これまで「インクルージョン」として障害児教育と障害者雇用を考えてきました。
その際に、私の思いと他のメンバーの思いで食い違いがあり、その食い違いの原因について話し合っていくうちに新たな気づきが得られたので、今回は「インクルージョン最後の敵」としてそのお話をさせていただきます。
皆と同じ事
「障害者全雇用」の話し合いのなかで、もし私だったらなにがしたい?と聞かれたので、私は「その会社でやっている普通の仕事がしたい」と答えました。
そうしたら他のメンバーから、
「それって全雇用の条件の ”どこかの誰かの為” じゃなくて、自分の為にしかならないんじゃないの?」
と返されました。
続けて、
「たとえば、それが道路工事でも?」
と聞かれたので一瞬戸惑いましたが、それでも私は「そうしたい」と答えました。
すると
「カネシゲさんが力の入らない手で小さいスコップを持って地面にすわってても、穴が掘れるわけじゃないし、第一危ないし、それって誰かの為どころか、カネシゲさんを含めすべての人にとってデメリットしかないんじゃないの?」
と言われました。
まさにその通りなのですが、それでも私は「みんなと同じ事がやりたい」という強烈な思いが込み上げてくるのです。
孤独の原因
思い返せば、この会社に入ったときも事務をやらせてもらいたいと言っていました。
しかし社長から、
「介護の事務は他社とのやりとりも頻繁で、保険請求は間違えたら色々と面倒になる。それをカネシゲさんにやらせても付きっきりになるから、カネシゲさんだってそんな状況じゃまた自信なくして、結局また引きこもっちゃうんじゃないの?」
といわれていました。
と同時に、
「カネシゲさんには誰に遠慮することもなく、逃げ出す必要のない仕事が必ずあるから、自分以外の人が全員自分より上手く出来ることを頭下げながらやるより、カネシゲさんにしか出来ない、胸を張ってできる仕事を一緒に見つけようよ。」
といわれました。
で、コロナもあり試行錯誤した結果、今の障害者を取り巻く様々なことを、会社で唯一の障害者である私と、健常者社員が一緒に考えていくこのブログを始めたのです。
そんなことがあったのにもかからわず、また今回の障害者雇用の話し合いで「みんなと同じ普通の仕事がしたい」と言ったので、その身の丈に合わない強い普通願望が、私が度々周りと衝突して引きこもった原因なんじゃないの?と指摘されたのです。
おとぎの国の夢見る夢子ちゃん
私は子供のころからずっと家や学校で常に「普通」に近づく訓練をさせられ続けてきました。
「障害者として」なんて教育は一切されてこなかったし、自分が障害者であることで何か良かったという思い出が何一つないのです。
そんな経験の積み重ねによって、「普通」じゃない障害者という自分を、自ら忌み嫌うような考えが刺青のようにしみつき、障害者らしいことを無意識に避けるようになっていたのかもしれません。
その結果、私は健常者の中で健常者の真似事をすることで、自分が障害者である現実を忘れようとしていた。
そして忘れ続けるためには、たとえ出来なくても「健常者と同じ事」をやりたいのです。
それによって周りの健常者に「困ったちゃん」と呆れられても、
障害者仲間から「健常者気取り」と嫌われても、
障害者の中で障害者らしい仕事をやって
「俺はどう足掻いても一生障害者だ」
と思い知らされるよりは遥かにましだったのです。
つまり私は、障害者として幸福になりたいのではなく、不幸でもいいから健常者になりたかった。
言い換えると、
障害者のまま幸福になれるわけがないと思っていたし、健常者になれば不幸になるはずがないと思っていた。
それが今まで私が周りの大人たちから受けてきた教育のすべてであったし、現に家族にとって私が障害者であることは不利益でしかないのは明らかで、そんな現実を日々見せつけられてきた私が、どんな思考操作を使ってでも自分が障害者であることを認めたくなくなっても仕方がないと思うのです。
だから、今回考えた「全雇用ルール」で「誰かの為になれば何をやってもいい」といわれても、障害者として障害者らしい仕事を拒み、たとえそれがどんなに意味がなくても、誰の為にならなくても、「健常者と同じ事」をやりたいのです。
同じように、障害児教育の話に出た「キッザニアシステム」も、他のメンバーは
「障害者として」適正を見つけるための訓練
として捉えていましたが、私は責任なくただ延々と健常者の真似事をするという長年慣れ親しんだ自分のおとぎの国を再現しようとしていただけだった。
同じように、絵本プロジェクトでも、私は障害を持ったままのヒーローを頑なに拒否し、変身すると一気に健常者になるという、私が長年趣味のヒーローものを見ながら空想したおとぎの国を、絵本でもそのまま再現しようとしていただけだった。
それが
「どうすれば家族や社会から異物感、お荷物感をなくせるか」
そんなことばかりを考え続けてきた結果なのです。
しかしそんな夢見る夢子ちゃんのまま実社会に入って行っても、おとぎの国のように「健常者」になることはないし、周りの人たちも、いい歳した大人の私がいつまでも「おママ事」のように出来もしない健常者のまね事ばかりしたがることに愛層をつかしていくのです。
そうなってくると「やっぱり俺は障害者なんだ・・・」と落ち込んでしまい、自分を守るために再び私一人しか居ないおとぎの国に帰り、醒めない健常者の夢の続きを見るのです。
最後の敵は自分
そう考えるとインクルージョンの最後の敵は、自分が障害者であることを無意識に否定し続けている自分自身なのかもしれません。
そして多くの障害者の社会での困難は、このような
強い自己嫌悪による現実逃避
が原因の一つではないかと感じます。
しかしそれは自分の障害を否定し、「普通」になる訓練をずっとされ続けた障害者にとっては当然の帰結だと思うのです。
そんな思いの反面、自分の言っている言い訳が世間では通用しないことは十分理解できる。
社会人として給料をもらいながらいつまでも夢見る夢子ちゃんのままで居ようとすることは、単なる我儘であることもわかっている。
しかし私にとってこれは、理屈とか理解とかそういう問題ではないのです。
例えばタバコを吸う人が「百害あって一利なし」と分かっていても、自分どころか他人にとってもデメリットしかないと分かっていても、どうしてもやめられないのと一緒なのかもしれません。
私も同じように、誰の為にならなくても、普通のまね事をしている間だけは自分が障害者であることを忘れられるような気がしてやめられない、ニコチン中毒ならぬ「普通中毒」なのです。
それほど自分が障害者であることが認め難いのです。
しかしタバコを吸っている人がいざ癌になると慌てて禁煙するように、私もこの「普通中毒」によって周りと何度も衝突して、現実には自分の幸福感を大きく下げ続けているのは疑いようのない事実で、もういい加減「普通ごっこ」はやめなければならないと感じているのです。
そのためには、自分の強い「普通願望」による思考操作が、自分の現実の行動をも大きく歪め、いつまでも自分自身を追い詰め続けている一番の敵なんだと自覚すると同時に、
障害者のままだって幸せになれるし、なるんだ
そう自分に言い聞かせ、そのための行動を仲間と共に考え続けていくのです。