20年4月の活動報告 | SEAWEST blog
新型コロナウイルスに関する情報について

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同人ゲーム制作サークル「SEAWEST」(しーうぇすと)のブログです。

こんばんは、缶三郎です。

なんと、早くも4月が終わってしまいました。

新年度の開始月であり例年であっても慌ただし4月ですが、
今年は輪をかけて、わけわからんうちに終わりましたね。

前回のブログでは
当初の予定を無視してコロナ関連で不安な心情を吐露しましたが、
お陰様でコロナに関しては割と気持ちは落ち着いております。

コロナに関していうと今月になって緊急事態宣言もでたことからもわかるように、
海外はいうに及ばず国内の感染者数も増加の一途です(新規感染者数は少し落ち着いてきた?)。

数字の上だけでなく、職場でも普段から関わりのある複数人に陽性者が出たこともあって、
現実的な感染リスクは先月以上に感じています。

その危機感から以前は疲労困憊だと風呂にも入らず寝てしまうようなズボラな自分が、
帰宅即シャワー&眼鏡とスマホの清拭は欠かさずに行うようにもなりました。
※これは僕自身にしかその凄さが伝わらないでしょうけど真に驚くべき事態です。

そんなこんなの厳しい状況下ではありますが
気持ちの面では先月ほどには不安定ではありません。

危機感は以前にも増してあっても、いくらか現実的な想定ができるようになってきたことで、
無闇な不安がなくなりつつあるのかもしれません。

とはいえ、コロナ以外にもいろんなことが起こるのも世の常ですね。
前回、人生一切皆苦だと書いたのもまさにというか。

降ってわいたように次々と色んなことに巻き込まれ、一息つく間もないという感じです。
(※万一の誤解ないように補足で、最近のTwitterでいくつかいただいたお誘い等とはまったく関係ありません)


感情もぐでんぐでんで、なにも手につきません。
このブログひとつまともに書けなくなりました(書き始めてたのを、一度中断しました)

勘弁してほしい……
ホントに平穏に過ごしたい……

しかし、文句を言っていても先に進まないので
強引に話戻して、今回は時節柄ともともとのブログのテーマである「ダンス」との折衷案として「身体性」について
語ってみようかと思います。

次作の春の日に道が続く(三)ではダンスと彫刻を扱ってみるつもりとは既に述べましたが、
それらの裏側は「身体性」というもので繋がっています(僕の中では)。

畢竟、春の日(三)の題材は「身体性」ということになるわけですが、
それはなにも春の日(三)に限ったことではなくて、この10年来のうっすらとしたテーマでもあります。

「あかね」も「春のうらら」も「春の日に道が続く(一)」も「老人と少女」も「Summer!」も
全部そうです。「身体性」は常に僕のなかでのテーマでした(うっすらと)。

それを強く意識するようになったのは、ちょうど創作を始めた頃に
養老孟司の『唯脳論』を読んでからだろうと思います。

高校生の頃、僕はいわゆる「脳科学」にハマった時期がありました。
血気盛んな頃はすぐに答えを知りたがるもので、紆余曲折というのは大嫌いです。
ゴールまでの最短距離をぶっちぎるぜ俺は!と思って、この世の真理を知るには「脳科学」が一番だろうと齧りついてみました。
神秘の脳!21世紀は脳の時代だ!
ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』とか、震えるほどに面白かったです。

「脳科学」系の本を手当たり次第に読んでいく中で、養老孟子氏の『唯脳論』(1989年)も知りました。
でも、当時は手を伸ばしませんでした。

古臭そうだったからです。
「脳科学」はなんせ時代の最先端科学!ですよ。自分がよちよち歩きしてた頃に出た本なんざカビ生えてら、と思ってました。

そういう性急さのもと、確たる知識もなく乏しい理解力の中で刺激的な情報ばかりを求める当然の帰結ですが、
すぐに「脳科学」、というよりも科学全般に絶望しました。

この世は脳の幻想が見せるだけの『マトリックス』(当時めちゃくちゃ流行してた)の世界と変わらないじゃないか。
確かなものなんて何もない。
目の前にあるものすら本当に在ると言えるのか。知覚する全ては神経の発火でしかない。
真理だって人間の認知限界に依存するだけのものでしかないじゃないか。
永遠に朝日の昇らない『ダークシティ』(こっちはまったく流行してなかった)の世界じゃないと、一体誰が証明できるんだ!?

