20年2月の進捗報告 | SEAWEST blog

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同人ゲーム制作サークル「SEAWEST」(しーうぇすと)のブログです。

こんばんは、缶三郎です。

気候は春に向かって暖かな日も多くなり気持ちが上向いてきそうなものですが、
なかなかに世間は厳しい状況ですね。僕自身もなかなか厳しくて、さっそく月毎のブログ書くのが遅れています。

先週末は北海道で非常事態宣言がでましたが、まさか「非常事態宣言」なんて、
漫画アニメ等でおなじみすぎる語を実際に耳にすることになるとは感慨深いような悲しいような気持ちです。

僕はテレビのない生活なので(買わなきゃと思いつつ早2年が経過しました)
まだマシかもしれませんがTwitterなどを見てるだけでも気が滅入りそうです。

さて、2月の進捗ですが春の日(三)の土台部分の取材・勉強を進めています。

今回の春の日(三)では、自分の中では馴染みのなかったものをいくつか取り扱ってみようかなと思っています。

春の日(三)は温かな冬編と冷たい冬編との二編構成の予定ですが、
温かな冬の話で「ダンス」を、冷たい冬の話で「彫刻」を扱うつもりです。

扱うと言っても話の題材というほど正面切って描くわけではないので、
どちらかというと小道具という位置づけでしょうか。

ダンスにしろ、彫刻にしろ、
なんとも背伸びしてるのがばればれな感じも致します。

ただ、あえてそれらに手を出そうとするのにはいくつか理由があります。
ありますが、根本の動機としてはひとつで「挑戦」がしたいという思いです。

数年前のことですが、とある尊敬している方に「『春の日に道が続く』には挑戦がない」と言われました。
その方は『春のうらら』を気に入ってくれていましたが、次作である「春の日(一)」は「うらら」とまた同じことをやっている(から、取るに足らない)と面と向かって言われました。

それはショックを受けたものですが、自分でも思い当たるからこその耳に痛いことばでした。

当初から連作構想のあった春の日はうらら以降を描きたかったので、
出発点としてざっくりとうらら的なものを描いて終えてしまおうとの思いがありました。

次からなんですよ!という反論したい気持ちもありましたが、
春の日(一)に限っていえば真実そういう志の低いものだったので、
それが取るに足らないものと言われても口をつぐむしかありません。

一歩目はほどほどみたいな気持ちで作って、
じゃあ、二歩目で軽やかなステップが踏めるかといえばそんなわけがないんです。

目先の一歩を大事にしないで、その後の跳躍は果たせない。
精神論のようですが、物語は精神でできておりますから、それはそのまま結果にも結びつきます。

大反省と共に、起死回生を図って春の日(二)の『Summer!』を作りました。

果たしてSummer!にて起死回生できたのか、首の皮一枚繋がっているのかどうなのか。
そのあたりは自ずとわかってくるのだろうと思って、続いて春の日(三)にぶち当たっていく所存です。

「挑戦」に拘っている理由、
馴染みのないものに手を伸ばそうとする気持ちも察しがつくのではないかと思います。

ちなみに言い訳じみたこというと、もちろん話の中で取り扱う題材、ましてや小道具を変えたぐらいで
挑戦だとか呑気なことを言うつもりはございません。

ただ今まで自分の中になかった観点、目を向けてこなかったものを通して別の角度から物事を見てみること、
それらが巡り巡って今後の「挑戦」に繋がってくるだろうと思った次第です。

導入が長い。

本当は絶賛勉強中の「彫刻」について語ろうかと思っていたのですが、
相変わらずブログはその場の勢いだけで書いてるので、当初の思惑が破綻しておりますね。

今回のを反省に、次回からは少しは構成立てて書いてみることにしますが、
とりあえず今回はこのまま行けるところまで書き進めます。


もうすぐにでもガス欠しそうですが、
題目は「彫刻と僕」です。


僕は子供の頃から粘土が嫌いでした。

粘土は柔軟で子供の手でも扱いやすく、可塑性に富み、立体造形をするための最良に近い材料だと思いますが、
その粘土でなにかを作れと言われても、自分には粘土そのもの以外の「なにか」が作れませんでした。

幼稚園、小学校、中学校と図画工作や美術やらの時間は好きでしたが粘土だけは嫌いでした。

それがたとえば絵であれば、
幼稚園の頃にたんぽぽの花は小さい花びらの単純な形を幾重にも描き付けていけばそれっぽく見えることを発見した喜び、それを見た母親に褒められた感動、
小学生の頃に虫の図鑑を模写したら友達に驚かれ、それを描いたただのノートの切れ端が欲しいと求められた嬉しさ、
そういう原体験がありました。

