※本文はネタバレを含みます


 

 日本で一番好きな映画は何か、と聞かれたら真っ先にこの映画が頭をよぎる。

だが「容疑者X」と比べると地味で人気も少ない。

 

でも俺はそんなこの「真夏の方程式」こそ東野圭吾作品の中で最高傑作だと思っている。

 

ミステリー作品には読者を楽しませるための三つの柱がある。

それはフーダニット(誰が殺したか・犯人)、ハウダニット(どうやって殺したか・トリック)、ワイダニット(なぜ殺したか・動機)と呼ばれる。

もちろん東野圭吾もこれらを描くのが尋常じゃなくうまい。

 

しかしミステリーの中でも特別に東野圭吾作品が大好きな理由は、彼の作品で一番感じられるのが上記三つを経て存在するテーマであり、そのテーマがとてつもなく優しいからである。

 

いくら犯人が予想外の人物でも、いくらトリックが難解で奇抜でも、いくら動機が奇想天外でも、そこに何の意味も無ければ傑作になりづらい。

人の心を動かし感動させるのは、そこから生まれるテーマだからだ。

 

では、この作品で描かれているテーマとは何なのか。

 

それはガリレオこと、湯川が最後に下す決断に表れている。

 

 

湯川が最後に下した決断とは何だったのだろうか。

 

 

 

今回、色々な人間模様が描かれる。

 

海を守ろうとする女性、血のつながっていない子供のために殺人を犯してしまう男性、

何も知らずのその殺人に加担してしまう子供。

 

自分の子供が血の繋がっていないと知った事でその母親や不倫相手を『恨んで』殺すのではなく、その血の繋がっていない子供を『守るため』に殺人に手を染めてしまうのが実に東野圭吾らしくて好きだ。

 

そんな家族の愛が動機になっている事の哀しみに関してもたくさん語りたい所だが、今回の批評は恭平に焦点を当てて書こうと思う。

 

湯川の最後の決断を理解するには、その決断の対象となった恭平が本作で何を知り、何を思い、何を感じたのかを理解する必要があるからだ。

 

そのために最後の駅の待合室のシーンで湯川と恭平がどんなやり取りをしたのかを見てみようと思う。

 

実はこの待合室で湯川は一つ恭平を試していたのだ。

恭平が待合室に来た時、湯川は横に置いてある雑誌を手に取り、意味ありげに恭平を見つめる。

これを見て恭平は少し考え、湯川の横に座る。

 

これが恭平がこの夏、成長した一つの証なのだ。

 

どういう事か。

 

湯川が旅館に来た初日の夜、湯川は旅館の1階でソファーに座り新聞を読んでいる。

そこへ恭平が近づいてくる。

この時、湯川は恭平から離れるために座っていたソファーを横にずれる。

 

しかしこの行動を恭平は勘違いして受け取ってしまうのだ。

湯川が横にずれたのは、自分の座るスペースを作ってくれたのだと。

 

恭平はありがたく隣に座ろうとする。

そこで、隣に座られないために湯川はとっさに新聞を置いて恭平が座れないようにブロックするのだ。

 

これで待合室での二人のやり取りの意味が分かる。

 

「物を置かれるのは座るなって意味」

そう失敗から学んだ恭平の前で、今度は隣に置いてある雑誌を手に取る湯川。

 

それを見た恭平は「隣に座って良いよ」と、今度こそ正しく湯川の意図を受け取ったのだ。

 

失敗を経験して成功に辿り着く。物理の実験と同じだ。

 

湯川は恭平を試し、その結果恭平が成長している事を確認した。

 

また、「分からくても自分で考えろ」とペットボトルロケットの打ち上げの時教わった通りに、

「博士、僕、花火しちゃいけなかったの」と、自分で考える事で恭平は一つの答えに辿り着いた。

 

これらを受けて初めて、

「この夏、君は多くの事を学んだ」と湯川は話し始めるのだ。

 

気休めで褒めるのではない。

実例を示した上で成長した事を伝え、話し始める。

実に物理学者である湯川らしい。

 

 

実は恭平が本作で経験した事は、人類が今まで辿って来た道と同じだ。

 

人類は科学なんて全く知らない原始時代から始まった。

だが次第に科学技術が発展していき、人類の暮らしは豊かになっていった。

 

しかし後に科学の恐ろしさも知る事になる。

 

チェルノブイリ原発事故。公害。

そして科学技術の発展から生み出された兵器が用いられ、戦争で多くの人が殺された。

身近な例だと、便利なはずの車や電車、飛行機の事故でたくさんの人が亡くなっているし、包丁や銃による殺人事件も後を絶たない。

 

「もちろん科学技術には常にそういう側面がある。邪悪な人間の手にかかれば禁断の魔術となる」

 

これはガリレオシリーズ「禁断の魔術」の中での湯川のセリフだ。

同作品の中で湯川は科学の素晴らしさを子供みたいに無邪気に語り合う姿を見せる一方で、

科学技術の恐ろしさに言及している。

 

そしてもし、湯川自身の経歴から生み出された、科学技術により他人を傷つける恐れが生じた時はどう責任を取るのか。そういう彼のシビアな面も描かれている。

 

ノーベル平和賞が誕生した経緯はみんなが知っていると思うが、元はノーベルがトンネル掘削や鉱山採掘等、安全にインフラ整備ができる事を目的としてダイナマイトを発明した。

しかし人々の安全のために作ったダイナマイトは、戦争で人を殺すために用いられるようになる。

 

自責の念にかられたノーベルが、自分の私財を投げ打ってできたのが今日に至るノーベル賞だ。

 

科学は人々の暮らしを豊かにしてきた半面、

たくさんの人々や自然を傷つけてきた。

 

 

恭平はそんな科学の正の側面と、負の側面の両面を夏の短い間に知ってしまう

 

恭平は当初、理科なんて何の役に立つんだと湯川に食いかかる。

だが湯川と一緒にペットボトルロケットをする事で科学の素晴らしさを知る。

しかしその後、自分の無知故に人を殺してしまった事に気づき、科学技術の恐ろしさを思い知る。

 

失意のどん底の中、待合室の椅子に座り、うなだれる。

 

科学技術の良いところを知り、怖さも知った。

その上でどう進めがいいか、途方に暮れているのだ。

 

 

実はこの待合室のシーンは人類が現在いる場所でもある。

 

科学の素晴らしさと恐ろしさを知り、どのように科学と付き合って進んでいけばいいのか真剣に考える事を強いられ途方に暮れている

 

 

ここで湯川は一つの結論を出す。

 

それは、恭平と一緒に悩み、考えていくというものだった。

 

 

これを聞いた時、正直驚いた。

 

というのは、本作のテーマは「科学は恐ろしい」にとどまっていてもおかしくなかったからだ。

 

この事件の犯人とトリック。そこから描きやすい一番のテーマの帰結はそこだし、なによりこの映画が公開された時の時流がそうだった。

 

 

この映画の公開は2013年。東日本大震災の翌々年だ。

 

父が運転する車に揺られながら、まだヒビ割れが残っているアスファルトの道を通って映画館に行ったのを覚えている。

 

 

日本が科学のしっぺ返しを受けた。

 

日本全体が科学の恐さを再認識した。

 

そんな時だった。

 

 

しかし東野圭吾はこの事態をずっと前から危惧していた。

 

彼の作品に「天空の蜂」というタイトルのものがある。

 

この物語を簡単に説明すると、一人の犯人が原発の上にヘリコプターをリモートで滞空させ、要求を飲まないと原発にヘリを落とすぞと政府を脅す話だ。

 

この作品は1995年に刊行された小説で、その時点で東野圭吾が長年かけて取材し、原発のシステム等を調べてあげて書いたものだ。

 

 

つまり、東日本大震災が起きる遥か昔から原発の危険性に警鐘を鳴らしていたのが東野圭吾なのだ。

 

だからその危惧していた未来が現実のものとなった時に、誰よりも声を大にして「ほら言ったじゃん!」と言えた人物なのだ。

 

 

そして、この真夏の方程式の中で海底資源採掘の反対派が「海を傷つけるな!」と声を大にして主張する。

 

それに対して湯川はこう答える。

 

「地下資源を採鉱すれば生物には必ず被害が出ます。人間はそういう事を繰り返して文明を発達させてきました」

 

そうだよ。人間や自然を傷つける危険性のある科学技術は全て廃止すべきなんだよ!!

 

 

「だがその恩恵はあなた達も受けてきたはずだ」

 

 

……?

