食事とトイレ、それと一日30分の自室でのちょっとした運動以外は、メタバースで過ごすのがツグミにとっての日常となっていた。
学校では1時間がひどく長く感じたが、メタバースでは一日があっという間に過ぎる気がしていた。
ここに来れば、新しい出会いがあり、分かり合える人がいて、臆病風に吹かれることなく色々とチャレンジができる。
それまでの「ダラダラとインターネットを見て時間をつぶす」という感覚ではなく、多くのことを確かに体験し学んでいるという実感があり、引き篭もりの現実世界では味わえない充実感があった。
もともとツグミは子供の頃、体操クラブに入れられていたことがあった。
両親は内気で引っ込み思案だったツグミを、すこしでも前向きにとおもってとの事だったが、うまく行かなかった。
今になってみれば、何かと張り合ってくる気の強い子が多かったのと、厳しいコーチに怯えてしまったのが原因だと思っている。
もっとも競技としての体操は嫌いだが、体を動かすこと自体は好きだったので、今でも部屋で出来ることを自己流でやっている。
まずは座りっぱなしで固まった体を、軽いストレッチでほぐしていく。
あらかた体が温まったら本番。
最初は逆立ち。
逆立ちをすると体中の血が一気に上半身に集まり、内臓が元の位置に戻る気がした。
それを1分3セット 腕が疲れたら頭をつけて1分間耐える。
それが済んだら、Y字バランスを左右1分3セット。
インターバルの時間はツグミの気分と体調によって変わるので、だいたいこの2種目で3、40分といったところだ。
最初は何とか外に出て運動しようかと思ったが、外にでると眩暈がしたり、突如として気分が悪くなることがあるので、今は外に出るのは諦め、部屋で試行錯誤してたどり着いたのがこの運動だった。
このように現時点ではメタバースの住人と運動不足は切っても切れない問題だ。
その解決策として期待されている「リンクシステム」も研究が進んでいたが、骨への負荷が上手くかからないということから開発は難航していた。
骨密度を保つためには、骨にも負荷をかける必要があるのだ。
それでも金銭的に恵まれている参加者は、全方向に動けるルームランナーのような大掛かりな装置を自室におき、実際に体を動かせるように工夫していた。
考えてみれば、人はまだ人となる遥か昔から、その体を動かすことで移動してきた。
それが急に体を動かさなくても良いとなったら、不調になるのは目に見えている。
それは水族館のイルカやクジラが、本来の寿命よりはるかに早く死んでしまうのに似ている。
それでもなぜ政府は、国民に体を使った生活を放棄させようとしているのか。
それに答えられるものはまだだれもいなかった。
* * *
ツグミがメタバース空間を歩いていると、久しぶりにメグミをみつけた。
「メグミちゃん!ひさしぶり!元気だった?」
「あ、ツグミちゃん、ひさしぶり~、結局あの集会場使えなくなっちゃってゴメンね。新しい場所を探しているんだけど、なかなか見つからなくって・・・」
みんなの集まる場所がなくなったことをツグミに詫びたが、本当は自分が男性であるということを、ツグミに言おうかどうかずっと迷っていたのだ。
「私は本当はツグミちゃんの思っているような女の子じゃない、実は男性なの。
でもこれまでと同じように仲良くしてくれるかな。」
そんな言葉を頭でなんども繰り返していたが、結局は言えなかった。
自分の気持ちを打ち明ければ自分はスッキリするかもしれないが、相手はどうか。
そんなことを考えていると、どうしても言うことができなかったのだ。
でもメタバースでは性別と年齢は偽っていても、心は一点の曇りもなく正直に生きている。
一方、現実世界では、性別と年齢は正しくても、それ以外はすべて偽って生きている気がしていた。
どちらが私にとって幸せなんだろうか。
そう考えると、これからも カキザキリョウタ ではなくメグミとして心のままに生きていけばいい。
メタバースではそれができる。
バレたらバレただ。
「そうだツグミちゃん、ひさしぶりだからカフェでお茶しようよ。」
「いいね!」
二人はカフェに向かった。
* * *
カフェでは色々な人でごった返していた。
このカフェの音声はオープンで、近くにいる人の声が聞こえる仕組みになっている。より現実世界に近い仕組みというわけだ。
二人が注文を何にしようかと考えているとき、後ろの席から大きな声が聞こえた。
振り返るとスーツを着た男性二人組が話している。
どうやらなにか仕事の話をしているように聞こえた。
「どうしてお前はできないんだ?気持ちがたるんでるんだろ。ワンフォアオールオールフォアワン、1人は皆の為に皆は1人の為に。お前みたいなのがいたらチームのみんなに迷惑なんだよ。わかってるのか?」
誰かに一方的に言い立てている声が聞こえてくる。
「ツグミちゃん出ようか。」
メグミはツグミに促してカフェを出た。
「私、ああいうのダメなんだよね。
昔部活のコーチがあんな感じだったんだ。
私はみんなで楽しくスポーツをしたかっただけなのに、やれお前はどん臭いだの、やれ勝てだの、やれ悔しくないのかだの、ってずっと怒鳴りまくってさ。
ある日、先輩がそのコーチに殴られてるのを見て部活を辞めたんだ。」
「それは怖いね。」
「学生のスポーツだよ?それに勝つ為に暴力で相手を服従させて、それで何を得ようとしてるんだろうって思わない?
