SEAWEST blog

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同人ゲーム制作サークル「SEAWEST」(しーうぇすと)のブログです。

こんばんは、缶三郎です。

なんと、早くも4月が終わってしまいました。

新年度の開始月であり例年であっても慌ただし4月ですが、
今年は輪をかけて、わけわからんうちに終わりましたね。

前回のブログでは
当初の予定を無視してコロナ関連で不安な心情を吐露しましたが、
お陰様でコロナに関しては割と気持ちは落ち着いております。

コロナに関していうと今月になって緊急事態宣言もでたことからもわかるように、
海外はいうに及ばず国内の感染者数も増加の一途です(新規感染者数は少し落ち着いてきた?)。

数字の上だけでなく、職場でも普段から関わりのある複数人に陽性者が出たこともあって、
現実的な感染リスクは先月以上に感じています。

その危機感から以前は疲労困憊だと風呂にも入らず寝てしまうようなズボラな自分が、
帰宅即シャワー&眼鏡とスマホの清拭は欠かさずに行うようにもなりました。
※これは僕自身にしかその凄さが伝わらないでしょうけど真に驚くべき事態です。

そんなこんなの厳しい状況下ではありますが
気持ちの面では先月ほどには不安定ではありません。

危機感は以前にも増してあっても、いくらか現実的な想定ができるようになってきたことで、
無闇な不安がなくなりつつあるのかもしれません。

とはいえ、コロナ以外にもいろんなことが起こるのも世の常ですね。
前回、人生一切皆苦だと書いたのもまさにというか。

降ってわいたように次々と色んなことに巻き込まれ、一息つく間もないという感じです。
(※万一の誤解ないように補足で、最近のTwitterでいくつかいただいたお誘い等とはまったく関係ありません)


感情もぐでんぐでんで、なにも手につきません。
このブログひとつまともに書けなくなりました(書き始めてたのを、一度中断しました)

勘弁してほしい……
ホントに平穏に過ごしたい……

しかし、文句を言っていても先に進まないので
強引に話戻して、今回は時節柄ともともとのブログのテーマである「ダンス」との折衷案として「身体性」について
語ってみようかと思います。

次作の春の日に道が続く(三)ではダンスと彫刻を扱ってみるつもりとは既に述べましたが、
それらの裏側は「身体性」というもので繋がっています(僕の中では)。

畢竟、春の日(三)の題材は「身体性」ということになるわけですが、
それはなにも春の日(三)に限ったことではなくて、この10年来のうっすらとしたテーマでもあります。

「あかね」も「春のうらら」も「春の日に道が続く(一)」も「老人と少女」も「Summer!」も
全部そうです。「身体性」は常に僕のなかでのテーマでした(うっすらと)。

それを強く意識するようになったのは、ちょうど創作を始めた頃に
養老孟司の『唯脳論』を読んでからだろうと思います。

高校生の頃、僕はいわゆる「脳科学」にハマった時期がありました。
血気盛んな頃はすぐに答えを知りたがるもので、紆余曲折というのは大嫌いです。
ゴールまでの最短距離をぶっちぎるぜ俺は!と思って、この世の真理を知るには「脳科学」が一番だろうと齧りついてみました。
神秘の脳!21世紀は脳の時代だ!
ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』とか、震えるほどに面白かったです。

「脳科学」系の本を手当たり次第に読んでいく中で、養老孟子氏の『唯脳論』(1989年)も知りました。
でも、当時は手を伸ばしませんでした。

古臭そうだったからです。
「脳科学」はなんせ時代の最先端科学!ですよ。自分がよちよち歩きしてた頃に出た本なんざカビ生えてら、と思ってました。

そういう性急さのもと、確たる知識もなく乏しい理解力の中で刺激的な情報ばかりを求める当然の帰結ですが、
すぐに「脳科学」、というよりも科学全般に絶望しました。

この世は脳の幻想が見せるだけの『マトリックス』(当時めちゃくちゃ流行してた)の世界と変わらないじゃないか。
確かなものなんて何もない。
目の前にあるものすら本当に在ると言えるのか。知覚する全ては神経の発火でしかない。
真理だって人間の認知限界に依存するだけのものでしかないじゃないか。
永遠に朝日の昇らない『ダークシティ』(こっちはまったく流行してなかった)の世界じゃないと、一体誰が証明できるんだ!?