 

 

衝撃を受けた。脳に直接受けたかのようにずっしりと。

 

 

日本の状況もそうだったし、映画を観ていても海を傷つける事に反対する成美に感情移入していて「そーだそーだ!」と賛同して気持ちよくなっていた矢先だった。

 

その言葉が耳から頭の中に響いて来たのは。

 

既存の科学技術に対して今、反対の声を無責任にあげるのは簡単だ。

だがその反対しようとする対象によって、今までの人生で自分が一体どれだけの恩恵を受けたかを考えた事は果たしてあっただろうか。

 

かと言って、このまま何も考えずに恩恵を受け続けるのもまた無責任ではないのか。

 

 

どうすればいいんだ……

 

 

 

この映画の中には一つの対立軸が存在する。

海底資源採掘の推進派と反対派だ。

だが彼らの議論は、結論を出さずに終わる。

白黒つけないのだ。

 

いや、白黒つけない事こそが一つの結論になっているというのが正確かもしれない。

 

なぜなら、その議論に折衷案をもたらすために湯川はこの地に呼ばれたのだから。

 

電磁探査。磁石を利用し、なるべく海を傷つけずに行う海底探査の方法だ。

 

それは双方の視点からしたら十分な解決案になっていないかもしれない。

 

でも、

 

「0か100を選べと言ってるんじゃない」

 

人間、どうしても自分の主張を100にしたくなる。

しかし100にしたい主張同士がぶつかった時、どちらかが必ず泣く事になる。

 

そこで世の中の問題の多くは湯川が言っているように0と100の中間で解決を図られている。

 

先ほど挙げた実例の中だと、

 

包丁は便利だから縛られずに自由に持ち歩いて使用したいという意見と、包丁で人が殺されるおそれがあるから全面的に禁止すべきという意見が対立しているとする。

 

これらの相反する主張は、銃砲刀剣類所持等取締法(いわゆる銃刀法)で正当な理由がない外への持ち出しを禁止する事でバランスを取っている。


つまり間を取って50くらいの解決策だ。

 

 

車の運転や一部の薬の取り扱い等、本来は自由であるべき危険を伴う行動は、免許や資格の取得を義務付けて制限するという、いわゆる消極目的規制で解決を図っている。

 

公害は環境アセスメントや、排ガスや排水の改善等で起こりにくくしている。

 

「後は選択の問題です」

 

この0から100の間のどこを取るか。それをどう選択していくべきなのか。

 

それこそが湯川がこの映画で最後に出した結論だ。

 

 

実は海底資源採掘の推進派と反対派が対立していたように、湯川にも対立する相手がいる。

 

その相手が恭平だ。

 

子供嫌いの物理学者と、理科が嫌いな子供。

 

 

「理科なんて何の役に立つんだよ」

……聞き捨てならないな」

対立が顕著になるこのセリフのやり取り。

 

この時、両者は向かい合って座っている。

 

対立する両者とは、向かい合う構図になるのが通常だ。

 

海底資源採掘の推進派と反対派がぶつかり合った時もそうだったように。

 

 

しかし湯川は恭平を隣に座らせる。

 

そして「僕も一緒に考える。一緒に悩み続ける」

 

そう告げる。

 

 

「相手の言い分に耳を貸そうとせず、自分達の主張を繰り返すだけだ」

 

これは湯川が成美に言ったセリフだ。

 

成美達の議論に白黒はつけない。

 

その代わりに、湯川が自ら示す。

 

かつて対立していた相手に、科学の素晴らしさを真摯に伝える。

そしてその相手が科学の恐さを知った時には、今度は隣に座り一緒に悩み考えていく。

 

対立していた相手と対話し、寄り添う道を選択したのだ。

 

(本作の後に位置する作品「沈黙のパレード」では、ガリレオシリーズ1話から苦手だった子供と自ら戯れる湯川の姿がある)

 

 

より良い案を出す一番の近道は、一人よりも複数人で考える事だ。

特に一つの案が独走して支持されているよりも、複数の案が乱立して拮抗している状況の方が、より良い案が生まれやすい。

 

商品企画や映画の脚本もそうだ。

色んな案が出て、意見を激しくぶつけ合う事でより良い案へと昇華される。

 

意見をぶつけるからと言って、敵だという訳では当然ない。

むしろ味方。いや、仲間だ。真に良い選択をするための。

 

「博士は成美ちゃんの敵なんでしょ。海を壊す人達の味方なんでしょ」

 

そう恭平に聞かれて、湯川はこう答える。

 

「僕は誰の敵でも味方でもない。僕の興味は真理を追究する事だ。真理とは人類が正しい道を進むための地図のようなものだ」

 

その地図を作るため。

 

そういう見方をした時、海を壊そうとする人達と、海を守ろうとする人達。

この両者は敵ではなく、仲間になる。

 

そしてもう一つ絶対に忘れてはいけない事がこの映画では描かれている。

 

 

それは「科学は素晴らしい」という事だ。

 

 

アルミホイルの件や電磁探査もそうだし、

なによりペットボトルロケットだ。

 

普通には行けない海の中を、科学の力で恭平は見る事ができた。

 

玻璃ヶ浦の名前の通り、水晶のように綺麗な海を。

成美が大切な人のために守ろうとした海を。

 

 

俺もたくさん感謝している。

 

数時間あれば全国どこでも行ける交通網、遠く離れた人達と連絡できる電話やインターネット。

 

なにより、大好きな映画を映画館で観る事ができる。

 

こんなに素晴らしい時代に生まれて幸せだ。

 

 

たしかに、正直、問題は山積みである。

 

エネルギー、環境、AI、医療用麻薬、クローン。

 

挙げればきりがない。

 

あらゆる問題について日夜各所で議論され、SNSでは常に誰かしらがヒートアップしてぶつかり合っている。

著しい改善が見られる問題から、解決の糸口が全く見えない問題まで多種多様に存在する。

 

 

そして今ある問題の多くが100年前には予見されていなかったように、今はまだ誰も予想できない問題がこれからもたくさん出てくる。

 


どうして良いかわからない。

 

駅の待合室での恭平状態だ。


 

でも湯川は横に置いてある雑誌を手に取る決断をした。

 

だから俺は強く信じている。

 

これから先あらゆる未知の問題が人類に立ちふさがってきたとしても、対立する両者が肩を並べて座り、同じ方向を見つめた時、どんな問題もきっと解決していける。

 

 

そんな方程式がこの世に存在する事を。


 

最初に言っておきます。

 

大傑作。

 

公開初日に映画館で観た時に、50年間はベイマックスを超える作品は出ないだろうと思った。

 

それほどの衝撃を受けた。

 

では何故ベイマックスがそこまですぐれた作品たり得たのか。

 

「ベイマックスの最後の台詞の本当の意味は」

 

「タダシの叶えたかった3つの願とは」

 

この2つを主軸として、批評していこうと思う。

 

 

ただ、かなり高レベルな脚本なので理解するのがなかなかに難しい。

なので、まずはディズニーがなぜここまで傑作を量産できるかの秘密から解説しようと思う。

 

実はディズニーの映画の脚本には、絶対に傑作になるゴールデン方程式が存在する。

 

この方程式に当てはまるタイトルは全部大傑作だ。

 

その方程式とは、

「主人公が改心する事で、誰かが報われる話。かつ、主人公と悪役が同じ境遇」

 

である。

 

たとえば、シュガーラッシュはラルフが改心し悪役である自分を受け入れる事でペネロペが報われる。そして自分の境遇に満足できずにターボするという点で悪役と境遇が同じである。

 

アナ雪は、愛する事を求めるアナが改心し自ら愛する道を選択する事でエルサが報われる。そして愛されて来なかったという点で悪役と境遇が同じである。

 

ズートピアは、ジュディが自分の差別心に気付き改心する事でニックが報われる。そして同一の対象への憎しみに囚われている点で悪役と同じである。

 

そして今回のベイマックスは、ヒロが自分の力を正しく使うように改心する事でタダシが報われる。そして家族を失った悲しみから自分の才能を復讐のために使おうとする点が悪役と共通している。

 

 

このように、ゴールデン方程式に当てはまる作品は全て傑作だ。

 

 

それでは、何故この方程式を使えば傑作になるのか。

 

 

ハッピーエンドには大きく分けて2つある。

 

「誰かが報われる話」

と、

「誰かが改心する話」

だ。

 

 

細かく分ければもっとたくさんあるが、ほとんどはこの2つに分類できる。

 

そして報われる話の主体は弱い人間になる事が多く、改心する話の主体は強い人間である事が多い。

 

前者は、イジメられっ子が最後何かを成し遂げ祝福される話だったり。

 

後者は、傲慢な金持ちが人のために生きるように変わっていく話等だ。

 

そして日本だとかなりの割合で弱い人間が報われる物語が多いが、アメリカだと強い人間が改心する物語が多い。

 

たとえばベイマックスと同じマーベルを例に出すと、アイアンマン、マイティソー、ドクターストレンジも強者が改心する話だ。

 

人を傷つける武器を売って儲ける金持ち。

自分が偉いと思っている王様。

病人を助ける事よりも自らの成功が優先な医者。

 

