こんにちは、カネシゲです。


前回は、要介護者という身体的依存構造が自分の自信のなさに繋がっており、その自信のなさを他人から承認を得ることで、埋め合わせしようとしているのではないかと考えました。

そしてそれがいつの間にか「自分の価値は他人次第」となってしまい、様々な弊害を生み出していると分析しました。

しかし、たとえ自分がどんな状態でも間違いなく存在価値はあり、いちいち他人に認めてもらう必要はないんだと結論しました。


今回は、他人の承認から自立した私が、自分が考える理想の社会の実現のために、何ができるかを考えていこうと思います。



理想の社会の為に


私の理想とする社会は、他者愛にあふれた社会です。

その夢の実現のために、私に何が出来るでしょうか。

自慢じゃありませんが、私は文字通りの無いない尽くしなので、少し前まで自分に何が出来るか皆目見当も付きませんでした。

しかしこのブログ作りで仲間と話し合いを続けるうちに、それは今やっているように「模索し続ける」ということじゃないかと感じました。


今までは何かうまくいかないとその度に「自分がダメなんだ」と思い、ダメな自分がやること、考えることに自信が持てず、いつも途中で投げ出し、その度に責められ落ち込んでいました。

しかし今の会社に移り、私の過去を仲間と一緒に振り返っていくうちに、ダメなのは「自分そのもの」じゃなく、自分の「考え方」だったんじゃないかと感じるようになりました。

言い訳をするわけじゃないですが、振り返ると幼少期からの

身体的な依存
社会からの無用感
絶え間なき健常者との比較

それらが相まって、健常者よりも自己否定しやすい環境であったと思います。

「この障害さえなければすべてがうまくいったのに」という良い言い訳が常にあり、それが開き直り逃げ出す免罪符となっていた。

しかし現実を見ると、健常者だって上手くいっていない人は沢山いるし、逆に障害を抱えながらも上手くいっている人は沢山いる。

能力が高くても不幸になる人は沢山いるし、能力が低くても幸せに生きている人は沢山いる。

だとすると「障害」や「能力」は幸せの絶対条件ではない
では何が大切なのか。

それはやっぱり「考え方」だと思うのです。

そう考えると、理想の社会の実現のために私ができることは、それら障害者特有の躓きやすいポイントをこの「障害者の幸福論」を通して、これから生まれてくる障害児たちに残していくことじゃないかと思いました。

そして私の経験による「障害者の幸福論」を、それを受けたほかの障害を持つ人たちが自分の経験を付け加え、またはゼロから作り直して、自分なりの「障害者の幸福論」として、どんどん発信し後輩たちに伝えてもらいたい。

そしていつの日か、障害者が「健常者を夢見る不幸な人」ではなく、障害者のままの幸福を考えることが普通になり、みんなで自他共栄の世界を目指す。

それが私の他者愛になっていくと思うのです。