ひねくれました。

「学びて思わざればすなわちくらく、思いて学ばざればすなわちあやし」という
孔子の戒めのことばを知ったのは後年のことです。

将来の夢は博士!みたいな素朴なパンピーでしたが
なんちゃってニヒリズムに陥ってしまい、科学に勝手に見切りをつけてしまったので、
進路も文転するに至りました(ほかにも理由ありましたけど)


紆余曲折あって、大学生になってから『唯脳論』(ちくま学芸文庫版)を読みました。
それまではタイトルが『唯脳論』というくらいなので、神羅万象をいわゆる脳の認知機能に還元する類のよくある過激派「脳科学」本だと
思ってましたが、全くの誤解でした。
「脳は哲学より広く、世界は脳より広い。」と本書の中で明言してることからもそれはわかります、

今更言うまでもないかもしれませんが、養老氏はいわゆる「脳科学者」ではなく解剖学者です。
脳と意識の関係を形態学の延長として捉えられています。
脳と意識の問題を、構造と機能の対応関係に還元します。

わかりやすい例として挙げられるのが心臓血管系の話です。「心臓」が構造で「循環」が機能とします。
心臓の生体器官としての本質的意義は循環という働きですが、それはいくら心臓や血管を解剖してみたところで見つかりません。
構造を分解しても機能はありません。
また別の例として解剖学の実習で学生に「肛門の重さを測れ」といった際の話も出てきます。
肛門の周囲の皮膚を切って測ってもダメで、消化管の出口という機能を有する「肛門」には対応する実体がないというオチです。

同じように構造と機能として脳と意識の関係を捉えてみれば、
ただそれだけのことだということがわかります。
「構造と機能とは、同じものの異なる『見方』に過ぎない」と書かれています。

自分はキリスト教徒ではなかったですが
本書を読んで目から鱗が落ちるような気がしたことを覚えています。

デカルトの「われ思うゆえにわれあり」とのことばはあまりに有名ですが、
そこまで突き詰めて考えなくても「意識」あるいは「精神」を特別視するのは、ごく一般的な感覚だと思います。
 

その感覚が高じていくと心身二元論に繋がっていくんでしょう。
そして更に、意識と肉体の上下関係が生まれて、意識ばかりが神聖なものとして持ち上げられるようになります。

無宗教の人でも精神論が大好きだったりしますね。
僕も思春期の頃はそうでした。肥大化する自意識と相まって、ちょっと手がつけられないほど。

自分(精神)が変われば世界も変わる。
セカイ系の世界観とでも言うのでしょうか。
エヴァ大好きでした。(※今でも大好きです)

ですが、肉体から独立した精神なんて存在しないわけです。
肉体と精神は見え方の違いです。

『唯脳論』では
「どんなに高い玉座に昇るにしても、座っているのは自分の尻の上」
というモンテーニュのことばを引いてましたが、これ以上ないほどに、しっくりときました。

表面的な「脳科学」によるなんちゃってニヒリズムに陥ることもなく、
ある種の諦念と共にそんなもんだよなと受け入れられました。

そこからは自分のものの見方も変わり、
「身体」(肉体としての脳を含む)というものを強く意識するようになります。

いわゆるノベルゲームの有力な武器である「選択肢」というのを
僕が今まで使ってないのもそこに理由があります。

肉体(環境)から独立して「自由に選択できる」自由意志というのものを僕は認めていないからです。
※「あかね」には選択肢っぽいものがありますけど、あれは僕の中では選択肢でもルート分岐でもないのです。拙すぎてその意図が伝わってないですが。

以上のような経緯があり「身体性」というのをいつも考えてはいましたが、
ゲームにはうっすらとしか反映していません。

具体的にどう反映させたらお話を面白くできるのか、というのが見えてませんでした。

今も別に大して見えてないのですが……
まあ、彫刻とダンスを使えばもうちょい「身体性」に接近できるかなと思いついたので、
春の日(三)で取り入れてみることにしました。

挑戦というやつです。
なにごともやってみないことには一向先に進みませんからね。

『唯脳論』において養老氏は認知機能の大きな2つの系統として「視覚系」と「聴覚-運動系」をあげています。
その本来的には別の系を「連合」させる大脳皮質の働きこそ人間ならではの面白さがあるとしています(※面白いとは言ってないかもしれません)。

もちろん彫刻は「視覚系」に、ダンスは「聴覚-運動系」に対応するわけですが、
春の日に道が続く(三)では、うまく「連合」のところまで持っていけるといいなと夢想しています。



ちなみに、こっからは春の日(三)からは外れる余談ですが「身体性」に関連して

 

