なんだか、早く目が覚めてしまったので、ふと思いついたことを記す。

 

 

 この頃、仕事や生活面で、いろんな状況が変わってきて、自分がこれまで考えていたことだけでは処理しきれなくなってきた。

 

 自分の仕事の範疇だけを考えず、全体に気を配って、主張し過ぎないようにしないと、うまく物事が運ばないのだ。

 

 これまでは、「自分の立場」があり、「その他の人の立場」があり、それを理屈で擦り合わせていたのだが、いちいちそんなことをしていたのでは、いつまでたっても理解が深まらず、表面的な結論や結果に終始してしまう。

 

 むしろ、相手との境界線をなるだけ緩やかに、抹消することで、理解が進み物事が進展していくように思える。

 

 学校では、または世間一般では「相手の立場に立って~・・・。」などと言っているが、それでは相手と対立している状況が変わらず、敵対的な関係は変わらないように思える。

 

 一時期、アメリカ様の「個人主義」が流行って、日本でも、「これからは個人主義の時代だ。個性を大事にして尊重しよう。」と、それらしいことを言っていたが、結局、個人同士の対立関係が解消されないまま、財産の独占、自己責任という名の切り捨てが進んだのではないかと思う。

 

 イスラム教や、アフリカ、東南アジアの地域に行くと、「あなたのものはわたしのもの、全ては神様からのお恵み。」みたいな考えがあって、財産を共有する空気がある。

 

 しかし、考えてみれば、日本の縄文時代もそのような雰囲気があったらしく、特別な考え方ではない。

 

 貧しいから、そうなったのか定かではないが、日本も貧しくなったということなのだろうか。

 

 50年くらい前までは、近所同士で、醤油や味噌の貸し借りをしていたらしいけれども、そういうことなのかなとも思う。

 

 ここで、お金の話しを思い出したのだが、「お金」というものは、社会の信用で成り立っている紙切れ(現在はデジタル化したが)であり、それ自体だけで価値があるものではない。

 

 つまり、社会が共有している価値観であり、個人の独占物になってしまえば、無用の長物となってしまう。

 

 「金は天下の回りもの。」と言われるが、つまり、「回して」いかないと社会が疲弊していのではないかと思う。

 

 話しが逸れてしまいましたが、つまるところ、個人が個人の立場を主張し続けても、社会の幸せにならないのだろう。ということである。

 

 世の中には、「搾取する者。」「搾取される者。」がいるので気を付けなければならないが、財産や状況を共有することで、生きやすくなるのではないかと思う。

 

 寄付したり、社会貢献することが、一役を担うのではないのでしょうか。