※本文はネタバレを含みます
日本で一番好きな映画は何か、と聞かれたら真っ先にこの映画が頭をよぎる。
だが「容疑者X」と比べると地味で人気も少ない。
でも俺はそんなこの「真夏の方程式」こそ東野圭吾作品の中で最高傑作だと思っている。
ミステリー作品には読者を楽しませるための三つの柱がある。
それはフーダニット(誰が殺したか・犯人)、ハウダニット(どうやって殺したか・トリック)、ワイダニット(なぜ殺したか・動機)と呼ばれる。
もちろん東野圭吾もこれらを描くのが尋常じゃなくうまい。
しかしミステリーの中でも特別に東野圭吾作品が大好きな理由は、彼の作品で一番感じられるのが上記三つを経て存在するテーマであり、そのテーマがとてつもなく優しいからである。
いくら犯人が予想外の人物でも、いくらトリックが難解で奇抜でも、いくら動機が奇想天外でも、そこに何の意味も無ければ傑作になりづらい。
人の心を動かし感動させるのは、そこから生まれるテーマだからだ。
では、この作品で描かれているテーマとは何なのか。
それはガリレオこと、湯川が最後に下す決断に表れている。
湯川が最後に下した決断とは何だったのだろうか。
今回、色々な人間模様が描かれる。
海を守ろうとする女性、血のつながっていない子供のために殺人を犯してしまう男性、
何も知らずのその殺人に加担してしまう子供。
自分の子供が血の繋がっていないと知った事でその母親や不倫相手を『恨んで』殺すのではなく、その血の繋がっていない子供を『守るため』に殺人に手を染めてしまうのが実に東野圭吾らしくて好きだ。
そんな家族の愛が動機になっている事の哀しみに関してもたくさん語りたい所だが、今回の批評は恭平に焦点を当てて書こうと思う。
湯川の最後の決断を理解するには、その決断の対象となった恭平が本作で何を知り、何を思い、何を感じたのかを理解する必要があるからだ。
そのために最後の駅の待合室のシーンで湯川と恭平がどんなやり取りをしたのかを見てみようと思う。
実はこの待合室で湯川は一つ恭平を試していたのだ。
恭平が待合室に来た時、湯川は横に置いてある雑誌を手に取り、意味ありげに恭平を見つめる。
これを見て恭平は少し考え、湯川の横に座る。
これが恭平がこの夏、成長した一つの証なのだ。
どういう事か。
湯川が旅館に来た初日の夜、湯川は旅館の1階でソファーに座り新聞を読んでいる。
そこへ恭平が近づいてくる。
この時、湯川は恭平から離れるために座っていたソファーを横にずれる。
しかしこの行動を恭平は勘違いして受け取ってしまうのだ。
湯川が横にずれたのは、自分の座るスペースを作ってくれたのだと。
恭平はありがたく隣に座ろうとする。
そこで、隣に座られないために湯川はとっさに新聞を置いて恭平が座れないようにブロックするのだ。
これで待合室での二人のやり取りの意味が分かる。
「物を置かれるのは座るなって意味」
そう失敗から学んだ恭平の前で、今度は隣に置いてある雑誌を手に取る湯川。
それを見た恭平は「隣に座って良いよ」と、今度こそ正しく湯川の意図を受け取ったのだ。
失敗を経験して成功に辿り着く。物理の実験と同じだ。
湯川は恭平を試し、その結果恭平が成長している事を確認した。
また、「分からくても自分で考えろ」とペットボトルロケットの打ち上げの時教わった通りに、
「博士、僕、花火しちゃいけなかったの」と、自分で考える事で恭平は一つの答えに辿り着いた。
これらを受けて初めて、
「この夏、君は多くの事を学んだ」と湯川は話し始めるのだ。
気休めで褒めるのではない。
実例を示した上で成長した事を伝え、話し始める。
実に物理学者である湯川らしい。
実は恭平が本作で経験した事は、人類が今まで辿って来た道と同じだ。
人類は科学なんて全く知らない原始時代から始まった。
だが次第に科学技術が発展していき、人類の暮らしは豊かになっていった。