僕は仏教徒ではないのですが、

この世に真理なるものがあるとするのならば、それは仏教の教え説くところのものだろうと疑いなく信じています。
 

だから日々の戒めとして般若心経を毎日音読してますが、

有名な「色即是空」ということばからもわかる通り、仏教では色(形のあるもの)は空(存在しないもの)だとしています。

 

「無眼耳鼻舌身意」というくらいで、見ることも聞くことも嗅ぐこと味わうこと肌に感じることも心の働きも全部「無い」としています。

きっと、真理としてはそうなのだろうと思うのです。

 

ですが、「はいそうですね」と実感はできないのが凡夫の凡夫たるゆえんです。

たとえばこの前も、ちょっとした歯科治療中のアクシデントに遭遇しましたが、まじで心が折れました(歯も折れましたし下顎内壁も)。

 

診察台の上で途中から、このまま進めるとまじで発狂するぞ!いいのか!?30過ぎのおっさんが発狂するぞ!?

みたいな気分でしたし、その後の精根尽きた敗残兵の気分での帰路を生涯忘れることはないだろうと思うわけです。

 

そんなときに「照見五蘊皆空 度一切苦厄」とか必死に思ってみるのですが、そんなわけないだろ!と心の中でノリツッコミすることになるわけです。

こんなにクソ痛いのが空なわけあるかボケ!と心の底から思います(だから凡夫なんですけど)

 

痛みというのは究極のリアルです。

 

その昔、中学生の頃に「R-17」 というドラマが学校で流行ったことがあります(エロかったから)。

いろんな社会問題をセンセーショナルに描いたドラマでしたが、それの予告CMのベッドシーンで「生きてる実感が欲しいだろ」みたいなセリフとともに男が女の子の肌にナイフかなんかで傷をつけて鮮血が滴るわけです。そんで女の子はどんどんとその危ない男に惹かれていってしまうわけです(ぜんぶうろ覚えですけど)

 

……わかる。わかるよ。

(注射一本恐れる僕としては信じられないわけですが、なんとなく)

 

痛覚はそれだけ刺激的なので。

性的快感と痛みの組み合わせなんて、もう究極的な肉体の主張でしょう。

これ以上ないほどに実感としての「身体」を感じさせてくれます。生きてるよ。

 

そういう生々しい「身体」を簡単に「空」と見なすことはできないので(だからこその「悟り」です)、

凡夫は凡夫なりに「身体性」を追求していきたいと思っています。

といって痛いのは描きません。痛いのは嫌いです。

 


今月は外出自粛でろくに写真も撮ってません。入院中の写真を張ってもしょうがいないので買い物途中のカラスです。

はやく旅行したいですね。

こんばんは、缶三郎です。

なんというか、なんというかな昨今ですね。

ここ2週間ほどで自分も含めて世間の空気感がずいぶんと変わったような気がします。
NHKスペシャルの「パンデミックとの闘い」はなかなかにインパクトが大きく、良い番組でした。

それまでも経済的影響は計り知れないとは思ってましたし、実務的影響も既にモロにありましたが、
それでも自身や周囲の人の健康や生命自体はなんとかなるだろうと高をくくってました。

感染自体は広がっても、
国のお偉方たちがなんとかして感染爆発は抑えられるのではないのかなと。

中国やイタリアなどの状況は知りつつも、まさか本当に日本において医療崩壊が起きるなんてことはないだろうと
対岸の火事として見てましたよ。

Twitterなどでよく見聞きする正常性バイアスというやつですか。
やっかいですね、ほんと。

日々刻々と状況が悪化して恐怖を感じるようになりましたし、
これからもっと肌に感じていくようになりそうです。

自分の人生においても根本的な影響が出る状況として、
考え方自体を変えて生きていかないといけない事象なんでしょうね。

さて、そんなところで
本ブログの本題であるところの創作活動について書いていきます。

進捗は例によって目に見える形ではございません。

設定やらの土台部分を形成しております(もうちょいで終わります)


