前回は最近頻発している通り魔事件について考えてみました。


今回はそういったことを考えるうえで、障碍者にとって避けて通れない「やまゆり園事件」について、皆で考えてみました。

 

私にとってのやまゆり園事件


「施設職員が入居者を大量殺戮したようだ。」

当時この事件の一報を聞いた私は本当にびっくりしました。

私のイメージでは、施設で働いている人は自分達には優しい人だろうと思っていたからです。

しかし犯人の供述では「あいつらは社会のお荷物だから殺した」と。

私がホスピタリティ精神が高いと思っている施設職員が、結果的にそうなってしまったということは、彼にとっては人ではなく「得体のしれない何か」を排除したという感覚だったのでしょうか。

だとしたら、自分はそう思われたくないと思いました。

障碍者同士でこのことを話すと大抵

「やまゆり園のような障碍者を沢山入れるような施設をつくらず、地域で障碍者を暮させればこういう事件は起きない。」

という話になるのですが、養護学校時代から様々な障碍者を見てきた私の意見は、障害の程度は人それぞれで、意思疎通の困難さから一人で暮らせるレベルではないと思える人も沢山いるので、全ての障碍者が在宅で暮すのが理想というのは、ちょっと違うのかなと思います。

「障害があったとしても社会に溶け込みたい」っていう夢もあると思いますが、そう声にできる能力のある人の意見ばかりをクローズアップしては、最重度の人が取りこぼしになってしまうのではと危惧します。

そういう意味では、少なくとも今の在宅介護制度のままでは、私は施設の存在を全部否定することは出来ないのです。

 

無理な在宅、負担は家族に


国が障碍者も高齢者も「施設より在宅で」という政策を語るようになってから、それに比例するかのように、家族による介護疲れ殺人のニュースが増えていったように感じます。

障碍者に限って考えると、施設がなくなって何でもかんでも在宅でとなってしまうと、私が学生時代に共に過ごしてきた同級生たちがそのような目にあってしまうのではと、不安になることもあります。

現実として施設は家族が必要としています。

「自分が障碍者を産んだんだから、どちらかが死ぬまで責任をもって面倒を見ろ」という社会では、家族は孤立し疲弊し追い詰められてしまいます。

なので、安易に施設をなくすことで解決しようとするのではなく、なぜそんなことが起こったのかを現在稼働している施設で広く調査し、二度とそんなことが起こらないように改善していくことが大切だと思うのです。


そのうえで、私はそこで働く施設職員さんのメンタリティーを保てるように改善することで、そういったことを防ぐことはできないかといろんな障碍者仲間に話したんですが、あまり共感を得られませんでした。

逆に、「お前は障碍者側に立っていない。介助者の働く環境なんて関係ないじゃないか、そんなのその人次第なんじゃないか」と言われました。

しかしそれでも私は、施設や家庭で殺人とまではいかないまでも虐待などをしてしまう人が、最初からそういう気持ちで介護をしていたとは思えず、何らかの後天的な原因が彼らを追い詰めたのではないかと考えてしまうのです。

 

インクルージョンは解決策となるか


そういった事件が起こらないようにするためには、小さいころから障碍者が身の回りにいる環境にしようという考えがあります。

それはインクルーシブ教育というものですが、そこにもちょっと怖さを感じます。

なぜならインクルージョン思想は健常児達にとっては全くの他人事だと思うからです。


良くも悪くも今の健常児達にはまず勉強があって、その次にお友達関係ということになって、それらが成立して初めて公共の福祉云々が来て、その上でやっとインクルージョンがある位の認識だと思うんです。

まだ低学年の内はお友達の優先順位が高いので、障害児もそのお友達の一人だと説明し受け入れてもらえると思います。

しかし、中学受験が珍しくない今は、学年が高くなるにつれ勉強の比率が上がってくると、お友達だったはずの障害児はどんどん取り残され孤独になっていくと思うのです。

一方養護学校は、

 

「勉強は二の次で、それぞれの障害によって必要な機能訓練、知能訓練をやって、なるべく社会でやっていけるようになろうぜ」

 

ということなので、意思疎通ができない最重度の障碍児から、ただ歩けないだけの子までが混在する十人十色の障碍児のニーズに合うんですね。

なので、中で多少のいがみ合いがあっても、総論としては合意ができている。

しかし普通学校ではいくら各論をすり合わせようとしても、そもそもの総論が違うので、上手く行かないのではと感じるのです。

 

有益な存在とは


結局今でも犯人は全く反省しておらず、それどころか「社会にとって良いことをした」と思っているらしいんですね。

それは「殺した」というより「殺してあげた」と思っているということなのかなと。
 

もしそうであるなら、全く話が通じないので強い恐怖を覚えます。

しかしだからと言ってやまゆり園のような施設がなくなり在宅が中心となってしまうと、いまよりもっと優性的な理論が世の中に根付いてしまうような気がします。

なぜなら今の社会は障碍者は家族が責任をもって生涯面倒を見るという前提に立っていると感じるからです。

 

だからこそ出生前診断が多く利用され、ダウン症の可能性を示唆された約9割の人が堕胎を選択するという現実になっていると思うのです。


なので、たとえどんな障害を持っていたとしても、ある程度まで責任をもって育てれば、あとは社会が施設などで責任をもって引き受けるとなっていれば、たとえ出生前診断で障害を持っているとわかっても、親はそれを受け止めて安心して出産しようと思えると思うのです。


しかし現在の福祉政策をみると、私達障碍者は社会のお荷物だといわれている気がしてなりません。

私たち障碍者は生まれてはいけない存在なのではないでしょうか、生きてはいけない存在なのでしょうか。

次回は優性論のことについても考えてみたいと思います。