これらの者が改心し、人のために行動するヒーローへと変わる。

 

 

これで勘の良い人は分かっただろう。

 

なぜ前述したディズニーのゴールデン方程式が使われた作品は傑作になるのか。

 

それは、弱い人間が報われる話と強い人間が改心する話。

この2つのハッピーエンドの類型を同時に描けるからだ。

 

そして敵を主人公と境遇を同じにする事で「勝った」事のロジックがより強固になるのだ。

 

たとえば、さげすまれて生きてきたからこそ復讐する道を選んだ悪役に対して、蔑まれて生きてきたからこそ蔑まれている人を守る側になったヒーローが勝つと説得力が出る。

 

同じ境遇でありながら、悪役と違って主人公は正しい道を選んだから勝てたという比較ができるからだ。

 

 

それでは、これらを踏まえてこのベイマックスの物語を早速批評して行こうと思うが、ベイマックスの物語を端的に表すならこうである。

 

天才が改心する事で、凡人が報われる話。

 

しかも、

 

3人の天才と、1人の凡人の物語だ。

 

 

 

 

幼い頃は俺もウルトラマンになりたかった。

 

自分だけが持っているスーパーパワーを使って、困っている人を助けて称賛されたかった。

 

でも気づく日が、ある時突然やってくる。

ヒーローなんてこの世にいない。

 

だって、スーパーパワーがこの世界に存在しない以上、悪を倒すヒーローなんてこの世界で存在できる訳がない。

 

と、思っていた。

ベイマックスを観るまでは。
 

実はこの映画は単なるヒーロー映画として観ていては真に理解する事はできない。

 

ヒロが最初にタダシの通う大学を訪れた時にキャラハン教授がこんな事を言う。

 

「ロボットファイターなんだってな。勝つのは簡単だろう。ただその程度で満足してるようでは私が教える事は無い」
 

このキャラハンのセリフが意味する事はこうである。

 

「この映画では、バトルに勝っただけじゃ本当の勝ちにならないよ」

 

普通、ヒーロー映画は悪役を倒す事が一番の目的としてストーリーが展開される。

 

しかしこのベイマックスではバトルに勝つ事は目的として設定されていない。

 

それではこの映画の一番の目的はなにか。

 

タダシが亡くなった後にベイマックスがヒロの痛み悲しみを癒そうとするが、ヒロはこう返す。

 

「これは心の痛みだからキミには治せないと思うよ」

 

死んだ人は胸の中で生き続ける。

そう言って励ます事はよくあるが、

頭の良いヒロはそれがただの気休めにすぎない事をよく知っている。

 

だからタダシが生き返らない以上ヒロの悲しみが癒される事は無く、ケアしてもらった人が最後に言う台詞、

 

「ベイマックスもう大丈夫だよ」

 

とヒロが言う事は、今後決して無い。

 

残念だが、ここがこの物語のスタートラインなのである。

 

先ほどこの映画はバトルで勝つのが目的では無いと言ったが、そう。

 

『ベイマックスはヒロの心の痛みを癒せるのか』

その証としてヒロが「ベイマックスもう大丈夫だよ」と言える日は来るのか。

 

それこそがこの映画の真の目的なのだ。

 

 

タダシの死によるヒロの心の痛みを癒やすという、一見不可能なこの目的をベイマックスは達成する事はできるのだろうか。
 

 

生前、タダシには3つの願いがあった。

 

1つ目。ベイマックスがたくさんの人々を救って欲しい。

 

2つ目。ヒロが賢い頭を正しい方向に使って欲しい。

 

3つ目。キャラハン教授を救いたかった。

 

しかしこの3つの願いが叶うという希望は、物語が進むにつれてどんどん打ち砕かれていく。

 

注意深く見ていると、ベイマックスとヒロの間に齟齬が生じている事に気付く。

 

マスクの男を探す事になり、次々とベイマックスを改造していくヒロ。

 

この時、ヒロはベイマックスとグータッチをする。

これはヒロとタダシが嬉しい事があってお互いに喜んでいる時に行っていたもの。

 

それを今度はヒロとベイマックスで行ったのだ。

 

先に説明しておくが、実はベイマックスの体はタダシ肉体のメタファーである。

 

ついでに全部説明しておくと、ベイマックスの体に入るタダシのチップはタダシの優しさを表していて、ベイマックスを改造する際にヒロが入れたチップはヒロの賢い頭を表している。これが物語後半で非常に重要になるので覚えておいてもらいたい。

 

 

なのでそのタダシの肉体のメタファーであるベイマックスと共に今までタダシとしてきてた事をする事でヒロの悲しみは少し和らいでいく。

 

と、ベイマックスは勘違いしていたのだ。

 

 

ベイマックスに乗ってサンフランソーキョーを駆け回るヒロ。

 

この映画の中で一番疾走感を感じる気持ちの良いシーンだ。

 

その中で、ビルに映ったベイマックスの背に乗っている自分を見つめてヒロが微笑む瞬間がある。

 

これは物語冒頭、タダシのバイクの背に乗った自分が窓ガラスに映ってるのをヒロが見て微笑んでいた事等を思い出して郷愁に浸っているのだ。

 

こうしてヒロはベイマックスと共にタダシとの思い出を再現する事で、タダシが亡くなった悲しい気持ちから立ち直れる、、、はずだった。

 

鯉のぼりの上で夕焼けを見ながら、気持ちが落ち着きましたか?

 

とベイマックスに聞かれてヒロは即座にそれを否定する。

タダシとの思い出をいくらベイマックスと重ねても、ヒロの悲しみは決して癒える事は無かったのだ。

 

やはりヒロの悲しみを癒やすためには仮面の男への復讐を遂げる他ない。

 

そして仮面の男を探していくヒロは、遂にある言葉を発する事になってしまうのだ…

 

 

最初にヒロがボットファイトをしていた時、一度負けたフリをするが二度目の戦いで本気を出す時にメガボットに対してニヤリと笑いこんな命令を出す。

 

「やっつけろ」

 

これは子供向けアニメ等でよく使われる表現だ。

殴れ!とか、蹴ろ!だと教育に悪いので、やっつけろ!とマイルドな表現でボカすのだ。

 

仮面の男の行方を追い、正体を突き止めたヒロ。

その瞬間に、尊敬し憧れていた人が、復讐の対象へと変貌する。

 

怒りを抑えきれなくなったヒロは、ベイマックスに命令をする。

 

「やっつけろ」と。

 

すると子供向けにボカされていたこの言葉が、恐ろしい意味を帯びるのだ。
 

 

 

「殺せ」、、、と。
 

 

 

ここで思い出して欲しい。

タダシの3つの願いが何だったかを。

 

もしここでヒロがキャラハンを殺してしまっていたら、その3つの願いはどうなっていたのか。

 

賢い頭を誤った方向に使ったヒロが、人々を救うはずのベイマックスを兵器として、タダシが命を投げ出してまで助けようとしたキャラハンの命を奪ってしまう。

 

タダシの3つの願いが、全て一気に崩れ去ってしまうのだ。

 

そして、二度と叶う事は無い。

 

ヒロは人殺しになり、ゴーゴーをはじめとする仲間達やキャスおばさんはタダシの死に追い打ちをかけるように悲しみ苦しむ事になっていただろう。

 

もしゴーゴー達が必死に止めてくれていなかったら、本当にそんな悲惨な未来になっていた。

 

ヒーロー。そのアイデンティティは正義だ。

 

正義のヒーローになれるはずのヒロが、人々を救えるはずだったヒロが、人殺しという決して許されない過ちを犯し立派なヴィランになる寸前まで行ってしまったのだ…。

 

 

賢い頭を持って生まれて来たのに…。

 

天才だったのに…。

 

 

そんな落ちる所まで落ちてしまったヒロに、ベイマックスが一つの動画を見せてくれる。

 

タダシがベイマックスを作りあげるまでの動画だ。

 

タダシは失敗する。また失敗する。またまた失敗。そしてまた失敗だ。

 

もう無理なんじゃないか…。

 

そんな時にタダシが画面の向こうから正面を見つめ、こんな事を呟く。

 

 

「l`m not giving up on you」

 

 

直訳で、

「俺はお前の事を、まだ諦めてないからな」

という意味だ。

 

この言葉は実は劇中既に1回登場している。

 

ヒロは大学に入るために自分の発明を発表する必要があった。

天才のヒロならそんな発明すぐに思いつく。

はずだった。

 

しかし全くアイデアが出てこないヒロ。

しまいには自暴自棄になって自分を責め始める。

 

もうダメだ。もうおしまいだ…

 

そんなヒロに対してタダシは、

「おいヒロ、俺はまだお前の事を諦めてないからな」

と励ます。

 

そしてもう一言アドバイス。

 

「見方を変えてみるんだ」

 