前回、次のブログでは「ダンスと僕」について書くと言いましたが、
今回は、時流を鑑みて別のことを述べてみようかなと思います。

せっかく月毎でやってるわけですし、

ある程度タイムリーな心情を絡ませた方が数年後とかに見直した時に面白そうです。


今現在、上記に書いたようなことから僕は不安なのですが、
そういう不安な時というものは、自分が行っていることの意義やらなにやらを考えてしまいませんか。

こんなことしていてなんか意味があるんだろうか、とか。
つまらないことやってないで、他にやるべきことがあるんじゃないだろうか、とか。

以前、しょっちゅうそういうことを思う時期がありました。


例えば3.11の震災では、それまで強固に感じていた日常生活というものがはじめて大きく揺さぶられました。
ちょうど大学を卒業して今の仕事の進路に進学した時だったのですが、こんなことやっていていいのかなと悩みました。
自分はいつまで「学生」なんてモラトリアムに甘んじているんだと苦々しく感じました。

また、それから数年後。
めでたく希望の仕事に就職したはいいけれど、日々自分の無能を思い知らされ、
毎日のように通勤電車の前に飛び込んで楽になりたいと妄想してました。

そういう時期には、それまで好きだったはずの創作物が、とても軽いもののように思えました。
どれほど熱を入れて好きだった漫画もアニメもゲームも小説も、そこにあるだけで何の足しにもならない無価値なもののように思えました。

ましてや自分の作る拙い創作物にいかほどの価値があるのか。
そんなものを作るという行為にどれほどの意義があるのか。
すでにSEAWEST立ち上げてゲーム作ってましたが、内心では常に虚無感に襲われていました。

そもそも僕が創作をはじめたきっかけは、
根暗な学生時代、生きづらさを創作物に救ってもらったような気がしていたからです。

一部の人間は中高校生にもなると世の中のうんこさに辟易として勝手に窒息して死にそうになるものですが、
そういう生きづらい空気感、うんこ感も創作物に描かれて見せられると救われる気がするものです。


だからそういう、うんこ感を書くことによって誰か自分に似たよう人を救えるのではないかと思っていました。
ある種の恩返し的に思っていたのかもしれません。

それが創作の出発点でしたが、次第に自分が窮地に立たされるたび、

本当に苦しい時には創作って無力なんだな、と悲しい気持ちに浸ります。
当初の目的は浸食され、ぼろぼろと崩れてゆきます。

そうすると、
人のことをとやかく考える前に自分の人生どうにかしなければと考えるようになります。
創作に時間や費用や手間を費やすくらいなら、旅行したり美味しいもの食べたりした方がよっぽど人生に彩りを与えてくれるじゃないですか。


時間とお金は有意義に使いましょう。
素晴らしき合理的経済人と化していきました(ほんとか?)。

しかしですよ。
なんやかんやと言いつつ今日まで生きながらえてみますと、人生は割といつ何時だって苦しいもんだと気づきます。
なにをしていようと、未来に備えていようとも、自己原因でも環境原因でも、なんやかんやで苦しい状況というのは巡ってきます。

一切皆苦です。

もうこればっかりはしょうがない。そういうものなんでしょう。
子供には子供の、大人には大人の、男には男の、女には女の苦しみがあります。

人から見て良い人生送ろうが悪い人生送ろうが、皆一様に苦しいもんです(たぶん。違う人いたら羨ましいです)。

もちろん楽しい時に楽しいという感情を否定するつもりは毛頭ありません。
ハッピーな時はハッピーに過ごしましょう。僕もちょくちょくハッピーなことはあります。
素敵なことです。ありがたいことです。

ただ悲しいことに、往々にして人生は苦しい時の方が長い気がします。

そういう苦しい時に、紙一重で生きながらえさせてくれるもの。
束の間、常世を忘れて憂さを晴らさせてくれるもの。
そういう体験を与えてくれるものが、創作物の真骨頂だろうと最近は思うわけです。

美味しいものや素敵な旅行も良いですが、
自己を離れて感じる他者視点での他者の物語という、創作物の体験としての面白さはやっぱり特別だなと思います。

一瞬の気晴らし。
それで十分だし、それができたら凄いことだなと最近は思います。
ほんのわずかな明日への活力につながります。

そういうものが作れるのなら、頑張ってみようかなと思えます。
そして、なんとなく自分になら作れそうな気もします。

新鮮なお話をお届けして、人生の気晴らしとして楽しんでもらえるんじゃないかなと思うのです。

まあ、そんなような期待を込めまして、春の日に道が続く(三)を作っていきます。

 

ここにきて雪積もりもましたね! 3月29日、雪に埋もれたつくしです。

こんばんは、缶三郎です。

気候は春に向かって暖かな日も多くなり気持ちが上向いてきそうなものですが、
なかなかに世間は厳しい状況ですね。僕自身もなかなか厳しくて、さっそく月毎のブログ書くのが遅れています。

