立春を過ぎ、春の訪れが待ち遠しい昨今だ。冬の間に蓄えらえたエネルギーが若芽となってほとばしる。

いつ終わるとも知れない氷雨や凍結に耐えながら、着々とこの目覚めを待っていたのだ。

週末は山行トレーニングに邁進する日々。でも猪突猛進のハイキングではない。もうそういうハイキングはできないし、したくない。歩きながら目に入る草木を愛でる。そして周囲のものがみんな生きていること実感する。

 

先週末はGranite Lakes Trailと呼ばれるところに足を伸ばし、春一番の清流を採取して帰宅。立春の水は「若水」と呼ばれるそうだ。それをフィルターしてお茶を飲んだ。これを「福水」と呼ぶらしい。滑らかでおいしかった。幸運が体の隅々まで染みとおったような気持ちになった。ヨシ、今年は最高の機運がやって来る!

 

私は40を過ぎてからハイキングに目覚め、年間100日以上山歩きしてきた。もうかれこれ四半世紀以上。今では心も体も山にいる時の方が素の自分になれるような気がする。特にバックパッキングで山籠もりするようになってからは、週末にテントを担いで一晩自然の中で寝てくるのがかけがえのない余暇というかセラピーになった。

 

「人は死なない」など多数の著書で有名な矢作直樹氏は、よく生きる秘訣は「感謝」と「この瞬間に意識を集中すること」だという。「感謝」の気持ちが持てないときは、息を止めてみるといいって。そうすると息ができるということが有難く思えるって。朝に目覚めることだって、当たり前のことではないのだって。東大緊急治療室の部長を長くお勤めになっただけあって、「当然」の定義が普通の人とは異なるのだ。なるほどなあと心の底から納得した。

 

すべては心の持ちようというのは本当で、PCTスルーハイキングの後は、ありとあらゆる文明生活が有難かった。

 

蛇口をひねれば水が飲めること。これは最大の恩恵。カリフォルニアやオレゴンでは、水場が一日以上見つからない時が何度もあって、数リットルの水を担いで何マイルも歩いた。タンクの中に溜まっていた、見るからに汚らしい雨水を恐る恐るフィルターして飲んだこともあった。水は一滴たりとも無駄にせず、食事の後はボウルに水を入れて洗ったその水さえも捨てずに飲んだ。

 

排便だって必ず地面に穴を掘って埋める。トイレットペーパーの持ち合わせが無い時は葉っぱで代用した。

 

何日もシャワーを浴びない生活なので、体が痒くなる。いったん搔き始めると痒みが全身に広がるので、基本掻かないで我慢する。意識を他に向けると不思議なもので痒くなくなる。

 

こういう生活を何か月も続けていると、屋根があること、壁があること、照明があること、飲み水、ましてやシャワー水があること、そういう「当たり前」の生活がものすごく貴重なものとして認識され、ギフトをもらったような喜ばしい気持ちになった。

 

ある知人がこう言っていた。

「喜べば、喜び事が喜んで、喜び連れて喜びに来る。」

 

喜びは喜びに囲まれると増幅するらしい。いい言葉だなあと感じた。

 

スルーハイキングの魅力はこのパラダイムシフトにある。なんでもないことが大きな喜びとなる。寒くないか?暑くないか?栄養は足りているか?脱水していないか?痛いところはないか?(痛みがある場合はほかのことを考えて痛みにフォーカスしない。)こういうベーシックな体感だけに意識を向けていると、雑念が消える。過去の後悔も将来の不安も消える。「私」はこの瞬間の感覚の集合体となり、居合わせた人、物、事柄のすべてが奇跡的に有難く、自分はなんて幸運なんだろうという歓喜に包まれる。

 

矢作医師は、「体は自分のものではなく、死ぬ時に返さないといけないので、大事に扱ってください。」とおっしゃっていた。

 

大事に取り扱うとは、徹底的に体の声を聞くことだ。甘やかしてもいけないし、無理をしてもいけない。何よりも大切なことは、体は圧倒的に脳より賢いことを認め、体に「ありがとう」という気持ちを持ち続けること。

 

体は私の気持ちにけなげなほど忠実に応えてくれる。その感謝の循環が幸福を招くのだと思う。

 

自分の中に眠っていた温泉を掘り当てたような温かいエネルギーを感じながら、今日も山歩きをしてこよう。

近年伐採されてはげ山になってしまった近所のトレーニンググラウンド。遠景はシアトルとベルビューのダウンタウン。