挫けそうになったヒロは、このタダシの励ましによりもう一度立ち上がる事を決意し、マイクロボットを発明するのだ。

 

研究発表が無事に上手く終わり大学に入れる事になったヒロは、少し照れくさそうにタダシにお礼を言う。

 

「俺の事を諦めないでいてくれてありがとう」

 

しかし次の瞬間、火事が起こる。

 

タダシは亡くなり、そして復讐心に身を焼かれたヒロは、また道を踏み外してしまい、どうして良いか分からなくなってしまう。

 

研究発表のアイデアが出なかった時の挫折なんかとは訳が違う。

 

絶望的な堕落。

 

ふと自分を見てみると、賢い頭を復讐のためにだけ使う人間になってしまっていた。

 

たくさんの人を助けるために作られたはずのベイマックスも、気がつけば戦闘兵器に変わり果てていた。

 

 

もうダメだ。もうおしまいだ…。
 

 

 

そんなヒロに、タダシが画面越しに語りかける。

まるで本当にヒロに向かって言っているかのように。

 

「俺はまだお前の事を諦めてないからな」

 

 

この映画はかなりストイックだ。

死んだ人間が夢に出てきたり、幻で現れて何か励ましの言葉をくれたりなんかしない。

 

その代わりにベイマックスが見せてくれた動画を通して、もう一度タダシが励ましてくれるのだ。

 

こんな姿になってしまったヒロに、

 

まだお前の事を諦めていない。。。きっとたくさんの人を救うんだ。。信じてるからな。

 

そう言ってくれたのだ。

 

 

そして、

闇に落ちかけていたヒロは、タダシに励まされ、再び決意するのだ。

 

 

もう一度立ち上がる事を。

 

 

今の時代、動画の価値は何で決まるか。

それは再生数と視聴者数である。

 

だがベイマックスが見せてくれた動画の再生回数は1回、視聴者は1人である。

 

でもその1回の再生は、その1人の視聴者には、その動画の趣旨がこれ以上なく届いた。

 

動画を見終わったヒロは小さく呟く。

 

 

「俺はタダシみたいになれないや…」

 

 

天才が凡人に膝をついた瞬間である。

 

今のヒロの姿をタダシが見ていたらどれだけ悲しんでいたか。

 

でも、

何度失敗して落ち込んでも、最後には完成したベイマックスを見て狂ったように喜び踊ったタダシ。

 

過ちを犯したヒロだが、その賢い頭を今度こそ人々を助けるために使う時が来たら、きっとタダシは同じように喜び踊ってくれる。

 

 

ありがとうベイマックス。キミがいてくれてよかった。

 

 

そして誤った道を進もうとした時は全力で止めてくれ、諭してくれる仲間達もいる。

 

そんな頼もしい仲間達と誓うのだ。

 

キャラハン教授を止めよう。

今度こそ、正しい方法で。
 

 

改心したヒロの説得は、いわゆる正義のヒーロー。

の、それとは違っていた。

 

キャラハンはヒロにとって、殺したいほど憎んでいた相手だった。

絶対に許せない。

 

でも、

 

見方を変えた時、ある事に気づく。

 

 

キャラハンは自分と同じだったのだ。

 

家族を失った悲しみをどうする事もできず、憎むべき相手に復讐する事でしか心を満たせない。

 

だからヒロは、

「気持ちはよく分かるよ。でも娘さんが復讐を望んでいると思う?。だからお願い、、、やめて」

 

恵まれた環境でぬくぬく育ったヒーローが上から目線で、

「悪事はやめろ、成敗してやる!」

と説教かましてビームを撃って爆散させて正義執行完了。

、、ではないのだ。

 

裁くんじゃない。ヒーローが同じ立場からヴィランに共感を示し、やめてと懇願する。

 

ヒロが暴走した時は止めてくれる仲間がいた。

だから今度はヒロが、暴走しているキャラハンを止める道を選択した。

 

タダシが復讐を望んでいるのでしょうか?

と、ヒロもベイマックスに同じように諭され改心した。

それと同じ言葉を用いて、今度はヒロがキャラハンを諭したのだ。

 

 

これにはキャラハンの心にも大分届いていた。もう少しでキャラハンを思いとどまらせる事ができていたかもしれない。

 

クレイが余計な一言を挟まなければ…。

 

 

復讐を開始するキャラハン。

キャラハンに対してビッグヒーロー6は一度敗北を喫した。

 

でももう心配いらない。

だってヒロが、やっと、その賢い頭を正しい方向に使い始めたのだから!

 

ベイマックスの空手と仲間の力でマイクロボットを無力化されたキャラハン。

 

そこに拳を振り上げるベイマックス。

 

……と、その手が止まる。

 

人は殴れないようになっている。

一度は自ら捨ててしまったタダシのチップ。

その優しさを胸にヒロは今回の最終決戦の場で、キャラハンと対峙していたのだ。

 

ヴィランとの戦いにおいて、相手を殴れない状態で戦いに挑んだ。

そこまでのハンデを背負ってでも、タダシと一緒に戦うと決めたのだ。
 

崩れ落ちるポータル。その中に生命反応。

 

そしてベイマックスが異次元空間の中にキャラハンの娘がいると分かった時に、ヒロは選択を迫られる。

 

1人の女性を助けられるかもしれない。

でもそれは、一度死ぬほど憎んだ相手の娘だ。

 

だがヒロは迷わず助けに飛び込んで行こうとする。

 

ポータルが不安定だから危険だぞ。

と、クレイに止められるが、

ヒロは小さく呟く。

 

 

「誰かが助けに行かなくちゃ」

 

 

この台詞を覚えているだろうか。

大学に取り残されたキャラハンを助けるために飛び込んでいくタダシ。

 

その直前にヒロに向かって小さく呟くのだ。

 

「誰かが助けに行かなくちゃ」

 

誰かが、という時にまっさきに自分が飛び込んで行くのがタダシという人間だった。

 

 

そして今また、異次元空間の中に取り残されている人がいる。

それを知ったヒロは真っ先に飛び込んでいくのだ。

 

まるでタダシのように。

 

 

飛び込む直前、

行けるか?とヒロに聞かれ、

「私は空飛ぶケアロボットですよ?」と返すベイマックス。

 

「空手ができるケアロボットが必要ですか?」

「空を飛べるケアロボットが必要ですか?」

 

ヒロがバージョンアップを施す度に懐疑的だったベイマックス。

 

 

そんなベイマックスが、

「私は空を飛ぶケアロボットですよ?」と誇らしげに返すのがなんとも粋だ。

 

そして異次元空間の中へと飛び込んでいくヒロとベイマックス。

 

 

さきほどヒロはこんな弱音を吐いていた。

俺はタダシみたいにはなれないや。

 

そう言っていたヒロが、タダシと同じ台詞と共にタダシのように真っ先に異空間に飛び込んだ時、彼は真のヒーローになったのだ。

 

 

見つかったキャラハンの娘のアビゲイルは、ハイパースリープ状態だったためまだ生きていた。

 

アビゲイルが乗ったポッドを運ぶベイマックスをしっかりと誘導していくヒロ。

 

ヒロの初めての人助けだ。

人々を助けるために作られたベイマックスと共に、ヒロはこれからたくさんの人を助けていくだろう!
 

 

。。。一瞬の油断。。。

 

浮遊していた瓦礫の破片がヒロにぶつかりそうになり、それを庇うベイマックス。

その衝撃で装甲が剥がれ、エンジンも停止。もう飛ぶ事はできない。

 

異次元空間に取り残されてしまったヒロとベイマックス。

 

助かる方法はたった一つ。

 

ベイマックスのケアに満足した証として、ベイマックスもう大丈夫だよと発する事。

 

しかし従前、

タダシが亡くなった事による悲しみはキミには癒せないよと、ヒロは強く言ってきた。

 

しかもその言葉を発するって事はベイマックスともお別れするって事だ。

 

それだけはダメ。絶対にダメだ。

 

頑なに否定するヒロ。

そんなヒロにベイマックスは一言、小さく、優しく語りかける。
 

 

「ヒロ。私はあなたとずっと一緒にいます」
 

 

これを聞いたヒロはベイマックスの顔を意味深に見つめ、

次の瞬間に何かを理解し、ベイマックスと抱き合う。

 

 

ヒロはこの時何を感じ取ったのか。

重要なのはこのセリフが一人称であるという事だ。

劇中、ベイマックスがタダシを三人称で呼ぶ印象的なシーンがある。

 

ベイマックスが「Tadashi is here(タダシはここにいます)」と言うと、

 

ヒロが「タダシはもういない」

 

と即座に否定するシーンだ。

 

上記のやり取りは劇中3回繰り返される。

タダシはまだここにいるとベイマックスが言う度に、ヒロはそれを強く否定するのだ。

 

このベイマックスのセリフはどれも三人称である。

「タダシは」「タダシは」「タダシは」

 