スポーツ科学でチームワークを学ぶとか、正しい体の動かし方を学ぶとか、教育者としてもっと建設的な選択肢はいくらでもあるのに、恐怖で人をコントロールするって、もうそれはコーチと選手じゃなくて独裁者と奴隷だよね。
で、そうされた選手たちはそこから何を学ぶかっていうと、目的のためには相手に恐怖心を与えてもいいってことだよ。
だから教室に戻って自分より運動や勉強が苦手な人や、人付き合いの苦手な人を馬鹿にしてイジメる。弱いものがさらに弱いものをたたく。
でもそうなって当然だよね。だって、部活でさんざん能力の低い人は暴力を振るわれてもしょうがないって教育してるんだもん。」
「私も苦手だな。父親もそんな人だからさ。
もうこっちの言い分なんかお構いなしで、無理やり自分の言うことを聞かせようとするんだ。
ああいう人ってどうしてああなんだろうね。」
「私が思うに、人は平等じゃないって考えてるんだよ」
「人は平等じゃない?」
「コーチは選手に自分の言うことを聞かせるために、選手を殴る権利があると思ってる。
それって私生活でしたら一発で逮捕だよ。でもコーチと選手という関係ではそれが許されると勘違いしちゃってる。親子関係もそう。
だからそういう人は、自分より立場が上だと考えてる人に、恐怖心から必要以上に媚びたりする。猿の群れのようにね。」
「そう考えると、私達ってまだ猿レベルなのかしら(笑)」
「そう言えるかもね(笑)。
でもそんな猿のような暴力や威圧を伴った上下関係では、相手の本来持ってる人としての優れているところ、たとえば優しさだとか寛容さをひっこめてしまって、本来的な人としての魅力がなくなっちゃう。
そうなると、その群れ全体が殺伐として、どんどんと弱体化していく。
最近ニュースでも良く見るよね、企業の不正隠蔽や家族間の事件。
上司や親の不寛容さに怯えて不正して隠匿して、結局それが世間にばれて、その上司や親が世間の不寛容さでひどい目に合うって事。
不寛容の連鎖。
それって明らかに馬鹿らしいよね。
本来、社会も経済も、皆が幸せに生きるためのただのシステムに過ぎないのに、そのシステムの為に不正をしたり、いがみ合うってさ。
でもそのシステムを考えてきた様々な分野の学者達は「システム維持のために能力の低い人には暴力をふるってもよい」って考えて作ったのかな。
そんなわけないよね。
そもそも、能力の低い人も、誰かに迷惑を掛けようと思って、誰かを困らせようと思って出来ないんじゃない。
そういう悪意のない行為に不寛容で対処するのは、良い社会システムと言えるのかと思うの。
もし能力の低い人が問題になっている場所があるなら、それはその能力の低い人が問題なんじゃなくて、その当然いる能力の低い人を考慮してないシステムが問題なんだよ。
だから私は、人類は社会や経済のシステム本来の趣旨に帰って、今の効率優先、経済優先、そのために人は犠牲にしてもよいっていう価値観を捨て、人の幸せを最優先にしたシステムを構築するべきだと思っているの。
それが能力の低い人や子供達が、乱暴なコーチや、横暴な親に苦しめられず幸せになる為に必要だと思ってるんだ。
そしてその結果、未来の歴史の教科書に
「21世紀の日本で、それまで人類が数百万年続けてきた、常に犠牲を伴う原始的な社会構造を一変させるグレート・リセットが起きた。
そこから初めて現代のような、すべての人が幸福な社会を手に入れることができた。」
と載るようになってほしい。そう思ってるの。」
メグミは少し興奮しながらそう言った。
「メグミちゃんってすごいね・・。私、同年代なのにそんなこと考えたこともなかったよ・・・。」
「いやいや、これは本の受け売りなのよ。あははは・・
(危ない危ない、ついついアラサー男子でしゃべってしまった・・・)」
ツグミはメグミが表しているある種の嫌悪感に少し驚いたが、多くのところで共感していた。
それは自分もまた、出来ないことを延々と求められ続け、結局疲れて引きこもりになり、生きる意味を見失っていたからだ。
* * *
「そうだ、ツグミちゃん久しぶりに魚釣り行かない?」
メグミは話題を変えようとしているようだった。
実はツグミは最近、魚を釣りすぎて若干飽きてきた。
アップデートのたびに現実に近づいてるのか、いつもの河口付近で釣れるのは、場所なりの小物ばかりだ。たまにはまたマグロも釣ってみたい。
現実には河口で巨大マグロなど釣れるはずもないのだが、一度釣れてしまったという経験があるものだから、あの感動をもう一度味わってみたかった。
「じゃあちょっといつもとは違う釣り場にいかない?」
その場所は森を抜けた先にある、沖に突き出た堤防だった。
以前から機会があれば行ってみたいと思っていたポイントだ。
森の中を歩くと、沢山のセミの鳴き声が反響して聞こえた。
今が一番のピークなのかもしれない。
「そろそろ夏もおわりだねぇ」
メグミはつぶやいたが、セミの声にかき消されてツグミには届かなかった。