ひねくれました。

「学びて思わざればすなわちくらく、思いて学ばざればすなわちあやし」という
孔子の戒めのことばを知ったのは後年のことです。

将来の夢は博士!みたいな素朴なパンピーでしたが
なんちゃってニヒリズムに陥ってしまい、科学に勝手に見切りをつけてしまったので、
進路も文転するに至りました(ほかにも理由ありましたけど)


紆余曲折あって、大学生になってから『唯脳論』(ちくま学芸文庫版)を読みました。
それまではタイトルが『唯脳論』というくらいなので、神羅万象をいわゆる脳の認知機能に還元する類のよくある過激派「脳科学」本だと
思ってましたが、全くの誤解でした。
「脳は哲学より広く、世界は脳より広い。」と本書の中で明言してることからもそれはわかります、

今更言うまでもないかもしれませんが、養老氏はいわゆる「脳科学者」ではなく解剖学者です。
脳と意識の関係を形態学の延長として捉えられています。
脳と意識の問題を、構造と機能の対応関係に還元します。

わかりやすい例として挙げられるのが心臓血管系の話です。「心臓」が構造で「循環」が機能とします。
心臓の生体器官としての本質的意義は循環という働きですが、それはいくら心臓や血管を解剖してみたところで見つかりません。
構造を分解しても機能はありません。
また別の例として解剖学の実習で学生に「肛門の重さを測れ」といった際の話も出てきます。
肛門の周囲の皮膚を切って測ってもダメで、消化管の出口という機能を有する「肛門」には対応する実体がないというオチです。

同じように構造と機能として脳と意識の関係を捉えてみれば、
ただそれだけのことだということがわかります。
「構造と機能とは、同じものの異なる『見方』に過ぎない」と書かれています。

自分はキリスト教徒ではなかったですが
本書を読んで目から鱗が落ちるような気がしたことを覚えています。

デカルトの「われ思うゆえにわれあり」とのことばはあまりに有名ですが、
そこまで突き詰めて考えなくても「意識」あるいは「精神」を特別視するのは、ごく一般的な感覚だと思います。
 

その感覚が高じていくと心身二元論に繋がっていくんでしょう。
そして更に、意識と肉体の上下関係が生まれて、意識ばかりが神聖なものとして持ち上げられるようになります。

無宗教の人でも精神論が大好きだったりしますね。
僕も思春期の頃はそうでした。肥大化する自意識と相まって、ちょっと手がつけられないほど。

自分(精神)が変われば世界も変わる。
セカイ系の世界観とでも言うのでしょうか。
エヴァ大好きでした。(※今でも大好きです)

ですが、肉体から独立した精神なんて存在しないわけです。
肉体と精神は見え方の違いです。

『唯脳論』では
「どんなに高い玉座に昇るにしても、座っているのは自分の尻の上」
というモンテーニュのことばを引いてましたが、これ以上ないほどに、しっくりときました。

表面的な「脳科学」によるなんちゃってニヒリズムに陥ることもなく、
ある種の諦念と共にそんなもんだよなと受け入れられました。

そこからは自分のものの見方も変わり、
「身体」(肉体としての脳を含む)というものを強く意識するようになります。

いわゆるノベルゲームの有力な武器である「選択肢」というのを
僕が今まで使ってないのもそこに理由があります。

肉体(環境)から独立して「自由に選択できる」自由意志というのものを僕は認めていないからです。
※「あかね」には選択肢っぽいものがありますけど、あれは僕の中では選択肢でもルート分岐でもないのです。拙すぎてその意図が伝わってないですが。