そう言ってきたベイマックスが最後の最後にヒロに一人称でこう言う。
 

「Hiro, I will always be with you.」

 

そして、 この「I」には「Tadashi」が入る。

 

つまり、タダシの台詞になるのだ。

 

日本語だとタダシの一人称は「俺」でベイマックスは「私」で異なるため伝わらなくなってしまっているが、
英語だとタダシもベイマックスも一人称が「I」である。

 

死んだ人が胸の中でずっと生き続けるなんて気休めの嘘はやめてくれ…。 

 

そう思っていたヒロに、

 

タダシが自ら、

 

俺はこれからもお前とずっと一緒にいるぜ。

 

 

そう言ってくれた。

そうヒロは受け取ったのだ。
 

認めたくなかった。

タダシがずっと胸の中で生き続けるなんて戯言。

そんなんで納得したくなかった。

この悲しみが、心の痛みが、そんな簡単に癒えるもんか。

 

 

……でも、

ベイマックスを人々を助けるロボットとして用いた時、こんな異次元空間に閉じ込められた人でさえも助ける事ができるようになれた。こんなに大きな力を発揮する事ができた。

 

ヒロの賢い頭を正しい方向に使った時、
タダシみたいにはなれないって言ってたヒロが、タダシみたいに助けを求めている人間の元に真っ先に飛び込んで行く人間になれた。

 

たくさんの人を助けたいというタダシの一番の願いをヒロが受け継げば、その願いはヒロの中でずっと生き続け、たくさんの人を救い続ける。

 

タダシの言葉を聞いて、
頭の良いヒロはそれが分かってしまった。

 

だからヒロは絶対に言いたくなかったこの言葉を口にするのだ。
 

 

 

「ベイマックス、もう大丈夫だよ」
 

 

ベイマックスが発射したロケットパンチに運ばれていくヒロとアビゲイル。

 

たくさんの人々を救うために作られたベイマックスも、見方を変えた時にただの復讐の道具になってしまった。
でもそんな兵器と化したベイマックスも、見方を変えた時にそのロケットパンチでさえも人を助ける道具に生まれ変わったのだ。

 

 

タダシとはさよならも言えずにお別れしてしまったヒロ。


だが、このベイマックスとのお別れはタダシとのお別れの意味もある。


タダシの肉体のメタファーでもあるベイマックスの体を最後にしっかり抱きしめ、別れを告げる。

 

そして、死後の世界を想起させるこの異次元空間の中へと消えていくベイマックスの体を、しっかりと見送るのだ。

 

タダシの肉体とお別れしたヒロ。
しかし、たくさんの人を助けたいというそのタダシの願い。
その優しさのメタファーでもあるチップだけは、しっかりと現世に持ち帰ってきた。

 


タダシの肉体は死んだけど、その優しさを受け継いだヒロがその賢い頭を用いて、ビッグヒーロー6としてこれからたくさんの人を助けていくだろう。

 

もちろん。

 

ベイマックスと共に。
 

 

全てが終わり、晴れて念願の大学生になったヒロ。
キャスおばさんに抱きしめられた後、今度はヒロの方から抱きしめる。

 

子育てに悩んでいたキャスおばさん。

子供達の事を全然理解できていないと悩んでいた。
子育て本をもっと読んでいれば良かったと後悔していた。


それでも子供達を何度も抱きしめて愛情を伝えてきた。

 

それが最後にヒロの方から抱きしめられる。


完璧な子育てではなかったかもしれない。
それでも、しっかりと愛情を注いで育てれば、
最後にその愛は返って来るのだ。
 

 

 

そして、まだ批評は終わりではない。

 

最後に1つだけ重要なものが残っている。


実はこの映画のストーリーは本編に留まらない。

エンドロールを観ると、クレイが本社を作り直してお披露目式を開いている。

その本社のビルの名前をよく見てほしい。


「タダシビルディング」と書かれている。


クレイの会社の本社名が、タダシの名を冠した物になっている。
これが意味する事とは、

あのクレイでさえも改心してタダシの意思を継いでくれたのだ!


そして残るはキャラハン教授である。


最初に説明したように、ヒロと出会った時にキャラハンは

「勝つだけなら簡単だろうな。だがその程度で満足しているようじゃ私に教わる事はない」

と言っていた。

キャラハンは悲しみに囚われるまでは、その賢い頭を用いて人々のため科学の発展に寄与して生きてきた人だ。

フランス語にノブレスオブリージュという言葉がある。

簡単に説明すると、「地位や能力や資産がある者は、社会の模範となる責任がある」という意味である。

インフラを整えて人々が生活をしやすくしたり、チャリティーを行って貧しい者を助けたり等である。

この精神はアメリカのセレブ達にも浸透しているので、チャリティーをしたり、病気の子供を訪問して元気づけたり等、精力的に活動しているセレブが多いのだ。

スパイダーマンにも「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という有名な言葉があるが、それもほぼ同義である。

つまり、キャラハンはこのノブレスオブリージュの精神を持った素晴らしい人間だったのだ。

だからこそ、その能力を自分の利益のためにしか使わないクレイを猛烈に批判していた。

でも結局はそのキャラハンも、自分の能力を復讐のためだけに使う人間へと堕ちてしまった…。

そんなキャラハンを止めてくれたのが、ヒロだった。

バトルで勝つだけで満足するようなら私に教わる必要はない。

そう豪語していたキャラハンに対して暴力は一切振るわずに復讐を止め、

なおかつ娘のアビゲイルを助けて、キャラハンの悲しみの根源までもケアしたのだ。

当初はキャラハンに復讐するためにその才能を使っていたヒロ。

だが最終的にはその自分の賢さに責任を持ち、キャラハンを助けるために用いたのだ。

真の意味で、キャラハンの完敗である。


ここでもう一度だけ振り返って欲しい。

もしヒロが、ベイマックスを用いてキャラハンを「やっつけて」しまっていたら…


タダシの願い3個は全部叶わずに、

タダシ、キャラハン、クレイ、3人の天才は全員道を間違えたまま終わっていた。

そうなっていたらその後アビゲイルを助けたとしても、今度はアビゲイルがヒロへの復讐の物語を始めていたかもしれない。


逆にキャラハンがクレイへの復讐を遂げてしまっていたら、アビゲイルは助かっても父親の罪で一生苦しむ事になっていただろう。


そんな2つの悲劇の未来からヒロは、キャラハンとアビゲイルを救ったのだ。


自分と娘を救ってくれた以上、キャラハンはしっかりと罪を償った後に再びその才能を人々のために使ってくれるはず。
もしヒロが困る事があれば、今度は全力でヒロを助けてくれるだろう。


なぜならキャラハンもきっと、タダシの意思を継いでくれるから。

そう強く信じている。


そしてクレイもタダシの意思を継いでくれた。

当然ヒロは誰よりもタダシの意思を継いでいる。



信じられるだろうか?


この3人の超絶天才が、1人の凡人の優しさを受け継いだのだ。
どれだけ大きな力になる事か。

いや、この3人の天才からもまた更に更に多くの人へとその優しさは波及し受け継がれていくだろう。

なんのスーパーパワーも持たない凡人のタダシの小さな優しさが、世界中で助けを求めてる人達をこれからたくさん救っていくのだ。


たくさん。きっとたくさんの。本当にたくさんの人達を。

 

 

もし、どんなにあなたが天才だとしても、その賢い頭を無意味なものに使い、まして人を傷つけるために使うならその力は何の意味もない。

でも、もしもただの凡人だったとしても、その力を誰かを助けるために用いるなら、、、あなたの力は決して弱くない。


この映画はそう言ってくれている。
 

だから、俺達の住んでいる世界にはスーパーパワーなんて存在しないけれど、
各々が持つその小さな力を正しい方向に用いた時、


俺達もいつかなれるかもしれない。




タダシのようなヒーローに。
 

※この批評では文中に登場する作品のネタバレを含みます。

『ハンターハンター紀行』


大好きな漫画を読んでいてこんな事を思った事は無いだろうか?

焦らしに焦らされた凶悪な敵と主人公の直接対決がようやく実現!