しかし後に科学の恐ろしさも知る事になる。
チェルノブイリ原発事故。公害。
そして科学技術の発展から生み出された兵器が用いられ、戦争で多くの人が殺された。
身近な例だと、便利なはずの車や電車、飛行機の事故でたくさんの人が亡くなっているし、包丁や銃による殺人事件も後を絶たない。
「もちろん科学技術には常にそういう側面がある。邪悪な人間の手にかかれば禁断の魔術となる」
これはガリレオシリーズ「禁断の魔術」の中での湯川のセリフだ。
同作品の中で湯川は科学の素晴らしさを子供みたいに無邪気に語り合う姿を見せる一方で、
科学技術の恐ろしさに言及している。
そしてもし、湯川自身の経歴から生み出された、科学技術により他人を傷つける恐れが生じた時はどう責任を取るのか。そういう彼のシビアな面も描かれている。
ノーベル平和賞が誕生した経緯はみんなが知っていると思うが、元はノーベルがトンネル掘削や鉱山採掘等、安全にインフラ整備ができる事を目的としてダイナマイトを発明した。
しかし人々の安全のために作ったダイナマイトは、戦争で人を殺すために用いられるようになる。
自責の念にかられたノーベルが、自分の私財を投げ打ってできたのが今日に至るノーベル賞だ。
科学は人々の暮らしを豊かにしてきた半面、
たくさんの人々や自然を傷つけてきた。
恭平はそんな科学の正の側面と、負の側面の両面を夏の短い間に知ってしまう
恭平は当初、理科なんて何の役に立つんだと湯川に食いかかる。
だが湯川と一緒にペットボトルロケットをする事で科学の素晴らしさを知る。
しかしその後、自分の無知故に人を殺してしまった事に気づき、科学技術の恐ろしさを思い知る。
失意のどん底の中、待合室の椅子に座り、うなだれる。
科学技術の良いところを知り、怖さも知った。
その上でどう進めがいいか、途方に暮れているのだ。
実はこの待合室のシーンは人類が現在いる場所でもある。
科学の素晴らしさと恐ろしさを知り、どのように科学と付き合って進んでいけばいいのか真剣に考える事を強いられ途方に暮れている。
ここで湯川は一つの結論を出す。
それは、恭平と一緒に悩み、考えていくというものだった。
これを聞いた時、正直驚いた。
というのは、本作のテーマは「科学は恐ろしい」にとどまっていてもおかしくなかったからだ。
この事件の犯人とトリック。そこから描きやすい一番のテーマの帰結はそこだし、なによりこの映画が公開された時の時流がそうだった。
この映画の公開は2013年。東日本大震災の翌々年だ。
父が運転する車に揺られながら、まだヒビ割れが残っているアスファルトの道を通って映画館に行ったのを覚えている。
日本が科学のしっぺ返しを受けた。
日本全体が科学の恐さを再認識した。
そんな時だった。
しかし東野圭吾はこの事態をずっと前から危惧していた。
彼の作品に「天空の蜂」というタイトルのものがある。
この物語を簡単に説明すると、一人の犯人が原発の上にヘリコプターをリモートで滞空させ、要求を飲まないと原発にヘリを落とすぞと政府を脅す話だ。
この作品は1995年に刊行された小説で、その時点で東野圭吾が長年かけて取材し、原発のシステム等を調べてあげて書いたものだ。
つまり、東日本大震災が起きる遥か昔から原発の危険性に警鐘を鳴らしていたのが東野圭吾なのだ。
だからその危惧していた未来が現実のものとなった時に、誰よりも声を大にして「ほら言ったじゃん!」と言えた人物なのだ。
そして、この真夏の方程式の中で海底資源採掘の反対派が「海を傷つけるな!」と声を大にして主張する。
それに対して湯川はこう答える。
「地下資源を採鉱すれば生物には必ず被害が出ます。人間はそういう事を繰り返して文明を発達させてきました」
そうだよ。人間や自然を傷つける危険性のある科学技術は全て廃止すべきなんだよ!!
「だがその恩恵はあなた達も受けてきたはずだ」
え……?
