憲法改正が表で具体的に動き出したが、国体維持に関し9条ばかりメディアが取り上げる。
主権を維持するに当たり、やはりいの一番は第一条だと思うが、其れも文面からは理解しにくい。解釈も別れる。
大事なのは何故こうした文言になったのかを理解して各自が考えることだろう。
其れの一つのキーワードとして「輔弼(ほひつ)」を巡る経緯が重要だと思ったので、第三条とその解説を読みつつ「輔弼」についての解説を読んでみた。
簡単に概要を読めるものとしてWikipediaが便利ではあるが、解説の文面を書いた者には左がかった人が多いと思っている。疑問を持って読む事も大事だ。
第三条
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
解説
「本条は、日本国憲法第一条に基づき天皇の地位が象徴とされたことから、天皇が行う行為については内閣が責任を負うものとし、そのために天皇の国事行為が内閣の助言と承認に基づいてなされるべきものであることを明らかにした。天皇が国政に関する権能を有さず、国事行為のみを行うものと規定する第4条とともに象徴天皇制の柱となる規定である。国事行為については、第7条に規定されている。
大日本帝国憲法には、内閣について規定する条項ではなく、第55条において、国務大臣が天皇を輔弼する責任を負う旨のみ規定されていた」
この最後で「輔弼(ほひつ)」という言葉が出てくる。改正の議論で「輔弼」という言葉が出てこないが解説者も質問者も回答者もどのように理解しているのだろう。
輔弼(ほひつ)
輔弼(ほひつ)は、天皇の行為としてなされるべき、あるいは なされざるべきことについて進言すること。大日本帝国憲法では大臣責任制が採用され、国務一般の輔弼について「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と定められていたが(第55条第1項)、実際には内閣官制に基づいて内閣が輔弼を行った。
大日本帝国憲法以前にも「輔弼」という概念は存在した。1871年の太政官制度の改革により三院制が導入され、このうち最高機関である正院においては、天皇の臨御の下、太政大臣、納言(左右大臣)、参議の三職がおかれることになる。三職のうち、天皇を「輔弼」することができるのは前二者のみであり、参議は前二者を「補佐」することしかできないとされ、天皇との距離が明確に区別されていた。
正院制度にはさまざまな矛盾点が存在したため、1873年には再び改革がなされたものの(このときに「内閣」という用語が登場)、太政大臣と左右大臣のみが天皇の「輔弼」を担う、という枠組みに変更はなかった。征韓論の問題において、正院の決定が明治天皇の聖断により覆されたのも、右大臣(太政大臣代理)岩倉具視が西郷隆盛ら参議達にはない天皇の「輔弼」権限を保有していたからである。岩倉は自身が持つ「輔弼」権限を利用し、その政治的影響力を長く行使し続けた。また、元田永孚や佐々木高行ら宮中グループの台頭も大臣の「輔弼」権限を背景にしたものであった。
一方、伊藤博文は岩倉達に対抗するため、参議と内閣の地位向上に腐心することになる。参議省卿分離論と呼ばれる構想がそれであり、1880年の太政官中六部分掌事務においては内閣の地位向上を意識した規定を盛り込むことに成功するが、その直後におきた外債問題においては、外債募集に反対である岩倉と宮中グループは「輔弼」権限を最大に利用することにより明治天皇を操り、参議と省卿を分裂させ政争に勝利した。つづく財政再建問題において、岩倉は米納論を主張するも、これは参議のみならず宮中グループにも不評であり、伊藤達は岩倉に政治的に一矢報いることに成功するが、そのためには「輔弼」権限をもつ三条実美の力を借りることが必要であった。
明治十四年の政変による混乱を収拾するのに主導的な役割を果たした伊藤は、天皇親政指向の井上毅らと協調し、「輔弼」をめぐる参議と大臣の格差を埋める改革に着手するものの、その実行のためには岩倉の死を待たねばならなかった。岩倉の死後、1885年、空位となった右大臣の後任に伊藤を当てようと明治天皇と三条実美は動くが、制度の抜本的な改革を志向する伊藤に拒絶され、伊藤が導入を主張する内閣制度を取り入れざるをえなくなる。1885年12月には内閣職権が導入され、一般国務においての「輔弼」権限の内閣の独占がうたわれた。ただし、軍機事項においては、軍部の「輔弼」を認めている。また、宮中における「輔弼」については、太政官達68号において「常侍輔弼」の制を明記し、内大臣(初代:三条実美)と宮中顧問官をそれに当たらせることにより、三条や宮中グループに一定の配慮を示した。ただし宮中の事務につき輔弼する宮内大臣には、それまで宮内卿であった伊藤が引き続く形で就任した。
伊藤と井上は大日本帝国憲法の起草に大きな役割を果たしたが、内閣と天皇をめぐる両者の思想は全く異なるものであり、帝国憲法には両者の妥協ともいえる規定の欠如が存在しており、大日本帝国憲法における内閣規定の欠如もその一つである。内閣の独自性を肯定する伊藤と天皇権力の内閣による制約を危惧する井上との妥協が図られたため、後の日本国憲法にみられるような内閣総理大臣の首長性と主権者に対する内閣の連帯責任規定のようなものは設けられず、上記のような各国務大臣の単独輔弼規定が設けられるに留まった。1889年には内閣官制が設けられているが、内閣総理大臣の地位の低下がみられる一方で、内閣の一体性を保つ配慮が図られた。一方で軍の帷幄上奏権は引き続き維持された。
伊藤と井上の妥協の産物としては枢密院の設置もあげられている。1888年の枢密院官制が成立し、枢密院は内閣と共に天皇の輔弼機関であると定められ、ここでも内閣の地位の後退がみられる。なお、初代の枢密院の議長は伊藤である。後に伊藤が枢密院議長を辞職すると、明治天皇の要請により元老制度が導入され、伊藤は黒田清隆と共に最初の元老となった。後にこの元老も輔弼の一端を担うようになり、輔弼権限の分散化は伊藤の政治的足跡と軌を一にするといえる。
何だか藩に殿様がいて執政が取り仕切っている体制をどう民主的なものにして行く経緯を書いているように読める。明治の初期は正に幕府が別のものに取って代わり、民主化をどのように形にし、実体は裏で大きな権力が働いた時期だ。其れに伊藤が異を唱え、ドロドロした.つまり「輔弼」を巡る政争が展開されている。そのような歴史を経て第日本帝国憲法が1889年に公布され翌1890年に施行された。更にその後、解釈や体制においても独自の進歩がされて行く様を確認できる。これが第日本帝国憲法も無い時代の経緯だ。
これは私達日本人は自分達で民主主義を進めて行く能力があると誇るところではないだろうか。其れを一足飛びに別の意図を含んで出来たのが現在の日本国憲法であるのだろう。
九条1つ議論するにしても、やれ朝鮮戦争が、やれマッカーサーが、吉田が、或いは北朝鮮が自衛隊が、と言う前に、独自の進化力、自浄力を認め、余計なものを除くだけで日本は国体を維持しながら時流に対応する能力を備えていると思いたい。後世に残す憲法は文言を付け加えて行くより、余計なものを除くことだと思う。極端に言えば憲法など要らないのかも知れない。
そんな議論を聞いてみたい。