藤沢Interplay での「サザン通りオールスターズ」のライブ。
おかげさまでで満員御礼であった。
嬉しかったので、ドラム席からパチリ。
来てくださった皆様、ホントにありがとうございました。m(__)m
で、演奏の方はというと。。。ヘ(゚◇、゚)ノ
藤沢Interplay での「サザン通りオールスターズ」のライブ。
おかげさまでで満員御礼であった。
嬉しかったので、ドラム席からパチリ。
来てくださった皆様、ホントにありがとうございました。m(__)m
で、演奏の方はというと。。。ヘ(゚◇、゚)ノ
今日から、怒濤の3連チャンが始まる。
今日(11/18)20:30~,Southern Street Jazz Quartet at 茅ヶ崎MARRY
(但し、オイラは遅れて登場が確定してます。m(__)m)
明日(11/19)13:00~,サザン通りオールスターズ
(このバンド名、ナンとかならんかねぇ。。。)
at 藤沢Interplay
明後日(11/20)20:30~,みんなで歌おう at 茅ヶ崎MARRY
んでもって、その合間を縫って、
明日(11/19)20:30~,コイケ&ザ・ブリハッチー
at 茅ヶ崎MARRY
明後日(11/20)20:30~,第5回 新宿トラッド・ジャズ・フェスティバル
かなり強行スケジュールである。
生きて娑婆まで帰ってこれるか。。。
「花岡信昭メールマガジン(No.116<2005.11.14>)より、無断転載。(^◇^;)
「このままではホリエモンの子供が天皇になれる国になってしまう」と危惧する方にオススメ。
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<藤原正彦氏が問う「国家の品格」>
新潮社の若き友人から「これぞという本が出ます」とゲラを仮綴じにしたパブリシティー用の新書が送られてきた。藤原正彦著「国家の品格」。
藤原氏の卓見は改めていうまでもないが、日本を憂える真情に裏打ちされ、こちらの魂に響くところがある。東大理学部数学科出身、御茶の水女子大学数学科教授。作家の新田次郎(「八甲田山死の彷徨」)、藤原てい(「流れる星は生きている」)夫妻の次男である。
作家のDNAを受け継いだ数学の先生が、日本論を、それも率直かつ真摯に語るから、静かな筆致の中に迫力がある。まず、新潮社の宣伝文。
《 日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的提言。 》
前書きでまずまいってしまった。
「本書は講演記録をもとに、それに大幅に筆を加えたものです。話し言葉に品が欠けていたため、ほとんどすべての文章に筆を入れる羽目になりました。品格なき筆者による品格ある国家論という、またと出会えない書です」
その通りに、たんたんとやさしい言葉の講演調で本文が構成されているから、すっと読める。そして重いものが残る。
11月20日ごろ、書店に並ぶので、ぜひお読みいただきたいのだが、最後のところで、藤原氏は品格ある国家の指標として4点を挙げている。
1)国家の独立不羈(ふき)
2)高い道徳
3)美しい田園
4)天才の輩出
それぞれの意味合いはあえて、ここでは書かない。
「普通の国になってはいけないのです。欧米支配の野卑な世界にあって、『孤高の日本』でなければいけません」「はっきり言えば、1万人の殺人者がいても、先進国家は何ともない。しかし、1万人の真のエリートがいなかったら潰れます」
そうした表現にどきっとさせられながらも、読み進むうちに、どんどん引き込まれていく。日本、あるいは日本人を考える上で必読の書としてお勧めしたい。
これから下の写真のように、身体に穴をあけられ、異物を体内に埋め込まれることにまだ気付かないギタレレ君。
無事に取り付けも終了し、弦を張り替えたら完了!と思ってたら、
ありゃ?ガット弦ってどうやって貼るんだっけ?ヽ(・◇・ )ノ
適当に貼ってみたが、どーも違うらしい。。。
とりあえず、音を聞いてみたい方は、今宵MARRY へお越し下さい。
9月11日の総選挙に際して「小さな政府」の是非が論議され、マスコミは小泉自民党の主張を「小さな政府」として紹介し、一方で野党を「小さな政府」の反対者として位置づける報道を繰り返していた。
「大きな政府」と「小さな政府」を比較すれば、明らかに「小さな政府」の語感が優れているし、世論アンケートをとれば、「小さな政府が良いと思う」に軍配があらると思う。
しかしながら、「小さな政府」には2つの意味があることをはっきりさせておきたい。
「政府の無駄を排除する」つまり「利権拡大=ばらまき型の財政拡張は控えるべき」という意味での「小さな政府」と、「自由放任」つまり「少数弱者の弱者切り捨て」という意味での「小さな政府」の意味である。
ほとんどすべての人は前者「無駄を排除する」意味での「小さな政府」に賛成するのだが、問題は後者の自由競争の結果生じる格差の取り扱いについてである。「競争の結果として大きな格差が生じるのは当然であり、容認すべきだ」という意見と「政府が結果における格差をある程度は調整し、弱者を保護すべきだ」との二つの考え方があるが、この両者のバランスが重要で、
政府の無駄は徹底的に排除する。しかし、少数弱者は政府の責任においてしっかりと保護する。セーフティーネットをしっかりと整備した上で各種規制を撤廃し、競争による効率の上昇を目指すことがあるべき社会の姿と思う。
競争を制限しすぎて「創意と工夫の意欲」を削いでしまうのが「行きすぎた平等社会」の弊害であり、自由競争が行きすぎた「弱肉強食」により弱者が見殺しにされるのが「行きすぎた競争社会」の弊害である。
小泉政権は「少数弱者の弱者切り捨て」を政策の基本に置いているのだが、そういう意味で「小さな政府」という言葉を使っていたことをマスコミはどこまで我々国民に伝えようとしていただろうか。
いずれにしても、我々国民自らそういう政権を選択してしまったことを肝に銘じる必要がある。
なんか「朝○新聞」の社説みたい。。。ヽ(・◇・ )ノ
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み 」(11/6,第1288号)に掲載されていました。
もうすぐ「憂国忌」なので、紹介します。(長文注意!)(^◇^;)
(宮崎正弘のコメント)あの時代を共有した、あの時代の若者に共通するのは事件の衝撃でしょう。本当に命をかけて、生命より大事なモノがある。それが日本だ、と訴えて自決したのですから。
いま、檄文を何度か読み返してみても、この35年の日本を透視した、預言に類する発言がいくつも詰まっているのは本当に驚きです。ちなみに「檄文」を下記に掲げます。
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あの「檄文」再録
昭和45年11月25日 「檄」
楯の会隊長 三島由紀夫
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流した我々の汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずにして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。
もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質な欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることはなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは小数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰といふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自身を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
銘記せよ!
実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつて悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議會主義政黨を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、その日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。
しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本から来ないのだ。シヴィリアン・コントロールは民主的軍隊の本姿である、といふ。
しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。この上、政治家のうれしがらせにのり、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。ともに起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。