こんにちはカネシゲです。

前回、他者愛にあふれた理想の社会を作るには、まずは自分の自己愛との決別が必要ではないか、というお話をさせていただきました。

今回はそれを受けて、何故私が強い自己愛を持ち、それを手放せなかったのか、ということについて考えてみたいと思います。



障害者と自己愛


私のように先天性の障害を持つ人は、幼いころからどうすれば自分の障害を軽減できるか、またはなくせるかという、自分を中心とした養育をされていきます。

私の場合は、少しでも歩けるようにと、みんなが私の希望に向かって協力してくれる。そして、少しでも歩く真似事が出来たらみんなが「すごいねー!」と無条件で褒めてくれる。

そんな生活をずっと続けてきました。

そのため私にとって他人は、「私の夢に協力してくれるのが当たり前で、私はその受け手として自分の夢の実現だけを考えればいい。」というような自己愛を自然と植え付けられていたのではないかと感じます。

そのためか、同じような養育をされた障害者同士だとなんとなく自己愛のぶつかり合いになるようで、障害者同士の集まりはあまり得意ではありません。

また一人での外出も苦手です。

それは私の自己愛など知ったこっちゃない人だらけの外の世界、なんなら私に障害者としての自己責任を求めてくる外の世界は、私にとっては敵しかいない荒野に丸腰で出かけるようなものなのです。

なので、自分のことだけを考えてくれるヘルパーさんと家にいたほうが、自分の自己愛だけを考えればよいという長年慣れ親しんだ価値観のまま、安心して過ごすことが出来るのです。



障害者の自己愛の構造


障害者の自己愛はその養育環境により作られたのではないかと考えましたが、大人になり社会に出て他人と衝突し、「大人になったら自己愛は通用しないんだ」という体験を何度しても、なかなか捨てられないのは何故でしょうか。

それは、そもそも自分の自己愛に気づいていない、ということもあると思いますが、障害者にとって自己愛は「自己肯定」の側面があるからではないかと感じます。


健常者は成長すると出来ることが増え、物理的な自立が進むとともに精神的自立も進み、「お手伝い」などで他者愛を習得して行くんだと思います。

一方、特に身体障害者は、物理的な自立がなかなか進まず、いつまでも依存構造が残ります。

その結果、いつまでも幼少期からの夢を引きずったままで精神的な自立が進まず、健常者のように「今度は自分が他人や社会のために何かをやる番だ」という他者愛への意識の切り替えがされにくい。

そしてそれは同時に「いつまでも手間のかかる自分」、という劣等感を生み出しており、常に漠然とした自己否定を抱えながら生きていくことになる。

そんな孤独感の中、みんなが寄ってたかって私の世話を焼いてくれたあの頃に戻りたい、ちょっと真似事をしただけで皆が褒めてくれたあの頃に戻りたい。

それは、辛い大人社会の現実からの逃避、過去の「無条件の他者愛」への渇望。

そんな思いが私がいつまでも自己愛を捨てられなかった原因だと感じます。



自己愛の弊害


しかし、そんな自己愛だけを求めていては弊害があります。

それは、いつまでたっても「自信」が持てないということです。

たとえ「普通」の真似事を無理やりやっても、それは障害児の練習だから褒められたのであって、本番である大人の社会では誰も真似事では褒めてくれず自信にならないのです。

そしてその自信のなさをなんとか埋めようと、「他者愛でカモフラージュした自己愛」を手を変え品を変え身近な人に示して、あの懐かしい他者愛を何とかしてまた得ようとする。

しかしその正体はさらなる自己愛の追及であり、相手にもそれがわかってしまうのか、子供のころのような他者愛を得られずイライラしてしまう。

「おかしいなぁ、昔はこれでみんなが他者愛をくれたのに・・・」と。

そしてその不満を大人になった私が態度に出すと、当然のように相手の気持ちは離れ、その不安からさらに自己愛をぶつけ、さらに孤独になっていく。

このように障害者と自己愛は、その終わらない要介護者という受け身の立場から、それを持たずに成長することが不可能と思われるほど親和性が高く、油断すると自分さえも欺くカモフラージュをして、手を変え品を変え自分を孤独へと導いていくのです。



自己愛の克服


自分を孤独に追いやる自己愛。


これは人の手助けが必要な障害者にとって致命的といえます。

ではそんな悪しき自己愛を克服するには、どうすればよいでしょうか。

それにはまず事実を認識することが必要だと思うのです。

「大人になった私はもう他人に夢を叶えてもらう存在ではないんだ」

言い換えると、

「今度は大人になった私が誰かを応援する立場なんだ」

ということです。


「そうはいっても、結局大人になっても大したことが出来るようになってなくて、自分の存在価値を見いだせてないのに、そんなに簡単にいかないよ!」

と思われるでしょうか。

私もそう思います。

 

とにかく自分の存在に自信がないし、自分が生み出すものに価値があると思えない。

しかし冷静に考えてみると「存在価値」とは何でしょうか。
誰に存在する価値があって、誰にないのでしょうか。

例えば私は大したものを生み出せませんが、虫一匹殺しません。
一方、一国の大統領でもその一言で無実の人々を大勢殺すこともある。

この場合、どちらに存在する価値があるといえるでしょうか。

無実の人を大勢殺している大統領でも自分の存在価値を見出しているのに、虫一匹殺さない私が自分の存在価値を思い悩む必要があるでしょうか。

それと同じように、たとえ大した事が出来なくても、手足が自由に動いて戦争を起こすより、手足が満足に動かない私がただ家で他人の幸せを祈るだけの方がよほどマシだと思うのです。


そのように考えると、自分の存在価値に自信を無くし、それを埋めるためにいちいち他者の承認を得る必要はまったく無い事が分かります。

× 自信がない→他人に認めてもらいたい→自己愛の追求

〇 自分は自分→他人に認めてもらう必要がない→自己愛も不要


つまり、

どんな状態であろうと自分の存在価値はある。
それは誰の承認も必要ない。

この考えが自分を孤独に追いやる悪しき自己愛を克服するカギだと思うのです。