こんにちはカネシゲです。
今回は前回の通り、優生思想について皆で考えてみました。
まず話し始める前に、皆で乙武さんのYouTubeチャンネルにある
「優生思想がなぜダメなのか」
という動画を見ました。
その動画で乙武さんは、ある人気ミュージシャンが
「優れたスポーツ選手同士で結婚させて子供をつくるというのを国家プロジェクトにしなきゃいけない」
とTwitterで発言していたことについて、これは優生思想であり許されるものではないとし、その上でなぜ優生思想がダメなのかということを解説しています。
その内容をまとめると
優生学には”積極的優生学”と”消極的優生学”の二つがある。
積極的優生学は「優れた人を積極的に増やす」
消極的優生学は「生きるのにふさわしくない人が子孫を残すことを妨げる」
というもので、そのうえでどちらの優生学にも共通した3つの問題があるといいます。
まず1つ目は
「人権」という視点が抜け落ちている。
国家というものは、1人1人の生きる喜びを守るために存在するのであって、人の命の重さに対して口出しできる立場ではない。それを認めてしまうと、国家はそれを構成する人よりも大切ということになってしまう。
2つ目として
そもそも、子孫を残すのにふさわしい人、というのは誰がどうやって決めるのか。
人間の価値は多面的であって、そんな簡単に決められない。
たとえば、頭の良い身体障碍者は、残すべきか淘汰すべきか、など。
そして、「貴方は子孫を残す価値のある人間ですか?」と国に問われるような社会は、私たちにとって住みよい国と言えるのか?
3つ目として
たとえ、一見問題ないように感じる積極的優生学であっても、突き詰めると結局のところ消極的優生学と地続きだということ。
たとえば、ナチスドイツが積極的優生学により、長身金髪碧眼の男女を結婚させるとした一方で、ユダヤ人、ロマ、同生愛者、障碍者などの淘汰を目指す消極的優生学による政策もそれ以上に積極的に進めていた。
日本でも「優生保護法」という名の法律の下、消極的優生学による強制不妊手術を進めた。
つまり、好ましい人を増やそうという考えは、それを実行するために、必然的に好ましくない人の基準を決める必要が出るので、結局は分けることのできない地続きの思想なのだ。
最後に、
そうやって人の命に序列をつけていくと、結局ほとんどの人が生き残れない社会になってしまいませんか?
そんな社会でいいんですか?いや、駄目でしょ。
よって私は、どんな形の物であっても、優生思想を許すことは出来ないのです。
というのが乙武さんの主張でした。
非常に分かりやすいですね。
この話を聞いたうえで、皆で考えてみました。
もちろんこれからお話しすることには、母体保護などの観点から反論があるのは十分承知の上ですが、私が障碍者として41年間生きて感じたことを知っていただけたらと思います。
・誰が優生思想を持っているのか
国の優生思想については、駄目だということで決着がついているとは思うのですが、それでもなぜ個人レベルでの優生思想はなくならないのでしょうか。
実は優生思想は当事者である障碍者サイドにも見受けられます。
ある脳性麻痺の人たちが自分たちの理想的な暮らしを実現するために、地方で家を借りて集団で暮らしていました。
そしてそのうち障碍者同士でカップルができて子供が出来るんですけれど、生まれた子が健常者だったんですね。
すると障碍者である親は、「障碍者とばかりいると子供の教育に良くないから」という理由で、自分たちで作った理想郷を出て普通の街で暮す選択をしたのです。
(脳性麻痺者の不明瞭な発語が子の言語習得に影響を及ぼす可能性があると危惧したようです)
これは自分から障碍者グループを離れたケースですが、視点を変えれば自分の周りから障碍者を排除したとも言えます。
また堕胎の問題もあります。
今は産まれてくる子が障碍を持っているかどうかということを、ある程度知る事ができます。
特にほぼ正確な判定ができるダウン症に至っては、それを持っているということを知った親の約9割が堕胎を選択するそうです。
ニュースでは障碍をもった子供を育てている親が高齢になり、子供もろとも自殺するケースも散見しますし、そういった事は私が養護学校に通っている時にも見聞きしていました。
・命の価値を決めた先に待っているもの
北極圏のイヌイットの社会では、老人になると追い出されて凍死するしかなかったり、それでは可愛そうだということなのでしょうか、オノで殴り殺されたりしたそうです。
また、採集狩猟している民族でも、過去には年老いると殺されるということが多々あったと研究者は発表しています。
日本でも民俗学的にはなかったことになっている姥捨て山ですが、口減らしの為に「棄老」といって村から追い出すなどは日常だったようで、地名として残っている土地が沢山あります。
また、古くは障碍者が生まれたら川に流すということが行われていて、その川に流した障碍者を七福神の恵比寿さまとして祀ったという説があるようです。
このように、貧しかった昔は老人になったら山に捨てられ、障碍者が産まれてきたら川に流されるという弱者に厳しい社会だったと言われていますが、現代の出生前診断で障碍を持っていることが分かると堕胎を選択するということは、これと同じだと思うのです。
日本において胎児には人権がないので、このようなことが今でもまかり通っていますが、これは言い換えると、
「あなたが障碍者となった場合、あなたの面倒を見るべき人が安楽死を求めたら、あなたは拒む事ができませんよ」
という事とまったく同じ事だと思うのです。
こんなことが現実の法律として制定されたら、世界を揺るがす大問題だと思うのです。
しかし胎児には声がないので為されるがままです。
・優生論で幸せになる人は誰か
優生論というのは結局、他者が自分の命を左右できる権利があるという理論です。
今現在、どんなに高い能力を持っている人も、いずれは失います。
そうなったときに「あなたにはもう価値が無いから死んでくれ」という社会で良いのでしょうか。
忘れもしない私がまだ10歳ぐらいの時、祖父に
「なんでお前は自ら手をあげて家を出て施設にいかないんだ」
と言われたことがあります。
10歳の私には非常に辛い出来事でした。
しかしその後に祖父が耄碌して社会の役に立たなくなったときに、自ら手を挙げて老人ホームに行ったかというと、そのようにはしませんでした。
このように、優生論的考えを持つ人も、いざ自分がその立場になると認められない。
しかし他人には平気でその理論を押し付ける。
やまゆり園事件の被告も結局、自らが持っていた優生論的考えによって自らの命を絶たれるのです。
・優生論はディストピアへの片道切符
人の価値を見出す行為は簡単ではありません。
ある人にとっては価値のある人でも、ある人にとっては害でしかない場合があります。
よって、そもそも命の価値に線引きは不可能なのです。
しかしそのことを無視してある基準で無理やり線を引いたとしても、その線は固定ではなく簡単に移動します。
重度の障碍者から軽度の障害者へ、
重度の認知症から軽度の認知症へ、
前科5犯から前科1犯へ、
人口の下位5%から、人口の上位5%以下へ、
そうなった場合、貴方は自分は生き残れる人間だと言い切れるでしょうか。
参考: