「可哀想」って言葉、
一見すると優しさのように聞こえるけれど、
時にその言葉が
誰かの心を深く傷つけてしまうことがあります。
これは、私自身の体験からも痛いほどわかること。
小学生の私に向けられた“哀れみの目”
母は夜は仕事で
時々男の人のところへ出かけていました。
私は小学生の頃
ほとんど一人で過ごす子でした。
ひとりでカップ麺をすすったり、出前をとったり。
服も自分で選んで着ていた、そんな毎日。
ある真夏の日。
お気に入りのコーデュロイのオーバーオールワンピを着て、
ひとりで家の前で遊んでいました。
そこへ、孫を連れた
近所のおばあさんが声をかけてきたんです。
「あなた、それ冬物よ。お母さんに何も言われなかったの?」
その時の、少し蔑むような“哀れみの目”。
今でも、鮮明に覚えています。
とっさに「自分で選んだから」と答えたけれど、
胸の奥には“恥ずかしさ”と“惨めさ”が残りました。
きっと、おばあさんに悪気はなかったはず。
でもその瞬間
私の中で小さな何かがポキッと折れた気がしました。
「可哀想」と言われて、“もらえる”ことを知った
それから数年後。
キャバクラで働き始めた私は
あるお客さんに自分の生い立ちを話しました。
母が勝手にカードでキャッシングしていたこと。
お金に困っていたこと。
するとその人は
数日後に15万円を差し出しながら言ったんです。
「それ、全部返しておきな。可哀想になぁ…」
そのとき、私は気づいてしまった。
「可哀想な私」でいると
“何かをもらえる”ことがある、と。
「可哀想」は、自己肯定感を削る言葉
『可哀想』という言葉は、
静かに、でも確実に自己肯定感を削っていく。
それは、子どもでも、大人でも同じです。
だから私は今
どんなに壮絶な環境にいる若者に出会っても、
「可哀想」なんて言葉も態度も意識すら持たない。
なぜなら、その子はたしかに
「大変な状況」にはいても
決して「不幸」ではないから。
支援を“施し”にしないために
「可哀想」という言葉は
無意識のうちに上下をつくってしまう。
すると支援は、
“対等な関係”ではなく
どこか「施し」になってしまう。
けれど本当の支援って、
相手の尊厳と可能性を信じて
同じ目線で関わること。
私たちができるのは、「助ける」ことではなく、
「信じて、並んで歩くこと」なんじゃないかなと思うんです。
さいごに
支援する側の“優しさ”が、
本当に相手の力になるために。
そして、どんな子にも「可哀想」ではなく
「強いね」と伝えられる社会であるように。
私自身、これからも
“哀れみ”ではなく“信頼”から生まれる優しさを、
届けていきたいと思っています。
🌷今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
言葉のひとつひとつに共感してもらえることが、何よりの励みです☺️
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