なのにいざ戦いが決着すると……うーんなんか納得できない。
イマイチ思ってたのと違う…。

基本的にバトル物の話は、主人公が敵を倒した時に1番カタルシスが生まれるように倒すまでの過程や設定が作られている。

簡単な例を出すと、敵をメチャクチャ悪い奴にして、尚且つ主人公にその敵を倒す理由を与えれば倒した時に一定量のカタルシスが生まれる(例えばその敵が主人公の親を殺していたとか)。

しかし昨今はただそれだけでは読者は満足しなくなってきている。
これだけではカタルシスは生まれづらくなってきているのだ。

では現代のバトル物においては何が必要なのか。

それは、『なぜ勝てたのか』
そのためのロジックが必要なのである。

そしてこのこのロジックには実は2種類あるのだ。


『物理的ロジック』と『精神的ロジック』の2つだ。
 

カタルシスが生まれなかった。
つまり読んでいてなんか納得できなかった時は、
この2つのロジックの要素がどちらも無い場合が多い。

だがハンターハンターのグリードアイランド編には『珍しく』この2つのロジックが含まれているので、ゴンVSゲンスルーを軸に解説していこうと思う。


実はゴンはゲンスルーに物理的ロジックによる勝利と精神的ロジックによる勝利、2回勝っているのだ。

ではそもそもその物理的ロジックと精神的ロジックとはなんなのか

この批評の本題は精神的ロジックの方なので、まずは字面だけ見ればだいだいどんなものか予想できる物理的ロジックの方を
手短に説明しよう。

これは見ての通り、勝つことに物理的にロジックがあるかどうかである。

当たり前だが、通常悪役というのは主人公よりも強い設定で登場する。
悪役が登場時点で主人公よりも弱ければその時点で普通に倒して終わりになってしまう。
なので主人公が到底倒せないくらいの強さで悪役は登場させる必要があるのだ。

しかし悪役を強く設定しすぎると、今度はなぜ勝てたのか納得できないという状況がしばしば発生してしまう。

それを解消するために必要なのが、どうやって倒したかという物理的ロジックである。

一番分かりやすいのは、悪役はとてつもなく強いが1つだけ弱点があってそこを主人公が上手くついて倒す等である。

ならこの点、ゴンがゲンスルーを倒すためにどんな物理的ロジックがあったのか

まず、戦いが始まった時点でゲンスルーはオーラの総量や戦闘経験においてゴンよりも遥かに強い。

にもかかわらず何故ゴンが勝てたかと言えば、弱くても勝てるような作戦を準備をしていたからだ。

具体的に説明すると、総合的な戦闘力であれば力は劣るゴンだが必殺技のジャンケングーを当てさえすればゲンスルーに致命傷を当てられる

しかしジャンケングーの発生には時間がかかるのでゲンスルーに当てるのは現実的に厳しい。
そこで、ゲンスルーを落とし穴に落としてすぐさま大きな岩も穴に落とす。
そこでこちらで用意した唯一の逃げ場所である横穴にゲンスルーが間一髪避難してきた所を、ジャンケングーで仕留めるというものである。


そして最初に取り決めしていた通りに、ゲンスルーは『まいった』と発する事になる。


これがゲンスルーの1つ目の負けだ。
このように物理的なロジックがしっかり練られているので、
ゴンが弱いまま強いゲンスルーに勝てた事に納得できなかった読者はほとんどいないだろう。


そんな当たり前の事説明されなくても分かるよ…

そう思った方がほとんどではないだろうか?


ただ実際には物理的ロジックが備わっている作品というのはそこまで多くはないのだ。

新しい技を繰り出したから勝てた。
戦闘中に何らかの変身やパワーアップをしたから勝てた。
仲間が加勢してくれたから勝てた。

これらの理由で勝つ事が圧倒的に多い。


しかしハンターハンターでは誰かと誰かが戦う時にはたいてい物理的ロジックがある。
特にヒソカ、モラウ、キルア、クラピカ等が戦う時は顕著だ。


と、長々と説明に付き合ってもらった上で酷い事を言わせてもらうが、

ぶっちゃけ物理的ロジックは『そこまで重要ではない』。
あまり重要ではないからこそ、変身して勝つパターンが多かったりするような漫画でも名作が多かったりするのだ。

では重要なのはなんなのか。、
それが今回の批評の本題である精神的ロジックである。

精神的ロジックがどういうものか簡単に説明すると、
一言で言えば、
『なぜ主人公は勝利に値する人間であり、
なぜ敵は負けるべき人間だったのか』
それを理由付けするロジックだ。

そしてちょっと複雑なのだが、ここで言う『勝ち』とは物理的な戦闘に直接は関係無い所の勝ち負けの話だ。

だから物理的ではなくて、精神的なのである。

例えば、
仲間や部下を平気で犠牲にする事で勝ち続けて来た悪役に対して、主人公も仲間を平気で犠牲にする事によりその悪役を倒せたとしよう。納得できるだろうか?

自分がどれだけ不利になろうとも、仲間を大事にする事を捨てないで生きてきた主人公が仲間をむげに扱う悪役を倒すから、カタルシスが生まれるのだ。

この、仲間を大事にしない敵に対して主人公は仲間を大事にしてきたという部分が精神的ロジックである。


ではグリードアイランド編ではどのような精神的ロジックがあったのか見てみよう。

まずゴンとゲンスルーの戦いとその決着を真に理解するためには次の2つの事を知っておく必要がある。

1つ目は、
冒頭で少し触れた通りにゴンとゲンスルーの戦いにおいては先にまいったと言った方が相手にカードを渡すという風に、勝ち負けのルールが2人の間で定められているという事。

2つ目は、
ゲンスルーが駆け引きをする際に大事にしている秘訣だ。


本当の駆け引きをするには相手にいかにイカれているかを分からせる。そうすれば勝てる。

これがゲンスルーのマイルールなのだ。

そしてこのすぐ後にゲンスルーはゴンに対して逆に思わされる事になる。『イカれてる』と…。


前述した通り、ゴンは弱いなりにそれでもゲンスルーに勝てる作戦を用意してあった。

しかしゴンは途中で自分のワガママにより片腕を犠牲にゲンスルーを倒すという思いつきの作戦を実行するが、失敗に終わってしまう。

ゴンの作戦が失敗したと見たゲンスルーは、ようやくこれでゴンが諦めて『まいった』をしてくれると思った。

だが諦めると思ったゴンの顔を見たゲンスルーは戦慄する。



イカれてやがる。遂にこの言葉をゲンスルー自身が思わされてしまったのだ。

そしてゲンスルーはゴンにジャンケングーを当てられ、倒される。

気絶していたゲンスルーが目を覚ますと、仲間の2人も倒されていた。

するとゴン達から驚きの事実を聞かされる。

ゲンスルーは強いだけじゃなくて、頭がとてもキレる男だ。

カードを巡る頭脳戦でも誰にも引けを取らなかった。
ツェズゲラがカードのコンプリートまであと残り7種類とブラフをかけた時も、「けっ、あと5枚だろうが」とあっさり看破していた。

そんなゲンスルーが唯一読めなかった事が1つだけある。


唯一読めなかった事。
それはゴン達の持つクローンの意味だ。

ゴン達は戦いで傷ついたゲンスルー達をも大天使の息吹で治すために、クローンを6枚用意していたのだ。

ここ、グリードアイランドの中で数えきれない程の人の命がゲンスルー達によって奪われた。

そしてゴン達も今頃そうなっていても全くおかしくなかった。

そんなゲンスルー達を、

極悪非道なゲンスルー達を、治すために、助けるために、

ゴン達はクローンを用意していた。

それを知ったゲンスルーの頭の中はもしかしたら混乱していたかもしれない。


ゴンが格上の俺に勝てる保証なんて無かったはず。
どれだけの作戦を用意していたとしても上手くいくとは限らない。

そもそも、俺達はたくさんの人を殺した。
ゴン達と一時手を組んだ仲間達だって全員殺した。

そんな俺達を、助ける意味が分からない。

そんな事のためにクローンを用意する意味が分からない。
そんな事、読める訳が無い。

コイツら、、、


イカれてやがる…


複雑な思考が脳内を巡る中、諸々の言葉を飲み込み、ゲンスルーは最後にこの言葉を発する。

グリードアイランド内において、自らの負けを認め、『まいった』の意味を表すこの3文字を。


物理的にどうやってゴンがゲンスルーを倒せたか、と同じくらいゲンスルーがブックを言うまでの精神面でのロジックが緻密に練られている。

勝てると慢心していた格上のゲンスルー。
格下だが勝てた時にゲンスルーを助ける事まで考えていたゴン。

戦う前から既に勝負はついていたのだ。


何をもってして主人公に勝つ価値があり、何をもってして敵は負けるべくして負けるのか。
この精神的ロジック、その倫理観こそが作者の作家性を何よりも体現する。

これはもちろんハンターハンターだけに当てはまる訳ではない。
最近の売れている作品にはこの精神的ロジックが含まれている事が多い。

一流の作家は皆、一流の倫理観が備わっている。

その証拠に他の作品での精神的ロジックの例も少し見てみようと思う。


例えば、一番売れていて読んでいる人が最も多いワンピース。

その1巻に登場した、もう既に忘れてしまった人も多いであろうモーガン大佐。

彼も実は戦う前から既にゾロに負けている。

モーガンは初登場時にこんな台詞を言う。


もうお気づきの方もいるだろうが、そう。
ゾロとモーガンはまるっきり正反対の考え方をする人間なのだ。

ゾロはリカという少女からおにぎりを貰う。
しかし、それは塩の代わりに砂糖を入れて作った物でとても食べられる代物ではなかった。
しかもその上何度も踏みつけられて、もはや泥のかたまりになっていた。

