今回はメンタリストDaiGoさんの騒動についてみんなで考えてみました。
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YouTubeやニコ動などで活躍しているメンタリストDaiGoさんが先日、
「ホームレスのおっさんが伸びてると『なんでこいつ我が物顔でダンボールひいて寝てるんだろな』と思うもんね。自分にとって必要のない命は僕軽いんで。ホームレスの命はどうでもいいんで。」
「みんな思わない?どちらかっていうとホームレスっていない方が良くない?言っちゃ悪いけど。邪魔だしさ、プラスにならないしさ、臭いしさ」
(一部抜粋)
という発言を自身のyoutubeチャンネルでし、大きな物議を呼んでいます。
「差別発言では?」という指摘に対して、本人は最初強気で反論していましたが、ワイドショーや新聞各社が話題にした結果大炎上。
その後、強気から一転、自らの非を認めて謝罪し、関連動画を削除しましたが、その謝罪動画に対して更に非難の声が上がり、新たに謝罪動画を上げ直すも、それにも非難が殺到していて、それ以来SNSの更新が止まっている。
という状況ようです。
私も彼の動画はたまに見ていましたが、それまでは
「差別発言する人はIQが低い」
とか、いかにもリベラルなことを言っていたのに、今回は何があったのかしりませんが急に
「ホームレスは死んでも構わない」
って真逆のことを言いだして、一体どうしちゃったのかな?と思ったのが第一印象です。
改めてDaiGoさんの経歴をみてみると、幼いころからコミュ障のいじめられっ子で対人関係に苦しみ、東大受験に失敗するなどして出来た様々なコンプレックスを慶應大学入学を期に解消しようと考えていたところ、イギリスで活躍していたメンタリストを知り感銘を受けて自らもメンタリストに。
その後テレビに出演し一時有名になるも、そこでもTV側との意見の食い違いで自分の思うように出来なかったため、独自にSNSで発信していくと、それがタイミングよく時流を捉え支持を集め成功していった、という事らしいです。
そんな彼は今ではyoutubeを始め様々な媒体で多くの支持者を得て、今では年収百億円!とも言われています。
間違いなく「勝ち組」ですね。
そんな多くの人の心をつかんだ彼が、今回自分がした発言のNGさが分らないわけがないと思うんですが、どうしてあのようなする必要のない発言をしてしまったのか。
SNSでの支持を維持するためには、常に新しい情報を発信し続けなければならず、さらに飽きられないように内容も工夫していかなければならない。
そんなプレッシャーから安易に視聴数を稼げる「炎上」を自ら起こしたとも考えられますが、今回のような一発でアウトになるリスクを考えると、そのような勝負に出るほど困窮していたようには見えないので、その解釈も今一釈然としません。
・差別発言の根っこ
今回のような事を理解するためのヒントとなるような本を以前読みました。
それはハーバード大学のマイケル・サンデル教授著「実力も運のうち」という本です。
その本には「エリートは差別主義者になりやすい」とありました。
その理由として、エリート、日本で言う所の勝ち組は「自分は努力したから成功した。負け組は努力しない怠けものだから負けたんだ」と、結果を純粋に努力の差であると考える傾向があるとしています。
しかし同教授は、人が安定的に成長し成功するためには、本人の努力ではどうしようもない「生まれた家庭の裕福さと、親の理解」が非常に重要な条件であることを、様々なデータをもとに述べられています。
そのことからいうと、差別的な発言をする成功者というのは、「自分の成功は”たまたま”恵まれた環境に生まれた幸運の産物だ」という事実を認めない驕り、
それと同時に、「成功できなかった人は”たまたま”厳しい環境に生まれた不運の産物だ」という事実を知ろうとしない積極的無知、
という、二つの傲慢さを合わせ持っていると言えそうです。
そう考えると、裕福で子育て本を出すほど理解のある親の元に生まれたDaiGoさんは、そのあまりにも恵まれ過ぎた環境から、家を失って野宿している人達や、働けず生活保護を受給している人達の背景を想像する機会を得ぬまま大人になり、それらの人がただの怠け者で不要な命であると本気で考える、冷酷な差別主義者になってしまったのかも知れません。
そう考える私にも似たような経験があります。
私と8歳離れた兄は、中学から開成、その後浪人はしたものの東大という、傍から見れば立派な「勝ち組」でしたが、官僚で多忙な父の代わりという気持ちがあったのか、私は毎日のように兄から勉強の小言を言われました。
「親父もおふくろもお前に甘いから、俺が一から鍛え直してやる。」
「なんでこんな簡単な問題がわからないんだ」と
私が「分からないから分るように教えてくれよ」と言うと
「授業ちゃんと聞いていればおのずとわかるだろ、お前は障碍者を言い訳してさぼっているだけだ。同じ親から生まれたんだから、俺と同じように出来るはずだ。出来ないのはお前が怠け者だからだ。本当に情けない」
等と、延々2時間言われ続けたこともありました。
私はそれを聞く度に心の中で、
「いやそうじゃないんだ。本当にわからないだけなんですよ。出来る人は出来ない人のことを簡単に努力不足のダメ人間という烙印を押してきて嫌だなぁ。」と思っていました。
今にして思うと、学校で父や兄がやる必要のなかったリハビリという名の猛特訓を僕だけが毎日何時間も汗だくでやらされていて、その後のヘトヘトでろくに授業を聞けなかったかのが原因だったんじゃないかと思いますが、当時はそういうことも考え付かずに、言われるがままにただ自分が怠け者のダメ人間に思えたのでした。