以上のような経緯があり「身体性」というのをいつも考えてはいましたが、
ゲームにはうっすらとしか反映していません。

具体的にどう反映させたらお話を面白くできるのか、というのが見えてませんでした。

今も別に大して見えてないのですが……
まあ、彫刻とダンスを使えばもうちょい「身体性」に接近できるかなと思いついたので、
春の日(三)で取り入れてみることにしました。

挑戦というやつです。
なにごともやってみないことには一向先に進みませんからね。

『唯脳論』において養老氏は認知機能の大きな2つの系統として「視覚系」と「聴覚-運動系」をあげています。
その本来的には別の系を「連合」させる大脳皮質の働きこそ人間ならではの面白さがあるとしています(※面白いとは言ってないかもしれません)。

もちろん彫刻は「視覚系」に、ダンスは「聴覚-運動系」に対応するわけですが、
春の日に道が続く(三)では、うまく「連合」のところまで持っていけるといいなと夢想しています。



ちなみに、こっからは春の日(三)からは外れる余談ですが「身体性」に関連して

 

僕は仏教徒ではないのですが、

この世に真理なるものがあるとするのならば、それは仏教の教え説くところのものだろうと疑いなく信じています。
 

だから日々の戒めとして般若心経を毎日音読してますが、

有名な「色即是空」ということばからもわかる通り、仏教では色(形のあるもの)は空(存在しないもの)だとしています。

 

「無眼耳鼻舌身意」というくらいで、見ることも聞くことも嗅ぐこと味わうこと肌に感じることも心の働きも全部「無い」としています。

きっと、真理としてはそうなのだろうと思うのです。

 

ですが、「はいそうですね」と実感はできないのが凡夫の凡夫たるゆえんです。

たとえばこの前も、ちょっとした歯科治療中のアクシデントに遭遇しましたが、まじで心が折れました(歯も折れましたし下顎内壁も)。

 

診察台の上で途中から、このまま進めるとまじで発狂するぞ!いいのか!?30過ぎのおっさんが発狂するぞ!?

みたいな気分でしたし、その後の精根尽きた敗残兵の気分での帰路を生涯忘れることはないだろうと思うわけです。

 

そんなときに「照見五蘊皆空 度一切苦厄」とか必死に思ってみるのですが、そんなわけないだろ!と心の中でノリツッコミすることになるわけです。

こんなにクソ痛いのが空なわけあるかボケ!と心の底から思います(だから凡夫なんですけど)

 

痛みというのは究極のリアルです。

 

その昔、中学生の頃に「R-17」 というドラマが学校で流行ったことがあります(エロかったから)。

いろんな社会問題をセンセーショナルに描いたドラマでしたが、それの予告CMのベッドシーンで「生きてる実感が欲しいだろ」みたいなセリフとともに男が女の子の肌にナイフかなんかで傷をつけて鮮血が滴るわけです。そんで女の子はどんどんとその危ない男に惹かれていってしまうわけです(ぜんぶうろ覚えですけど)

 

……わかる。わかるよ。

(注射一本恐れる僕としては信じられないわけですが、なんとなく)

 

痛覚はそれだけ刺激的なので。

性的快感と痛みの組み合わせなんて、もう究極的な肉体の主張でしょう。

これ以上ないほどに実感としての「身体」を感じさせてくれます。生きてるよ。

 

そういう生々しい「身体」を簡単に「空」と見なすことはできないので(だからこその「悟り」です)、

凡夫は凡夫なりに「身体性」を追求していきたいと思っています。

といって痛いのは描きません。痛いのは嫌いです。

 


今月は外出自粛でろくに写真も撮ってません。入院中の写真を張ってもしょうがいないので買い物途中のカラスです。

はやく旅行したいですね。