衝撃を受けた。脳に直接受けたかのようにずっしりと。
日本の状況もそうだったし、映画を観ていても海を傷つける事に反対する成美に感情移入していて「そーだそーだ!」と賛同して気持ちよくなっていた矢先だった。
その言葉が耳から頭の中に響いて来たのは。
既存の科学技術に対して今、反対の声を無責任にあげるのは簡単だ。
だがその反対しようとする対象によって、今までの人生で自分が一体どれだけの恩恵を受けたかを考えた事は果たしてあっただろうか。
かと言って、このまま何も考えずに恩恵を受け続けるのもまた無責任ではないのか。
どうすればいいんだ……
この映画の中には一つの対立軸が存在する。
海底資源採掘の推進派と反対派だ。
だが彼らの議論は、結論を出さずに終わる。
白黒つけないのだ。
いや、白黒つけない事こそが一つの結論になっているというのが正確かもしれない。
なぜなら、その議論に折衷案をもたらすために湯川はこの地に呼ばれたのだから。
電磁探査。磁石を利用し、なるべく海を傷つけずに行う海底探査の方法だ。
それは双方の視点からしたら十分な解決案になっていないかもしれない。
でも、
「0か100を選べと言ってるんじゃない」
人間、どうしても自分の主張を100にしたくなる。
しかし100にしたい主張同士がぶつかった時、どちらかが必ず泣く事になる。
そこで世の中の問題の多くは湯川が言っているように0と100の中間で解決を図られている。
先ほど挙げた実例の中だと、
包丁は便利だから縛られずに自由に持ち歩いて使用したいという意見と、包丁で人が殺されるおそれがあるから全面的に禁止すべきという意見が対立しているとする。
これらの相反する主張は、銃砲刀剣類所持等取締法(いわゆる銃刀法)で正当な理由がない外への持ち出しを禁止する事でバランスを取っている。
つまり間を取って50くらいの解決策だ。
車の運転や一部の薬の取り扱い等、本来は自由であるべき危険を伴う行動は、免許や資格の取得を義務付けて制限するという、いわゆる消極目的規制で解決を図っている。
公害は環境アセスメントや、排ガスや排水の改善等で起こりにくくしている。
「後は選択の問題です」
この0から100の間のどこを取るか。それをどう選択していくべきなのか。
それこそが湯川がこの映画で最後に出した結論だ。
実は海底資源採掘の推進派と反対派が対立していたように、湯川にも対立する相手がいる。
その相手が恭平だ。
子供嫌いの物理学者と、理科が嫌いな子供。
「理科なんて何の役に立つんだよ」
「……聞き捨てならないな」
対立が顕著になるこのセリフのやり取り。
この時、両者は向かい合って座っている。
対立する両者とは、向かい合う構図になるのが通常だ。
海底資源採掘の推進派と反対派がぶつかり合った時もそうだったように。
しかし湯川は恭平を隣に座らせる。
そして「僕も一緒に考える。一緒に悩み続ける」
そう告げる。
「相手の言い分に耳を貸そうとせず、自分達の主張を繰り返すだけだ」
これは湯川が成美に言ったセリフだ。
成美達の議論に白黒はつけない。
その代わりに、湯川が自ら示す。
かつて対立していた相手に、科学の素晴らしさを真摯に伝える。
そしてその相手が科学の恐さを知った時には、今度は隣に座り一緒に悩み考えていく。
対立していた相手と対話し、寄り添う道を選択したのだ。
(本作の後に位置する作品「沈黙のパレード」では、ガリレオシリーズ1話から苦手だった子供と自ら戯れる湯川の姿がある)
より良い案を出す一番の近道は、一人よりも複数人で考える事だ。
特に一つの案が独走して支持されているよりも、複数の案が乱立して拮抗している状況の方が、より良い案が生まれやすい。
商品企画や映画の脚本もそうだ。
色んな案が出て、意見を激しくぶつけ合う事でより良い案へと昇華される。
意見をぶつけるからと言って、敵だという訳では当然ない。
むしろ味方。いや、仲間だ。真に良い選択をするための。
「博士は成美ちゃんの敵なんでしょ。海を壊す人達の味方なんでしょ」
そう恭平に聞かれて、湯川はこう答える。
「僕は誰の敵でも味方でもない。僕の興味は真理を追究する事だ。真理とは人類が正しい道を進むための地図のようなものだ」
その地図を作るため。
そういう見方をした時、海を壊そうとする人達と、海を守ろうとする人達。
この両者は敵ではなく、仲間になる。
そしてもう一つ絶対に忘れてはいけない事がこの映画では描かれている。
それは「科学は素晴らしい」という事だ。
アルミホイルの件や電磁探査もそうだし、
なによりペットボトルロケットだ。
普通には行けない海の中を、科学の力で恭平は見る事ができた。
玻璃ヶ浦の名前の通り、水晶のように綺麗な海を。
成美が大切な人のために守ろうとした海を。
俺もたくさん感謝している。
数時間あれば全国どこでも行ける交通網、遠く離れた人達と連絡できる電話やインターネット。
なにより、大好きな映画を映画館で観る事ができる。
こんなに素晴らしい時代に生まれて幸せだ。
たしかに、正直、問題は山積みである。
エネルギー、環境、AI、医療用麻薬、クローン。
挙げればきりがない。
あらゆる問題について日夜各所で議論され、SNSでは常に誰かしらがヒートアップしてぶつかり合っている。
著しい改善が見られる問題から、解決の糸口が全く見えない問題まで多種多様に存在する。
そして今ある問題の多くが100年前には予見されていなかったように、今はまだ誰も予想できない問題がこれからもたくさん出てくる。
どうして良いかわからない。
駅の待合室での恭平状態だ。
でも湯川は横に置いてある雑誌を手に取る決断をした。
だから俺は強く信じている。
これから先あらゆる未知の問題が人類に立ちふさがってきたとしても、対立する両者が肩を並べて座り、同じ方向を見つめた時、どんな問題もきっと解決していける。
そんな方程式がこの世に存在する事を。