や、無意識に持った妬みや嫉妬心も重なり、その人たちに対して不寛容になる。

それは長年繰り返された「劣っているところに注目し続ける」という普通教育によって刷り込まれた、言わば ”訓練された不寛容” なのです。これが障害者の構造の外面です。

 


 

この”訓練された不寛容”がもたらすもの、それは「私は他者に対して不寛容だが、他者からは寛容されて当然の特別な存在だ」という歪んだ価値観。

 

しかしその結果、自分の思惑とは正反対に、単純に「嫌な奴」としてどんどん人が離れていくのです。

それは相手である「普通の人」は、私がどのような過程を経てそのような自滅的行動をとることになったのか、その原因である障害者の構造に理解がなく、ただ単に、目の前の人が良い人か嫌な人かを、皮肉にも私たちが散々訴えてきたように、「平等に」見ているからです。

つまり、常に利己的な態度をとりながら、継続的に他人と良好な関係を保ち続けなければならないという、ただでさえ難しい構造なのに、幼少期からの普通教育により植え付けられた”劣等感”と”訓練された不寛容”という2つの二次障害により、その実現がほぼ不可能になっている。これが障害者の構造が私たちに困難をもたらしている仕組みなのです。


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障害者の幸福論の今後の予定ですが、今やっている「まとめ」の後は、「実践編」として実際に自分がどう行動すれば、社会がどうなれば、すべての障害者が幸福感を得ることができるようになるのかを考えていく予定です。