写実的に根気よく描けばすごいと言って褒められる。
油絵などはその最たるもので、対象に当たる光の照りや陰までをも写すことができるから一番のお気に入りでした。
無心に没頭できる感覚、そして気づけば紙上に「対象」が現れているのがなんとも心地よかったです。大好きでした。

ところがどっこい。

粘土相手となると全てが空回りします。
根気よくこねくり回してみても、一向に対象に近づきません。

いつまで経っても粘土は粘土の塊でしかありません。
粘土から写すべき対象には変じ得ません。

そもそも粘土は表面が汚い。
油粘土だとすぐにゴミやらビーズなどをくっつけてしまうし、
紙粘土は紙粘土で捏ねてるうちに乾いてボロボロと端から崩れてしまう。

不細工な粘土細工。
許容できない。

粘土の粘土感。
粘土はあまりにも生々しく、頑なに、汚らしい粘土という存在感を捨ててくれません。
麻のキャンバスのような三歩下がって引き立ててくれるようなお淑やかさがありません。

彫刻はある種の不自由さを楽しむものだそうですが、
思い通りに行かないことを楽しめるのは自信がある人だけです。
粘土相手では端から自信をつけさせてもらえることもなく初戦敗退でした。

あとは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というやつです。
粘土嫌い、立体造形嫌い、彫刻嫌いとなったわけです。

※高校で陶芸やってからは素材としての粘土は好きになりました。

そりゃミケランジェロなどは見るからに凄いなと思っていましたし、
心に訴えるものがあったジャコメッティの作品などは好きでしたが、それらはごく一部の例外です。
様々な画家の絵が好きだったのとは対照的に彫刻には興味がありませんでした。

近代彫刻の巨人、ロダンは「青銅時代」があまりにリアルなものだったために実際の人間から型取りしたと難癖つけられたそうですが
そんなら実際に人間で型取ればいいじゃんと思う程度には冷めてました。

ダ・ヴィンチやボードレールが彫刻は絵画と違って視点の定まらない脆弱なもの、
長持ちすることだけが取り柄の絵画の下位に属するものであるとの評価を下していたのも納得です。

それがなにがきっかけだったのかよくわかりませんが、
数年前から自分の中で認識が少し変わっていきました。

時代はARとかVRとかですが、逆に視覚だけに頼らない物体の確かさが面白いと感じるようになりました。

素材そのもの重さ、塊、「彫刻」の分野ではマッスと表現するそうですが、そういう「量感」そのもの。
そういうのに惹かれはじめました。

認知科学のアフォーダンスの勉強などを通じて実体の広がりや奥深さを感じたからかもしれませんし、
仏教を知っていくなかで信仰の拠り所として存在してきた仏像に思い馳せる機会が増えたからかもしれません。

木像にしろ、石像にしろ、ブロンズ像にしろ。
堂々と、頑なにそこにあるもの。

手で触れることのできるもの、重さを感じることのできるもの、存在そのもの。

木や石や金属の物質としての存在感と、像として表されるものとの認識の交差と統合が、ある種の酩酊感を呼び起こします。

あるいはもっと抽象的にいえば、
ロダニズムの近代彫刻家兼詩人の高村光太郎が言うところの生<ラ・ヴィ>というもの、彫刻の生命。
そういうなにか不思議な、ほのめくなにかを彫刻に感じるようになってきました。

なんじゃそりゃと言われるか、そんな当たり前のことを今更と言われるかはわかりませんが、
想像、空想をする余地とでもいうのでしょうか。

彫刻において表面の写実性、皮膚の再現は御法度だそうです。
たとえ実際の人物をモデルにした具象彫刻であっても、肉体そのものを目指しているわけではありません。

ボリュームとシルエットが彫刻であって、本物の肉体と比べれば端から欠けている存在です。
その欠落を埋めるように、純粋な造形美が自然と生起させるものが生<ラ・ヴィ>なのではないかと思うのです。

……なんて、まだ彫刻をろくに知らないのに舌っ足らずに語ってみても恥ずかしいだけなのでこれ以上は自重します。
簡潔に言えば、新鮮で面白いということです。


そんなことを思いつつ、彫刻を見ていくと今までとは違った見方、面白い発見があって楽しいです。
奥深い世界だと思います。

自分が知らないだけで豊潤な世界はまだまだいくらでもあるのですよ。
物を知るというのはやっぱり楽しいですね。

以上。


次回は彫刻に輪をかけて縁の無かった世界、ダンスについて述べます。
「ダンスと僕」です。

では、また。


※写真は春一番が吹いた日(2/22)の町田です。早く春になるといいですね。