こんにちはカネシゲです。


私の理想とする社会は、映画「三丁目の夕日」の様な、近隣住民が気軽に声を掛け合い、助け合う、寛容で暖かい社会です。 

しかしそれは決して絵空事として言っているのでは無く、現代のような他者に無関心で「自己責任」が尊ばれる社会は、何かと人の手助けが必要な障害者にとって、震災や火災など有事の際に、即「死」を意味する恐ろしい社会なのです。

その点「三丁目の夕日」の様な暖かい社会は、手助けが必要な者にとって、生きていく上での現実的なセーフティーネットと言えるのです。



「自己責任」は本当か


障害者にとって厳しい社会である「自己責任」が尊ばれる社会は、健常者社会の「他人に迷惑をかけてはいけない」という教育が元だと思うのです。

しかしちょっと考えてみると、障害者はもちろんですが、健常者だって直接間接に様々な人の手助けを受けながら生きており、誰でも全く人の手を煩わせずに生きていくことは不可能です。

たとえ「自分は誰の力も借りず自己責任で生きている」と考えていても、その傲慢さはいざ自分が思わぬ挫折をしたときや、自分や家族が人の手助けを受ける必要が出たときに簡単に打ち砕かれ、鬱や自殺願望を抱く原因になると思うのです。

さらに、そのような弱肉強食的なイメージを持つ「自己責任」は、子供に対しても「いじめられるほうも悪いんだ」など間違った価値観を教育している可能性があり、日本の子供の自殺率を高めている要因になっていると感じます。

このように、「自己責任」という言葉は、持てるものには傲慢さを、持たざる者には無力感を、子供には間違えたメッセージを送る、百害あって一利なしの言葉ではないでしょうか。

その点、私の理想とする寛容で暖かい社会は、すべての人にとって心地の良い、目指す価値のある社会だと思うのです。



理想の社会の実現


ではどうすれば皆に寛容で暖かい社会が作れるでしょうか。

そもそも自己責任という弱肉強食的社会は、「自己愛」を優先させた社会だといえないでしょうか。

勝った私は自分のお陰、負けたあなたは自己責任。

そんな他者のことなんかお構いなしで、とにかく自分の利益だけを追求している状態、それが自己責任社会を作っている「自己愛」の正体だと感じます。


対して、私の理想とする寛容で暖かい社会は「他者愛」を優先させた社会だと言えます。

多くを得た私は運が良かった、得られなかったあなたは運が悪かった。
運が良かった私は運が悪かったあなたを助け共に生きていこう。

そんな勝ち負けや上下のない関係で、あるのは仲間意識と役割の違いだけ。

そんなフラットな価値観である「他者愛」こそが、争いのない寛容で暖かい社会の土壌となるのではないでしょうか。



私に出来ること


その点から言うと、2-47話でお話しした「誰の為にもならなくてよいから普通のことをしたい」という私の普通願望は、私の強い「自己愛」の現れだと言えます。

そう考えると、私は「他者愛」にあふれた寛容で暖かい社会を作りたいと言っておきながら、自分では真逆の「自己愛」の実現ばかりを望み、私が願う「三丁目の夕日」の社会の実現とは真逆の行為をとり続けていた。

これでは、私を中心に小さな自己責任社会が形成され、自己愛の対価である自己責任を求められた私がそれに応えられず、辛く厳しい環境になって当然だったのです。

その反省から、これからは自分の理想の社会を実現させるために、幼いころから繰り返されてきた「普通」教育により刷り込まれた普通願望という「自己愛」を捨て、障害を持つ等身大の自分を受容し、そんな私が他者のために何ができるかを模索し、自ら「他者愛」を体現していく。

それは一人で特撮ヒーローを眺めながら夢の世界に逃避するのではなく、現実の社会で自ら誰かのヒーローになるということ。

これが私が望む理想とする暖かい社会実現のために、自分が出来ることだと思うのです。


次回は、自分が他者愛を持つにはどうすればよいか、そしてその他者愛により私ができることは何なのかを考えてみたいと思います。