それでもゾロはそのおにぎりを口に頬張り、こう言う。


大事なのは気持ちなんかじゃない。
どんな物をどれだけの量くれたか、それが大事なんだ。
というモーガンに対して、

大事なのは物そのものじゃない、くれた人の気持ちなんだ。

そう考える。それがゾロという男なのだ。

この時点でゾロという男が、モーガンという男に人間として既に勝っているのが窺える。

ルフィがゾロを仲間にする選択も、このゾロの人間性を見た事で決める。
まだゾロの剣技なんて見ていないのにだ。

そしてヘルメッポは口約束をあっさり破りゾロを処刑しようとするが、ゾロはルフィと交わした1つの口約束を守るために決めるのだ。海賊王の一味になると。


この様にモーガンをどうやって倒したかなんかよりも、
どうしてゾロは勝つに値する人間だったかに重点を置いてロジックが組まれている。

これはゾロだけに限った話じゃない。
ウソップやサンジ、ナミのエピソード等も同じだ。

1人1人に物理的なバトルとはまた別の戦いがある。



『試合に負けて勝負に勝つ』という言葉があるが、それぞれの戦いの中で勝負では既に勝っているのに、試合では負けそうになっている人物。

その人物を負けさせないために、試合部分だけ代行する。
それがルフィなのだ。


ちなみにワンピースにおける物理的ロジックはどうなってるかと言うと、かなりシンプルだ。
『敵の所に無事にたどり着けさえすれば勝ち』というパターンが一番多い。

バギーの元に行きたいのに、檻の中から出られない。
クロの元に行きたいのに、迷って辿り着けない。
クリークの元に行きたいのに、間に海があって行けない。
アーロンの元に行きたいのに、体が海に沈められていて動けない。

この様にあらゆる障害により敵の元にたどり着く事が妨害されるが、いざルフィが辿り着いて敵と対峙すればもう勝ちなのだ(一応砂を血で固めて殴るとか、雷はゴムに効かない、みたいにしっかりしたロジックもちゃんとある)。


ではそこまで物理的ロジック重視ではないワンピースがなぜここまで人気作になってるかというと、先程言った通り、精神的ロジックに比べたら物理的ロジックなんてさほど重要ではないからである。

なんなら、精神的ロジックさえしっかりしていれば、もはや勝つ事に物理的ロジックが無くても良いどころか、物理的な『勝利』自体必要無い。

何を言っているかというと、つまり物理的な戦いには『負けても』全然構わないのだ。


みなさんは日本の歴史上一番売れた映画をご存じだろうか?

興行収入400億を超えて、社会現象になったこの映画を。


『鬼滅の刃 無限列車編』


終盤、煉獄さんは倒されてしまう。
だがこの勝負、本当に煉獄さんの負けだったのだろうか?

そもそも最後の煉獄さんの勝負においては何が勝ち負けの基準なのか。

もし仮に煉獄さんの戦う理由が『敵を倒す事』だったのなら彼の負けだろう。

でも本当に倒す事が目的だったのなら、この場では一旦引いて体力を回復させてから万全の状態で再び戦いを挑めば良かったはず。
彼は列車の5両を1人で守った。その戦いの疲れが既に溜まっていたのだから。

だが彼は引かずに戦った。何故か。

それは彼の戦う理由が『ここにいる者は誰も死なせない』だったからだ。

作中で煉獄さんはこんな事を言う。


たしかに物理的には倒されてしまった。
でも煉獄さんは見事、自身の責務を全うした。

それが彼の戦いであり、そこが彼の強さだからだ。


不死身な人間が戦ったからといってどう感動しろと言うのだ。

傷つくかもしれない。死ぬかもしれない。それでも誰かのために戦うからこそ人の胸を打つ。


不死身だが人を傷つけ殺して喰らわないと生きていけない。
そんな鬼とは正反対に、

煉獄さんは人を守るため、傷つきながら、血を流しながら、自らの命を賭して戦った。

だから彼はカッコいいんだ。

彼は負けてなんかいない。

彼は誰も死なせなかった。


この勝負、煉獄のアニキの勝ちだ。


売れている作品は戦闘でのアクションの華やかさだけではなく、戦う理由等1つ1つのロジックをこそしっかりと大事に描いているのが分かる。

ハンターハンターも同じだ。

意外と言うべきか、実はハンターハンターでも誰かが誰かに戦って勝つ事をゴールとしたエピソードは非常に少ない。

むしろゴンはほとんど負けてばかりなのだ。

試験官ごっこしているヒソカにはあっさり負けてしまうし、
ネテロからは結局ボールを奪えない。
ゲレタには毒の吹き矢を使われプレートを奪われてしまうし、ハンゾーには手も足も出ない。
天空闘技場でもヒソカにはまたボロ負けしてしまうし、
旅団にもあっさり捕まってしまう。
ネフェルピトーの前では逃げる事しかできずに、カイトを見殺しにしてしまう。

なので幼い頃の俺はハンターハンターってイマイチ盛り上がりきらない作品だなーって思っていた。

それともう1つ、幼い頃の俺がそう思った理由がある。

ハンターハンターはあまり白黒つけないのだ。

ゾルディック家に潜入した時は、シルバもイルミも全員倒してキルアを取り戻すのかと思いきや、
そもそも他の家族にはろくに会わないまま終わる。
天空闘技場でもフロアマスターにもならず、ヒソカも倒さない内に終わる。
ヨークシンでの旅団との闘いも、旅団を壊滅させないで終わる。
クロロとの戦闘は描かれないし、そもそも旅団の中で倒したのはウボォーギン1人だけだ。