先週末は北海道で非常事態宣言がでましたが、まさか「非常事態宣言」なんて、
漫画アニメ等でおなじみすぎる語を実際に耳にすることになるとは感慨深いような悲しいような気持ちです。

僕はテレビのない生活なので(買わなきゃと思いつつ早2年が経過しました)
まだマシかもしれませんがTwitterなどを見てるだけでも気が滅入りそうです。

さて、2月の進捗ですが春の日(三)の土台部分の取材・勉強を進めています。

今回の春の日(三)では、自分の中では馴染みのなかったものをいくつか取り扱ってみようかなと思っています。

春の日(三)は温かな冬編と冷たい冬編との二編構成の予定ですが、
温かな冬の話で「ダンス」を、冷たい冬の話で「彫刻」を扱うつもりです。

扱うと言っても話の題材というほど正面切って描くわけではないので、
どちらかというと小道具という位置づけでしょうか。

ダンスにしろ、彫刻にしろ、
なんとも背伸びしてるのがばればれな感じも致します。

ただ、あえてそれらに手を出そうとするのにはいくつか理由があります。
ありますが、根本の動機としてはひとつで「挑戦」がしたいという思いです。

数年前のことですが、とある尊敬している方に「『春の日に道が続く』には挑戦がない」と言われました。
その方は『春のうらら』を気に入ってくれていましたが、次作である「春の日(一)」は「うらら」とまた同じことをやっている(から、取るに足らない)と面と向かって言われました。

それはショックを受けたものですが、自分でも思い当たるからこその耳に痛いことばでした。

当初から連作構想のあった春の日はうらら以降を描きたかったので、
出発点としてざっくりとうらら的なものを描いて終えてしまおうとの思いがありました。

次からなんですよ!という反論したい気持ちもありましたが、
春の日(一)に限っていえば真実そういう志の低いものだったので、
それが取るに足らないものと言われても口をつぐむしかありません。

一歩目はほどほどみたいな気持ちで作って、
じゃあ、二歩目で軽やかなステップが踏めるかといえばそんなわけがないんです。

目先の一歩を大事にしないで、その後の跳躍は果たせない。
精神論のようですが、物語は精神でできておりますから、それはそのまま結果にも結びつきます。

大反省と共に、起死回生を図って春の日(二)の『Summer!』を作りました。

果たしてSummer!にて起死回生できたのか、首の皮一枚繋がっているのかどうなのか。
そのあたりは自ずとわかってくるのだろうと思って、続いて春の日(三)にぶち当たっていく所存です。

「挑戦」に拘っている理由、
馴染みのないものに手を伸ばそうとする気持ちも察しがつくのではないかと思います。

ちなみに言い訳じみたこというと、もちろん話の中で取り扱う題材、ましてや小道具を変えたぐらいで
挑戦だとか呑気なことを言うつもりはございません。

ただ今まで自分の中になかった観点、目を向けてこなかったものを通して別の角度から物事を見てみること、
それらが巡り巡って今後の「挑戦」に繋がってくるだろうと思った次第です。

導入が長い。

本当は絶賛勉強中の「彫刻」について語ろうかと思っていたのですが、
相変わらずブログはその場の勢いだけで書いてるので、当初の思惑が破綻しておりますね。

今回のを反省に、次回からは少しは構成立てて書いてみることにしますが、
とりあえず今回はこのまま行けるところまで書き進めます。


もうすぐにでもガス欠しそうですが、
題目は「彫刻と僕」です。


僕は子供の頃から粘土が嫌いでした。

粘土は柔軟で子供の手でも扱いやすく、可塑性に富み、立体造形をするための最良に近い材料だと思いますが、
その粘土でなにかを作れと言われても、自分には粘土そのもの以外の「なにか」が作れませんでした。

幼稚園、小学校、中学校と図画工作や美術やらの時間は好きでしたが粘土だけは嫌いでした。

それがたとえば絵であれば、
幼稚園の頃にたんぽぽの花は小さい花びらの単純な形を幾重にも描き付けていけばそれっぽく見えることを発見した喜び、それを見た母親に褒められた感動、
小学生の頃に虫の図鑑を模写したら友達に驚かれ、それを描いたただのノートの切れ端が欲しいと求められた嬉しさ、
そういう原体験がありました。

写実的に根気よく描けばすごいと言って褒められる。
油絵などはその最たるもので、対象に当たる光の照りや陰までをも写すことができるから一番のお気に入りでした。
無心に没頭できる感覚、そして気づけば紙上に「対象」が現れているのがなんとも心地よかったです。大好きでした。

