こんにちは、カネシゲです。

 

今回は幸福を考えるうえで足枷となる「わだかまり」について考えてみたいと思います。

 

わだかまり:心の中につっかえたようになって、たまっている感情



部外者


先日、両親や兄の家族と一緒に旅行をしました。

父も孫との旅行をとても楽しんでいましたが、その一方で私は、一人でテレビ越しにその風景を見ているような気分になりました。

決して険悪な雰囲気ではない、会話が無いわけではないのですが、家族の一員としてその場で交わっているという実感が湧かないのです。

そんな話をいつものブログ会議でしていたらメンバーから、

「家族に対してまだわだかまりがあるんじゃないの?」

と言われたのです。

 

古くて新しい記憶


今までも家族に対しての思いを色々と書いてきましたが、私としたらそれはあくまでも過去の気持ちのつもりでしたが、そう言われてみると確かにわだかまりとして今だに残っているのかもしれません。

「なんでこんな点数なんだ」
「もっとハングリー精神を持て」

父も兄もすっかり忘れている可能性がありますが、私にとっては昨日叱責されたかのように鮮明に耳に残っている言葉なのです。

「ほら、○○さんが来たから部屋に入ってなさい」

だれか来るたびに一人部屋に隠されたあの孤独がいまだに忘れられないから、当時見ていた特撮ヒーローから未だに離れられないのかもしれません。

そしてそれらの記憶は

 

「あの仕打ちは忘れていないぞ!」

という怒りを伴った感情と

 

「どうせ、いまだに俺のことをダメだと思ってるんだろ?」

という拗ねている感情。

 

それに加えて

 

「もしかしたら、また拒否されるんじゃないか。」
という恐怖心

 

それらがグチャっと入り混じった、何とも言えない感情として、いまだに私の中に残っている。

 

そう感じます。

 

 

わだかまりを捨てる


自分で言うのもなんですが、決してハングリー精神がないわけじゃない。

怠けて勉強ができないわけじゃない。

それも含めて「能力」だと思うんです。

しかし家族にはそれを認める勇気がなかった。
自分の子供や自分の弟が、なんの変哲もないただの障害者だと認める覚悟が持てなかった。

家族のそんな気持ちが分かるから、私は自分に自信が持てず、自ら家族との心の距離を空けてしまう。

しかしそうやっていつまでも拗ねていじけているのでは、心の平穏、幸せを感じることは出来ないと思うんです。

ではどうすればいいか。

家族に

「どうしてあんなことを言ったんだ!」
「なんで俺をのけ者にしたんだ!」

と詰め寄れば気が済むのか。

30年前の行いを今になって謝らせれば気が済むのか。

私にはそんなことはできないし、謝らせるのとも違う。


じゃあ「よく頑張った!」と言ってもらいたいのか。

それもちょっと違う気がします。

だっていまさら褒められても、本心ではそう思ってないことをよく知っているから(笑)。


じゃあどうすればこのわだかまりが消えるのか。

それは自分が「許す」という事なんだと思います。

逆に言うと、それが唯一、自分に出来そうな事なのです。

 

許すための共感


家族だって私を苦しめようとして、色々と言ったりやったんじゃないのは分かっている。

ただ、家族は自分達が障害者として生きたことがないから、ないどころか、これ以上ないぐらいに努力が形になった人達だから、人生で一ミリも予測していなかった

「わが子は障害者」

という緊急事態に我を忘れてしまい、幼い私の苦悩より自分たちの危機感を優先させたんだと思うのです。

そしてそんな両親の姿を見た兄も同じように振舞った。
「我が家の緊急事態だ!」と。

あわせて、もし私が逆の立場で健常者だった場合、私も家族と同じように振舞った可能性が高いとも感じるのです。

自分の子供が、自分とは全く違う人生を歩むであろう現実とその不安。

それをどうにかして、自分が見てきた人生に少しでも近づけて安心したい。

そんな家族の不安や葛藤からくる弱さを同じ人間として共感する。

 

それが「わだかまり」を捨てるために私が出来ることだと思うのです。

 

幸福に向かうには


私は幸福になりたい。

それには誰かに恨みを持ったまま、被害者のままでは無理だと思うのです。

だから私は自分のわだかまりとの決別を改めて決意するのです。