それは無限列車編の話と同じく、誰かを倒して勝つ事を主軸に話が作られていないからである。

ここまで精神的ロジックの説明をしてきたが、
ではなぜ昨今では物理的に勝つ事それ自体よりも精神的ロジックの方が重要視されるのか。

バトル物の作品には永遠のテーマが1つある。

強い方が勝つ。それでもいいのか?という事だ。

たしかに人類の長い歴史を見ても勝者が時代を作ってきた。
勝てば官軍のことわざの通りだ。

だがもしそれが本当に正しいとすれば、
それこそ悪役が言うようにどんな手を使っても勝てばいいし、何を犠牲にしても強くなりさえすれば良いという結論になってしまう。

しかも歴史と違って漫画は作者が自由に勝者を決める事ができるので、誰かが勝ったという事実だけ描いてもどこか空虚になってしまうのだ。

だからこそ近年では勝つという結果そのものよりも、その勝ちに至る過程とその質が求められるようになってきた。

そして、ハンターハンターでは誰かを倒すというエピソードが少ない分、他の点での勝利が描かれている。


船の上でレオリオとクラピカの決闘を止め、船長に認められたのは何故か。

キリコのお眼鏡にかなって案内してもらえたのは何故か。

ネテロからボールを奪えなかったにもかかわらずゴンが「勝ったァー!!」と叫んだのは何故か。

トリックタワーで本来なら3人しか通れない所を5人通れたのは何故か。

毒にやられたレオリオを助け、蛇に囲まれた洞窟から全員抜け出せたのは何故か。

ハンゾーの方が力は圧倒的に上だったのに彼がまいったをしたのは何故か。

試しの門をよじ登ると言って聞かなかったゴンが守衛さんに気に入られたのは何故か。

ゼパイルが目利きの素人であるゴン達と組もうと思ったのは何故か


全て、ゴンは力で誰かを倒す事とは関係の無い所で物事を解決したり誰かに認められたりしているのだ。


だが作者である冨樫も昔はこういう物語の組み方はしていなかった

冨樫が精神的ロジックを重視するようになったのは、幽遊白書からだ。
それもその中で一番評判が悪いとされている魔界編から。

それまでの冨樫はかなり王道パターンで物語を作っている。
一言で言えば『主人公が敵を倒す』事を話の主軸に物語が構成されていたのだ。

乱童は幽助が倒す。
朱雀は幽助が倒す。
初登場時の飛影も幽助が倒す。
戸愚呂(弟)は幽助が倒す。
仙水は幽助が倒す。

要はその章ごとの一番の敵を主人公が倒す事を最終目標として逆算し物語が構成されている。

そんなの当たり前だ。

フリーザは悟空が倒すし、ラオウはケンシロウが倒す。

主人公が一番の敵を倒す。そんなのごくごく当たり前の話だ。

そしてその当たり前の如く、幽遊白書では幽助が敵を倒していく。オーソドックスな作りだ。

だが魔界編で冨樫の物語の作り方がガラリと変わる。


幽助は最後黄泉を倒せずに終わる。

だからこそ魔界編の終わり方にもやもやした方も多いのだろう。どこか打ち切りのような気がして。

しかし、黄泉を倒せなかった。
それは決してバッドエンドに終わったという事ではない。

今まで通りだったら黄泉を幽助が倒す事をゴールにおいて話が作られていただろう。
だが冨樫はそうしなかった。

ならばその代わりに何を主軸に置いたのか。
それは、『長年に渡る魔界の抗争を、幽助が止める』というゴールを達成できるかどうかだ。

そして幽助は見事にその目的を遂げる。

ここで一番大事なのは、魔界の抗争を止められたのは幽助が物理的に強かったからじゃないという事である。

もし幽助が単に力ずくで魔界を統一しようと考えていたのなら、あっさり誰かに殺られて終わっていただろう。
現にトーナメントの中で幽助は強さでは上位に入れていない。

私利私欲や打算ではなく、
「ただのケンカしようぜ。国なんかぬきでよ」という、
幽助の純粋な思いがもたらした結果として魔界の抗争に終止符が打たれた。

強さだけで何かを解決しないという話の展開は、ハンターハンターだけではなく、幽々白書の魔界編から既に試みられていたのだ。

しかしその試みは初めから奏功していた訳ではない。

結果として幽遊白書は魔界編を最後に連載が終わってしまうからだ

冨樫は『連載を終えて』というタイトルで、幽遊白書を自らの意思で終わらした理由を自作の同人誌に載せている。

その中でこんな事を語っている。
読者が飽きるまで同じことを繰り返すかしか残っていませんでした。同じことを繰り返すに耐え得る体力も気力ももうありません。』
『読者の反響を~全く考えないで自己満足だけのためにマンガ描きたくなってしまいました。その結果できる作品がジャンプ読者のメガネにかなうとはどうしても考えられませんので挑戦を放棄します』


王道を繰り返すのには疲れた。
でも、王道を崩して自分が描きたいものを描いたとしても、
読者を満足させられる出来にできる自信は無い。
だから幽遊白書の連載を終わらせた。

そのような苦悩が窺える。


そして幽遊白書が終わってから約4年後に再び週刊連載が始まる(レベルEは月1での連載だった)。

王道を崩して読者を満足させる出来にはできないと冨樫は弱音を吐いていたにもかかわらず、
新連載ハンターハンターからは少年漫画の王道パターンが限りなく排除されていた。


・主人公がその章の敵を倒す事ありきで話が作られていない。

・ジャンプなのにヒロインがいない。

・戦闘力的なものの数字だけで勝敗が決まらない。

・キルア、クラピカ、レオリオ等の主要キャラを常に全員帯同していない。

・なんなら主人公が長らく登場しなくても物語が進む(王位継承編ではクラピカが主人公的立ち位置)。


もっと細かい所を言えば、


・才能だけで勝ったりしない。
 普通の才能系主人公は才能だけで格上に勝ってしまったり数年かかる修行を数日で達成してしまったりする。
だが、1000万人に1人の才能を持つゴンですら、
「多分俺プロハンターで1番弱いんじゃないかなー」と弱音を漏らすくらい周りと実力差があるし、ゲンスルーと戦うに当たっての放出系修行レベル5の習得は結局間に合わない。

・下手に伏線を回収するような展開にはしない。
 並の作者だと、ドキドキ二択クイズが出題された後に大事な人どちらかしか助けられないという展開を入れたくなる所だが、そんな下手な事はしない。
 蟻編でゴンが「仲間をゴミって言うような奴らに同情なんかしない!」と言った時に、カイトは「それが危険なんだ。仲間想いの奴がいたらどうするんだ…?」と危惧する。
だがその後に仲間想いの敵が現れてゴンがピンチになるみたいな展開は無い。

・引き延ばせる所で無駄に引き延ばさない。
 漫画ではトーナメントでの戦いを出せばいくらでも物語を引き延ばせるのだが、ハンター試験の最終試験のトーナメントはゴンとハンゾー以外の戦いは全部カットされる。
 天空闘技場での100階のカベを超えられるかで1つの展開にできる所を、そんな無駄な事はしない。

・主人公が常に正しいとされていない。
 普通は主人公が正義感にかられて直情的な行動をしても結果的に是とされてしまう事が多いのだが、ゴンが試しの門をよじ登ろうとした事も、負傷したキルアの事を顧みずにゲンスルーに「相手になってやる!!」と息巻いた事も悪手だったとして片づけられる。

・ジンが出て来る。
 基本的にその漫画の最強キャラというのは継続的に登場する事は無い(例えばシャンクスとか)。
神格化されたキャラをボロを出さずに描き続けるのは非常に難しいのだ。にもかかわらず冨樫がジンを出し続けても、ジンの凄さは衰えて見えるどころか魅力が増すばかりだ。


もちろん王道パターンを外せばいいってものではない。
というか、むしろ王道に沿って物語を作るべきである。
それが原則だ。

その方が面白い作品になるし、王道を外せばつまらない作品になる事の方が圧倒的に多い。

でも冨樫は王道を外して、尚且つ面白い作品を成立させたのだ。

僭越ながら俺もそこそこ物語の作り方は勉強してきた人間なので、傑作とされている漫画や映画を観ればある程度その物語の構造を理解できる。

どうしてこういう性質の人物を配置したのか。
どうしてこの台詞が必要だったのか。
どうしてこの展開を入れたのか。
どうしてこういう結末にしたのか。


だけど、、、ハンターハンターだけはマジで全く理解ができない…


どの時点でどこまで考えていれば一体こんな物語の展開が生まれるのか。

だって蟻編ではゴンはメルエムに会ってすらいないんだぞ!?

最強にして最凶の敵が主人公の顔すら知らずに死んでいくって何?

それでずば抜けて面白い漫画として成立してるって何?

そりゃあ休載しまくるよ。

だって本来ならハリウッド映画のように、数人から数十人がかりで数年かけてようやく作れるレベルの話を、
作者が1人の漫画で描いてるんだもん。

それほど先人達が築き上げてきた王道を外すのというのは難易度が高いのだ。


でもね。
実は王道を外してる中で一番驚いたのは今挙げたもののどれでも無い。

ハンターハンターが王道を外している中で俺が一番好きなのは、


『悪役が仲間を大事にする所』だ。


どの漫画でもやっている悪役を悪役たらしめる王道な演出が1つある。

悪役が自らの部下を手にかける演出だ。

売れている漫画はだいたいやっている。

それは単純にその方が読者が悪役に嫌悪感を抱き、その結果その悪役を倒した時に得られるカタルシスが倍増するからだ。


だがハンターハンターに登場する悪役は部下を、仲間を本当に大切にするのだ。




一見、ハンターハンターは平気で人間が死んでいく残酷な漫画だ。




でも、

最終的に、いつも結末を左右するのは強さではなく、優しさなのだ。



ハンターハンターがどんな漫画かと尋ねられたら俺は迷わずにこう答える。


「ハンターハンターは誰よりも優しい漫画だ」


それに比べれば、ここまで散々いかにハンターハンターが素晴らしい漫画かを物語の構造から語ってきたのなんて取るに足らない事だ。


冨樫は自分が描きたい漫画ではもう読者を満足させられないと幽遊白書の連載を辞めてしまったけど、
その数年後にもう一度新連載としてハンターハンターを始めてくれた。


幽白の連載をするのが苦しくなり自ら産んだ愛する漫画に終止符を打つ覚悟を決めてから、再びハンターハンターで週刊連載に戻って来るまで、冨樫にどれほどの苦悩があったかは俺ごときに理解るはずもない。

でもきっと色んな遠回りをしたんだと思う。
一度は挑戦を放棄したけど、悩んで、立ち止まって、時には来た道を戻って、そうやって苦しんだ先に、
また挑戦しに戻って来たんだと思う。


冨樫がまた漫画を描いてくれて本当に良かった。

そのおかげ俺は読めるんだから。

俺が世界で一番好きな漫画、ハンターハンターを。


冨樫、ありがとう。


俺は幼い頃、ハンターハンターは怖いからと親から観るのを禁止されていたので隠れて読んでいた。

でも俺は、子供達にこそ、この作品を読んで欲しいと思っている。

強さよりも優しさが勝つこの素晴らしい漫画を。

そして、もし子供達がその先の人生において挫折した時は思い出して欲しい。
思い描いていた目標への最短ルートから外れてしまった。
もうダメだ。そう思った時は思い出して欲しい。


幽遊白書が終わるという行き止まりにしか見えない悲しさの先にこそ、ハンターハンターという新たな道があった事を。


最後に、紆余曲折を経た末に冨樫が辿り着いたこの言葉をもってこの拙文を締め括りたいと思う。


俺の大好きな言葉。


親であるジンが、自分の子供であるゴンに送ったこの言葉。