ところがどっこい。

粘土相手となると全てが空回りします。
根気よくこねくり回してみても、一向に対象に近づきません。

いつまで経っても粘土は粘土の塊でしかありません。
粘土から写すべき対象には変じ得ません。

そもそも粘土は表面が汚い。
油粘土だとすぐにゴミやらビーズなどをくっつけてしまうし、
紙粘土は紙粘土で捏ねてるうちに乾いてボロボロと端から崩れてしまう。

不細工な粘土細工。
許容できない。

粘土の粘土感。
粘土はあまりにも生々しく、頑なに、汚らしい粘土という存在感を捨ててくれません。
麻のキャンバスのような三歩下がって引き立ててくれるようなお淑やかさがありません。

彫刻はある種の不自由さを楽しむものだそうですが、
思い通りに行かないことを楽しめるのは自信がある人だけです。
粘土相手では端から自信をつけさせてもらえることもなく初戦敗退でした。

あとは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というやつです。
粘土嫌い、立体造形嫌い、彫刻嫌いとなったわけです。

※高校で陶芸やってからは素材としての粘土は好きになりました。

そりゃミケランジェロなどは見るからに凄いなと思っていましたし、
心に訴えるものがあったジャコメッティの作品などは好きでしたが、それらはごく一部の例外です。
様々な画家の絵が好きだったのとは対照的に彫刻には興味がありませんでした。

近代彫刻の巨人、ロダンは「青銅時代」があまりにリアルなものだったために実際の人間から型取りしたと難癖つけられたそうですが
そんなら実際に人間で型取ればいいじゃんと思う程度には冷めてました。

ダ・ヴィンチやボードレールが彫刻は絵画と違って視点の定まらない脆弱なもの、
長持ちすることだけが取り柄の絵画の下位に属するものであるとの評価を下していたのも納得です。

それがなにがきっかけだったのかよくわかりませんが、
数年前から自分の中で認識が少し変わっていきました。

時代はARとかVRとかですが、逆に視覚だけに頼らない物体の確かさが面白いと感じるようになりました。

素材そのもの重さ、塊、「彫刻」の分野ではマッスと表現するそうですが、そういう「量感」そのもの。
そういうのに惹かれはじめました。

認知科学のアフォーダンスの勉強などを通じて実体の広がりや奥深さを感じたからかもしれませんし、
仏教を知っていくなかで信仰の拠り所として存在してきた仏像に思い馳せる機会が増えたからかもしれません。

木像にしろ、石像にしろ、ブロンズ像にしろ。
堂々と、頑なにそこにあるもの。

手で触れることのできるもの、重さを感じることのできるもの、存在そのもの。

木や石や金属の物質としての存在感と、像として表されるものとの認識の交差と統合が、ある種の酩酊感を呼び起こします。

あるいはもっと抽象的にいえば、
ロダニズムの近代彫刻家兼詩人の高村光太郎が言うところの生<ラ・ヴィ>というもの、彫刻の生命。
そういうなにか不思議な、ほのめくなにかを彫刻に感じるようになってきました。

なんじゃそりゃと言われるか、そんな当たり前のことを今更と言われるかはわかりませんが、
想像、空想をする余地とでもいうのでしょうか。

彫刻において表面の写実性、皮膚の再現は御法度だそうです。
たとえ実際の人物をモデルにした具象彫刻であっても、肉体そのものを目指しているわけではありません。

ボリュームとシルエットが彫刻であって、本物の肉体と比べれば端から欠けている存在です。
その欠落を埋めるように、純粋な造形美が自然と生起させるものが生<ラ・ヴィ>なのではないかと思うのです。

……なんて、まだ彫刻をろくに知らないのに舌っ足らずに語ってみても恥ずかしいだけなのでこれ以上は自重します。
簡潔に言えば、新鮮で面白いということです。


そんなことを思いつつ、彫刻を見ていくと今までとは違った見方、面白い発見があって楽しいです。
奥深い世界だと思います。

自分が知らないだけで豊潤な世界はまだまだいくらでもあるのですよ。
物を知るというのはやっぱり楽しいですね。

以上。


次回は彫刻に輪をかけて縁の無かった世界、ダンスについて述べます。
「ダンスと僕」です。

では、また。


※写真は春一番が吹いた日(2/22)の町田です。早く春になるといいですね。