・不寛容には不寛容の時代
今回のDaiGoさんの騒動を見て、改めて今の時代は昔とくらべて、差別的な言動に対する強い不寛容さがあると感じました。
私も20代に勤めていたNPO時代に、差別に対する抗議活動をその手法に違和感を覚えながらもしぶしぶやってきましたが、当時はこんなにも大きな世界的な潮流になるとは想像もしていませんでした。
味方が増えたのかな?と思う反面、「DaiGoさんの発言が酷いとは言っても、本当はホームレスや生活保護は(ついでに障碍者も)いらないって思っているんでしょ?」っていう思いは頭から離れませんが(笑)。
差別解消運動を散々やってきた私が言うのもなんですが、今まではいくら叫んでも暖簾に手押しな感じだったのに、なぜこれほど急激に世の中が差別的なことにに対して不寛容になったのでしょうか。
それは思うに、今の多数を占める、勝ち組でない普通の人たちが学校で
「日本が採用する民主主義は、多数の普通の人たちが幸せになるための仕組みなんだよ。だから真面目に勉強して、真面目に働いたら、終身雇用で安心して生きられるよ。」
と教育され、それを信じて長い間真面目に頑張ってきたのに、いざ辺りを見回してみると、終身雇用なんてどこにも見当たらないし、どう考えても多数の普通の人が苦労し、少数の恵まれた人だけが極端に得をしているという、聞かされてた話とまったく違う理不尽な状況に気付く。
そしてその総論だと間違ってるはずなのに、各論になると何故かその理不尽が正当化されてしまうという、まるで詐欺にでも引っかかったような現状に強い不信感を持ち、それが
「もうこれ以上理不尽を許してたまるか!」
という怒りを伴った決意に変換された結果、今のような強い不寛容社会を作り出したのではないかと感じています。
・不寛容には不寛容を!の先にあるもの
では今回のDaiGoさん騒動のような、不寛容には徹底した不寛容で挑む、という今の流れは、良い方向に向かっていると言えるのでしょうか。
そう考えたときに一つ思い出す話があります。
それは「囚人のジレンマ」というゲーム理論の話です。
これは二人の銀行強盗が警察に捕まったところから始まります。
二人は別々の取調室で尋問を受け、お互いに次のことを警官から言われます。
(犯人同士は連絡を取り合うことができません。)
1.互いに自白したら、二人とも懲役3年
2.互いに黙秘したら、二人とも懲役1年
3.どちらかだけ自白したら、自白したほうが無罪で黙秘したほうが懲役5年
この場合、自分がどういう選択をすれば懲役が一番少なくなるか、を争うゲームです。
ただし1回だけだった場合は自白を選んだほうが良いことはわかっていて、このゲームは一人の対相手につき20回繰り返し行われ、参加者全員との総当たり戦。
結果的に一番懲役年数が少ない人が勝ちというものです。
第一回大会では15種類の様々なプログラムが集まりましたが、優勝したのは一番単純な「しっぺ返しプログラム」でした。
これは、相手が自白したら次の試合で自分も自白し、相手が黙秘したら次の試合で自分も黙秘するという、相手の動きをひたすらオウム返しするだけというものでした。
第二回大会では62種類の趣向を凝らしたプログラムが参加しましたが、また単純な「しっぺ返しプログラム」が優勝したのです。
この結果を見ると、やっぱり不寛容には不寛容で対峙するのが一番良いと思えます。
しかし話はここでは終わりません。
この大会の主催者である政治学者のアクセルロッドは、更なる勝率の向上を目指し、このしっぺ返しプログラムに新たに改良を加えたプログラムを生み出しました。
それが「寛容なしっぺ返しプログラム」です。
このプログラムは、基本はしっぺ返しプログラムと同じですが、裏切られた時でもたまに裏切り返さないで相手を信用して黙秘する、というものです。
結果は、単純なしっぺ返しプログラムを大きく上回る成果をだしました。
その理由は、単純なしっぺ返しでは出来なかった「潜在的な善人」を探し出す効果を持っていたからです。
つまり、相手のプログラムが潜在的には善人なんだけど、こちらを警戒して一見悪人のような振る舞いをする場合でも、こちらから寛容さを見せることで、相手の潜在的善意を引き出し、双方自白しあって懲役3年という報復の連鎖にならず、自分の寛容さがきっかけで双方黙秘して懲役1年という信頼の連鎖を作り出す事が出来たからです。
これは「不寛容には不寛容」を徹底する、単純な「しっぺ返しプログラム」では決して出来ないことでした。
このことから、現実社会でも「不寛容には徹底した不寛容を」では、相手が潜在的に持っている「善意」を打ち消してしまい、報復の無限連鎖に陥ってしまうのではないかと思うのです。
もしそうなった場合、善意の人の手を借りることが必須な私のような障碍者をはじめ、「社会的弱者」と呼ばれる人達にとって、相手の潜在的善意を引き出すことのできない不寛容の徹底は、自ら生きづらい社会を作り出すことになるのではないかと思うのです。
そして、誰もが突然「社会的弱者」になる可能性があるという現実を考えると、不寛容には不寛容を徹底する社会というのは、すべての人にとって生きづらい社会だと思うのです。
今回のDaiGoさんの「プラスにならない」「邪魔」「いないほうが良い」という言葉は、障碍者の私にとっても心を根元からえぐる言葉で、考えるだけで気分が落ち込みますが、そういう彼だって長い間イジメられ、コミュニティーで邪魔者扱いされた辛い経験を持っているようなので、本当は不運な人に同情してくれる優しい心を持っていると信じて、寛容したいと思うのです。